アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 昨日から珍しく土日が休みだったが、二日間休みがあることをすでに二連休と呼ぶようになっているくらいシフト制の勤務形態に頭が支配されてきている。シフト制で働いているとシフト制なりの時間感覚が身についてくる。三日行ったら一日休みがあるというのは例え睡眠をミスってもすぐに休みが来るので取り返しが効くという点は良い。また早番の日の翌日が遅番だったりすると半日休みくらいの時間が空くので得した気分になる。悪い点としてはとにかく休みがすぐに終わる。それと派手に遊ぶことができない。毎日の流れの外にはみ出すような遊び方をしてしまうとそれを立て直すだけの時間がないのでごたごたしてしまう。とにかく時間が細切れで認識される。曜日感覚だとか、一ヶ月の長さとか、そういった時間感覚が鈍くなってくる。最近買ったつもりの牛乳が四日前に買ったものだったりするし来週と言われてもピンとこない。浅い息継ぎを繰り返してずっと泳いでいる。ここがどこだかよくわかっていない。

 そのように継ぎ接ぎした毎日の内部で、なるべくはみ出さないように楽しく暮らすということをとりあえず試みてみている。料理をしたり白黒映画を観たり本を読んだりしながら日を送っている。あとは近所に友達が住んでいたらいいのにと思う。平日休みの時に電車に乗らずにちょっと一杯ひっかけられたらいい。時間がないから本の回転速度が遅くなって節約になっている。就職してから今まで買った本はすべて萩原朔太郎関係のものだ。それは彼にまつわる問いの深さ、彼が生きた場の広さ・複雑さによるものでもあるけれど、たとえば那珂太郎などは長期間にわたってしばしば朔太郎についての評論を書いている。その間の那珂太郎のなかでの朔太郎の詩の評価の推移もおもしろい。あるいは彼の内部で朔太郎の詩がより深まったさまを見るのもおもしろい。また大正三年ごろの朔太郎、『月に吠える』に収録されることになる作品が書かれ始めるその頃、何が朔太郎の詩を決定したか、という問いがある。それに対しては菅谷規矩雄『萩原朔太郎1914』や北川透の著作が詳しい。前者は主に時代的影響について述べ、後者は彼の描いていた詩論が彼自身に与えた効果について述べている。『月に吠える』前夜に、朔太郎の身に何が起こったか、という問いはそのまま、日本の現代詩は、口語自由詩はどのようにして始まったか、また定型を離れて詩を詩たらしめるものは何か(「詩と散文の違いは何か?」)という現代においても解決はされていない難題に直結している。それは論者によってリズムであったりイメエジや喩の強度であったりして、それが各者の立場をそのまま反映しているように思える。また、朔太郎が生きた時代と比較的近い時期に書かれた評論、伊藤信吉や三好達治によるものを読むと、そういう成立過程だとか時代情況への視点というものは当然欠けていて、その分朔太郎の実人生と照らし合わせて読んだり彼の残したテキストを愚直なまでに読み込んで彼なりの読みを打ち出したりと、後世のものにはない泥臭いアプローチをしていておもしろい。萩原朔太郎の伝記としてもその詩業の概略としても伊藤信吉の二巻本『萩原朔太郎 I 浪漫的に』『萩原朔太郎 II 虚無的に』は滅法おもしろい。萩原朔太郎についてはまだまだ語りたいことがたくさんあるのでまた書く。