アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

坂口安吾『恋をしに行く(「女体」につづく)』 「恋愛とは性欲の詩的表現にほかならない」のか?

 

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まずタイトルが、洒落ている。ちょっとそこまで買い物に行ってくるよ、とでも言う風に、「恋をしに行く」。ふしだらな男女の小説を書いてばかりいる安吾が言うと、不思議に格好良く、説得力があって、しびれる。

実際、そんなものなのかもしれない。堀江敏幸は、『回送電車』という本の中で、恋を「永続するはかなさ」と表現している。なんともダンディで格好良い表現ではあるが、きれいすぎるためか、なんだか作り物の言葉のような気がする。これまた男女が出会っては別れる映画ばかり撮っているゴダールは、こう言っている。

 
「今日では、リズムの点ではすべてがみな同じです。人々は車に乗り込んだりパンを買ったりするのと同じリズムで接吻をかわしたりしています。」J・Rゴダール『映画史』
 
愛こそすべてと言う人もあるが、人々は愛だけあってもお腹は減るし、公共料金も払わなければいけない。愛があってもなくても生活はつづくのだ。
だけど愛のない毎日はさみしくて、つまらなくて、物足りない。
だから人々は車に乗ったり、パンを買ったり、髪を切ったりしに行くのと同じように、「恋をしに行く」ものなのかもしれない。
 
恋とは、どういったものだろうか。「恋愛とは性欲の詩的表現に他ならない」と言っていたのは、芥川龍之介であったっけか。この小説では、ある男の肉体の恋が、詩的性欲の移り変わりが描かれている。ある女に恋をして、肉体が欲しいと思い、執拗に言い寄る。苦労の果てにやがて男はその女と肉体関係をもつようになる。恋をして、あの手この手で近づいて、実を結び、むつびあい、その果てで、男が思うこと。その最後の独白が、見事である。
 
魂とは何物だらうか。そのやうなものが、あるのだらうか。だが、何かが欲しい。肉欲ではない何かが。男女を繋ぐ何かが。一つの紐が。
すべては爽やかで、みたされている。然し、ひとつ、みたされていない。あるひは、たぶん魂とよばねばならぬ何かが。

 

 
僕は恋愛とは、性欲の詩的表現などとは思いたくない。それでは少しさみしすぎる。人間は、血と肉の詰まっただけの袋ではない、と思いたい。
二人一緒の時間をたくさん過ごして、いろいろな場所へ行って、たわいのない話もまじめな話もたくさんして、お揃いの記憶を集めて、だんだんとお互いの”たましい”を通わせていく。そういったものであったらいいと思う。

太宰治『富嶽百景』 ぼくのかんがえるさいきょうの作家

 

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作家と作品の関係は、しばしば論争の対象となる。作品と作家の私生活とは関係がないという人もいるが、批評では作品と作家の生い立ち、環境、日記などを照らし合わせて作品を分析する、という方法がよく行われている。
 
中でもとりわけ作品が、作者の生活や人生と結びつけられて語られやすい作家に、太宰治がいる。彼の最後は心中自殺であり、遺作のタイトルは「グッドバイ」である。そのせいで彼はしばしば、まるで死ぬために生まれてきたかのような扱い方を受けている。「人間失格」が、彼そのもののように読まれている。それが良いか悪いか、僕にはわからないが、僕は昔から太宰治が大好きで、彼の作品はほとんど読んだ。「うじうじした暗いやつ」という世間一般のイメージ通りの初期や晩年のものよりも、結婚して精神的な調子も良い時期に書かれた、中期のものが好きである。
 
彼は決して、死ぬために生まれてきたのではない。苦しむのが好きであったことは否定しきれないが、苦しむために小説を書いていたのではない。彼は『一日の労苦』という作品の中で、「作家はロマンスを書くべきである。」と書いている。彼は、文学によって、ままならぬ生活の中に一輪の文化の華を咲かせようとしていたのだ。
 
彼の作品の中で、僕が特に好きなのは、『富嶽百景』である。
生きることと、考えることと、書くこととが一致している。彼の生活が、生きるじたばたが、彼の見た夢が、そのまま文学になっている。
 

日記かと見まごうほどにあけすけに、金銭的な事情やら、心境やら、彼が見たもの、感じたことなどが、素直な言葉で綴られている。太宰治の生活と、思考と、文学が、富士の山を通して境界が曖昧になっていく。日々の実感と、浪漫チックな理想と、彼の文字を書くための右手とが、「富士には、月見草がよく似合う。」という一文に結晶している。僕はそれをとても美しいと思う。『富嶽百景』は僕がこの世で一番好きな小説だ。

 

走れメロス (新潮文庫)

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本谷有希子『生きてるだけで、愛。』 純文学は今どこにあるのか。

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文学とは、生きることだ。純文学とは、その国で、その時代で、その人が生きていくための言葉なのだ。生きとし生けるものの、よろこびだ。生まれ出づるものへの手紙だ。

 
朝、目が覚めて、静かな気持ちで君を想うということ。さみしさや、焦燥感にやられて、騒がしい夜の街へ出かけて、わけもわからず踊ること。きっと幸せなはずなのに、なぜだか泣きたい気持ちになること。人と人とはわかりあえない、と信じたくないこと。
 
人が感じて、人が考えて、人が吐き出した言葉は、すべて文学になり得るはずだ。どんなにくだらなくても、眠れない夜を過ごして、朝に起きられないってことでも。喜びも悲しみもさみしさもためらいも、きっと無駄なんかじゃないって、生きているだけで、愛だって。そう叫んでいるこの小説は、たとえ眉をひそめたくなるような言葉遣いであっても、紛れもなく二十一世紀の日本の純文学だ。

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

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ジュリアン・グリーン『アシジの聖フランチェスコ』

映画『ゴダールのマリア』で、主人公が読んでいたのが気になって、学校の図書館で借りて読んだ本。

アシジの聖フランチェスコは、13世紀の人で、教会の権力化に伴う腐敗がすすむ中、聖書の言葉を信じて祈り、語り、行動をして、生きた実在の人物で、聖人とされていて、早すぎた福音主義者だとか、第二のイエス・キリストだとか言われている。

この本は、著者ジュリアン・グリーンが、聖フランチェスコの生涯を、著者がさまざまな記録を比較・検討しながら、熱意を持って、愛を込めて、慎重に、史実に忠実に、素朴な言葉で、美しく描いたものである。

 

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 アシジの聖フランチェスコ

フランチェスコは、神様を信じた。神様を、キリストを、神様やキリストの言葉である聖書を深く信じた。そして、こよなく愛した。

彼は、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、何一つ不自由のない少年時代を過ごした。そして青年時代には、お金をたくさん使って、贅沢の限りを尽くして遊び回った。やがて当時の流行であった騎士道精神に感化され、騎士を夢見るようになり、挫折し、また放蕩の限りを尽くした。彼はその生活を心の底から、全身で謳歌していた。その徹底した駄目っぷりは読んでいて心楽しく、彼の気持ちの一つ一つがよくわかった。聖人とて、生まれたときから立派であったわけではないと思うと、おかしかった。

様々な原因や偶然が重なり、やがてフランチェスコは改心し、神の道を歩むようになる。彼は神を、神の言葉を深く信じるようになった。それから、彼の生涯は、神と共にあることに捧げられた。

その後の彼は、聖書にもある「清貧・貞潔・服従」をモットーに、それまでの富すべてを捨てて、その後の生涯を通じて世界を放浪する。彼は、己の肉体と、神の言葉と、愛以外は、何も所有しなかった。彼は祈り、語り、物乞いをし、歌い、神の恵みを歓んだ。やがてそんな彼を見た人々が仲間に加わり、兄弟会となっていくのだが、彼らのひたすらわかち合い、祈り、そして歓ぶという姿勢は彼の死の際まで一貫していた。

フランチェスコは愛の人である。隣人への愛、自然の美しさへの愛、神への愛、そして神が造りたもうたこの世界への愛。愛をもって、彼はこの世の全てを歓んだ。その素朴な美しさに、読んでいて強く心を打たれた。All You Need Is Loveっていう噂は、本当かもしれないなんて思った。

阿部和重『グランド・フィナーレ』、現在進行形の文体

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小説と、ぼくたちが普段書いている普通の文章との違いってなんだろう。小説と、日記やエッセイや詩、歴史や神話との違いはどこにあるだろう。 小説には、ストーリーがある。というのを小説の定義だと思っている人は多いけど、それだけではないと思う。うんと昔に書かれた『千夜一夜物語』や『デカメロン』や、『竹取物語』は、ストーリーのある物語ではあるけれど、小説だと言う人はあんまり多くない。ストーリーを突き動かすような大事件が一切起こらないような小説だって世の中にはたくさんある。 小説とはなにか、だなんて今の僕には難しすぎる問題なので、いつかに後回しにするとして、おもしろい小説とはどんなものなのか。を考えてみたい。 僕は、ショッキングな題材や、手に汗握る展開や、血沸き胸躍る大事件、予想できない大どんでん返し、巧みな構成、二転三転するストーリーなどを売りにしている小説にはあまり興味が湧かない。どうして?と聞かれても、なんとなく好きじゃない。としか言えない。 この阿部和重の『グランド・フィナーレ』の主人公はロリコンである。そして夜中にクラブで仲間たちと最近起こったテロについて話したりもする。センセーショナルな題材がちりばめられている。でも僕はこの小説を、とてもおもしろいと思った。現代的な題材に興味を惹かれたわけでも、緻密な構成に舌を巻いたわけでもない。それでも夢中で読んで、本を読むのがとても遅い僕にしては珍しく、一日で読み切ってしまった。こんな小説今まで読んだことない、とまで思った。 なにがそんなにおもしろかったかと言うと、阿部和重の文体である。文体は、小説の魅力を形作る大きな要素だ。その人のほかにはないような、魅力的な文体を身につけることができたら、その作家は一生おもしろい小説を書き続けることができるだろう。文体とは、世界認識の方法である。作者の、世界に対するまなざしである。なにを、どんな順番で、どんな風に、どれだけ書くか。小説家によって文体というのはかなり違っていて、あっさりしていたり、ベタベタしすぎていたり、なんだかボーッとしていたり、思いやりが滲んでいたり、ヒリヒリしたりする。 ではこの『グランド・フィナーレ』での、阿部和重の文体とは、どういうものかというと、僕は読み初めてすぐに、現代的な文体だなあ。と感じた。その理由は少しあとに書くが、まずは彼の文章を読んでみて欲しい。この小説はこんな風な文章で始まっている。

 可愛らしいピンク色のウサギと青色の子グマが手を繋いで横に並び、眼前に立ちはだかっている。

 どちらも一丁前に小洒落た洋服を着込み、頭に花飾りなどを付けて粋がっている。

  どこからか、バニラ風の甘い香りが放たれてもいるようだが、微かな程度にすぎず、嗅ぎ取った直後に消え失せてしまった。

 傍らを通りすぎていった年配の女性客が付けている化粧品の匂いか、ベビーボーロとかミルクプリントかの菓子類を食したばかりの赤ちゃんの口臭が、空調の風に乗ってわたしの鼻先に届けられたのかもしれない。

 僕はこの文章を読んで、機械的な印象を受けた。いま目に見えるもの、感じたことを順番に、精密に記述していく、そんな文章だと思った。この小説の中にもたびたび登場する機械「カメラ」のように、淡々と、立ち止まらずに、目に映ったもの、心に起こった情念を書き取っている。小説家には、自分語りが好きな人がたくさんいて、しょっちゅう立ち止まったり、同じことを何度も言い換えたり、ベタついた言葉を使う人が多い。しかし阿部和重は、かなり意識的に、この現代的な、機械のような、直列的なまなざし・文体を貫いている。だから、この小説は情報量が多く、それでいて映像を観るようにスラスラと読める。そして、そこに物事の大小だとか、道徳やモラルといったものは一切介入しない。「私」は中枢神経を持っただけのビデオカメラのようであり、自分のことばかり考えていて、他者と積極的にコミュニケーションを取ろうともせず、人間味があまり感じられない。いびつである。そしてそのいびつさを、強調することもなく、隠すこともなく、いびつなまま、小説はどんどん進んでいく。そしてそのいびつさによる違和感が、ぼくたちの普段の考え方や感じ方のズレが、ぼくらが普通考える「人間らしさ」と平行線を描き続けるその様が、だんだんクセになっていく。ずっとこの文章を読んでいたいと思う。この小説を読んでいる時に感じるこの不思議な恍惚、ほのかな高揚感が僕は大好きで、これはこの人の文体によるものなのだ。そしてこのストイックな、無駄のない、カメラが撮った映像を言葉に翻訳したような文体は、今までにあまりなく、僕は初めて読んだ。阿部和重は、この小説でこれまでにない新しい文体を一つ作り上げたのだ。この小説が芥川賞を取ったのも頷ける。

 

グランド・フィナーレ (講談社文庫)

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読む・書く・考える

考えたことを言葉にするのはむずかしい。考えるように読むことも、読むように考えることもむずかしい。書くように考えることもむずかしい。書くように読むことだってむずかしい。読んだことを考えて、言葉にして語ること、すごくむずかしい。

 

読むことと書くことはちがう。読むことと考えることはちがう。考えることと語ることは同じようですごくちがう。言葉にはそれぞれ意味がある。言葉にするということは、切り取ることだ。限定することだ。ほかの意味を、すべて捨て去ることだ。

 

言葉はいつでも遅れてやってくる。たった今考えていることや感じていること、目の前に起こっていることに、言葉は追いつくことができない。しかし言葉によってしか、ぼくたちは、考えていることや、感じたことを他人にわかってもらうことができない。ゴッホの絵画の美しさを表現する言葉はなかなか見つからなかったから、ゴッホの絵はみんなにわかってもらえなくて、彼は生前まったく評価されなかった。

 

考えたことは、語らなければ、それは自分の外側に出ることはない。ほかの誰にもわからない。せっかく考えたのだったら、誰かにわかってもらいたい。「喜びをほかの誰かとわかり合う それだけがこの世の中を熱くする!」と小沢健二は歌っていた。たとえ限りない喜びを感じても、綺麗な景色を見ても、自由で充実した気分になったとしても、それを誰にも伝えられなければ、やっぱり空しい。ここまで書いた時に、何年か前に観た映画『イントゥ・ザ・ワイルド』が頭に浮かんだ。いい映画なのでひまがあったら一度は観て欲しい。いつか改めてくわしく書くかもしれない。

僕は、ここにとりとめのない文章を書き連ねることを通じて、自分の考えたことを、自分の考えたように、自分の考えただけ言葉にする術を少しずつでも身につけていけたら、と思う。

 

古代ローマの雄弁家キケロは、「哲学と弁論の一致」を生涯探し求めて、立派に体現した。僕の敬愛する小説家・保坂和志は、小島信夫の『私の作家遍歴』を評して、「(この本が)すごいのは、『読む』と『書く』と『考える』が完全に一体化しているところだ。」と言っている。僕が考えるすばらしい文章とは、この読む・書く・考えるが一体化しているものだ。考えなしに書かれた文章はつまらない。読むことなしに、一人きりでうんうん考えて書かれた文章もあんまりおもしろくない。あたりまえの範疇から飛び出すことができていないことが多いからだ。

読む・書く・考える文章にあこがれるのは、それがおもしろいからだ。そういう文章は、人類が言葉を話すようになって以来、たくさんの言葉によって形作られてきた現在の世界像・感性・人生観に、ちょいと一筆描き足すようなもので、そういったものを読むと、大げさに言えば、自分の見える世界が少し変わったような気持ちになる。

 

先日、ゴダールの「表現と感化のちがい」に関する文章を読んで、これは素敵な文章を書く手がかりになりそうだ、と思った。少し長いけど引用して、今回はおしまいにします。

私はいつも他人の言葉をコピーしてきました。私が最初にコピーしなければならなかったのは、すべての人の場合と同様、パパとママの言葉です。それに私は、複写と印刷の歴史に興味をひかれます。また私は今、人々とは違って、<感化すること>と<自分を表現すること>を区別して考えはじめています。

(中略)

私が思うに、<なかから外に出すこと>である<表現>と<外からなかに入れること>である<感化>の間には、ある違いがあります。また、ひとつの関係があります。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そしてこのことこそ、私が今、より意識的でより明確なやり方でしようとしていることです。

ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史』p.66-67 

 

 

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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キケロー弁論集 (岩波文庫)

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ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)

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ブログ始めます。

一人の人が見てきたもの、聞いたこと、行ったことのある場所、好きなもの、嫌いなもの、感じたこと、考えたこと、知っていること、覚えていること、忘れてしまったたくさんのこと。そのようなものたちは、いつかその人がいなくなってしまったら、それっきり全部どこかへ消えてなくなってしまうのだろうか。消えてしまったら、初めから何もなかったのと同じことなのだろうか。

もしもそうだとしたら、とっても贅沢で、素敵なことのように思える。だけど、やっぱりすこしさみしい。心細い。

俺は、普段ヒマな時間をたっぷり持て余しているので、本を読んだり、映画やアニメを観たり、音楽を聴いたり、散歩をしたりしながら、たくさんいろいろなことを考える。たくさんたくさん考えて、そのつどほとんど忘れてしまう。

俺の頭の中は、日々刻々と変わっていく。昨日は恋人が死んでしまう映画を観てかなしい涙をこぼしていたのが、今日は朝から晩までゴロゴロ漫画を読んで、明日にはウォッカを片手に夜の街に繰り出してはしゃいでいたりする。同じ日に人にやさしくなろうと決心したり、あんなやつ早いとこくたばっちまえと願ったりする。欲張りはよくないと反省したばかりなのに、数時間後にはAmazonのカートが一杯になってたりする。

そんな俺の頭の中を、文章にして読み返してみたらおもしろいかもしれない。覚えておいたら後々なにかの役に立つことを、今日の俺は考えているのかもしれない。

そんなことを考えて、なにもすることがないのに早起きしてしまったことも手伝って、ブログを始めてみようと思い立った次第です。

内容はおそらく観た映画とか読んだ本とか、好きな音楽、考えたことばかりになると思います。ちょっとばかりの承認欲求が込められただけの、自分のための忘備録のような文章ですので、温かい目で読んでください。

www.youtube.com

これがスローガンです。