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フォイエルバッハ『キリスト教の本質』を読みながらの覚書

フォイエルバッハの『キリスト教の本質』を読んでいる。二章の中で、神を無限に超越的な存在、何によっても規定されない不可知の存在と考えることは、狡猾に敬虔さを装った無神論である、という主張を見つけて興味深く思った。本文からのきちんとした引用は、後々気力と体力がある時に付け足す予定です。

すべての存在は、何らかの規定を持っている。人間存在は、自らの理性や悟性、感性の限界によって規定されている。それらの限界を越えたものについては、もはや知覚することはできず、従って人間にとっては、人間の諸能力の限界を越えて感得される事物なるものは存在しない。
神を無限に超越的なもの、何によっても規定されないものであると思惟することは、人間にとって必然的に、論理的に存在し得ないもの、非存在に対して、便宜上神という名称を与えるのと、実質的に同じことである。
そうであるならば、「神の存在を信じる」とは、どういうことになるか。非存在の非存在性を信じるということなのか、非存在の存在を信じるということなのか。前者の命題は、現実世界において、何らの対応する意味内容を持たない、無意味な命題である。そして後者の命題は明らかな語義矛盾であり、従って無意味な命題である。つまり、神を何らの規定も持たないもの、人間にとっての非存在として捉える限り、「神の存在を信じる」ということはいかなる意味でも不可能となる。
以上のことから次のことが帰結する。人間にとって、「神の存在を信じる」ということが可能になるためには、神は人間にとって知覚可能なものでなければならず、言い換えれば神は人間が作り出した神でなければならず、そのためには何らかの規定、人間の理性や悟性、感性を規定しているのと同様の規定を持たなければならない。その意味で神は人間の本質の反映である。フォイエルバッハの主張は概ねこのようなものであると思われる。

神を人間の本質の反映と見る見方は、超越的な存在であるはずの神を、被造物である人間が自身の尺度に合わせて矮小化する行いであるように思えてならないが、人間が自身の尺度に合わせて対象を矮小化する以外に、人間の類としての限界を越えた対象を認識することはできない。人間にとって神が存在するためには、神は人間が作り出したものとならざるを得ない。
これに対して反駁することは可能なのだろうか。可能だとしたら、どのようにしてか。考えてみたい。