アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 コンビニで発泡酒を買うためだけに家を出て、自転車が多い割に狭い歩道を、引越したての頃は落ち着かなかったがもう大して危機感を抱くこともなく歩いた。予定通りコンビニで発泡酒だけを買った。こういうとき他の商品は一切見ない。コンビニの棚をじろじろ見て回って、どれも欲しくないけどPOSシステムが導入されているからにはこれらの商品にはすべてそれなりの数のリピーターがいるのだなどと感慨に耽ることも最近はあまりしなくなった。コンビニ以外では見ない小さいサイズの袋に発泡酒を入れてもらい5分もかからない道を帰る。帰り道は行きとは違う道を通って、行き帰りの道をつなぐと一つの円になるような道順で、常連以外は入りにくいような小さな飲食店の裏道を通ると魚の頭が落ちていた。日が長いことにもう何にも思わなくなったが、雲のちぎれ方がいい感じだった。

 

 リー・ペリーを聴きながら発泡酒を飲む。買ったはいいけど食べていなかったポテトチップス枝豆味を開けた。ダブは僕が一番気楽に聴ける音楽ジャンルの一つで、リラックスできるというより、ひたすら怠けることに積極的な意味が付与される気がしていて好きだ。特にリー・ペリーは酔っ払ってつまみを回しているとしか思えないくらい過剰なリバーブやディレイのかけ方をするので、何にもしたくない時、頭をぼんやりさせていたいときに聴くには最高の音楽だった。

 

 シリーズケアをひらくの『技法以前』、『居るのはつらいよ』を立て続けに読み終えた。どちらも素晴らしい本で、まだ消化しきれていないのであまり書くことは浮かばないけど、居るということは風景のように描かれるしかない、居るということの価値は説明的に記述することは難しい、というようなことが書いてあって、確かに人のいる風景をぼんやり眺めること、そこに溶け込んでみること、それをふと思い出すこと、などにはなんとも言えない気持ちよさがある。記憶の中の風景、思い出す音楽。大学時代の何気ない日常のワンシーンがふと頭をよぎる時がある。過ぎてしまうまでそのかけがえのなさがわからなかったわけではない。僕は高校生の頃にはすでに小沢健二を聴いていた。だから二度と戻らない美しい日にいるという自覚をその頃から持っていた。とはいえ過ぎた日々は懐かしい。ところでデイケアとはなんだかサークルのような場所なのかもしれないと今思った。人の入れ替わりはあれど構造自体は変わらず、ずっと続いていくような円環的な時間が僕がいなくなった後も僕がいたサークルでは流れている。そのことをSNSごしに度々目にする。

 

 最近滝口悠生の小説がぽつぽつ文庫化されだした。文庫になったら読みたいとかねてから思っていたので『死んでいない者』を買ってきて発泡酒を飲みながら読んでいる。散文の面白さというのか、小説の面白さというのか、そういうものがぎっしり詰まっていると感じる。それは細部へのまなざしであったり、突飛な連想だったり、時間感覚であったりするが、小説は面白いということを改めて思い出した。細部というのか、どうでもいいことというのか、意味のないもの、結論の出ないもの、そういったものへの関心はずっとあって、最近は特にそういうことをぼんやり考えているので滝口悠生の小説はしっくりきている。残らない記憶とか時間とか、思い出せない会話とか、すぐに忘れてしまう出来事とか、そういったものをすくい上げていくようなこの小説に安心感のようなものを覚えている。こんな小説を書いてくれる人がいるうちは大丈夫だという気がしてくる。何がどう大丈夫なのかはわからないが、この小説を面白く読めている自分もまた大丈夫だと思える。まだ半分も読んでいないので的外れなことを書いているかもしれない。