アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 のがれがたい死というものを、どのように自分が膚でつかむか、といってもたいがい忘れているが、それでいて現世の肉体の甘美さというものを、どうしていっしょに考えるか。このことは、なるべく心の中で整理し、全身でわかりたいと思っている。
—  小島信夫『小説家の日々』

 

 昨日小島信夫のこの文章を引用したが、のがれがたい死というもの、現世の肉体甘美さのその両方を一緒くたに、ぼくも全身でわかりたいと思う。それは脳よりも腕に多くのニューロンがあって、脳とは別に8本の腕が自律的に思考できるかのようにふるまうと言われている頭足類の進化に想いを馳せるに至るには十分な動機になった。ピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題』はいずれ近いうちに買って読みたいと思う。赤子は触覚によって世界と触れ合い、知っていくと言われているが、触覚というのは大人になるとあまり省みられないものではあるがやはり重要な世界認識の手段の一つで、僕はこれまであまりにも視覚にばかり頼ってきたので、もっと聴覚とか触覚とかも使ってものを考えたりしたいと最近は思っている。四月からは触れるだとか声をかけるということが大切になってくる仕事をするわけだし。

 
 小笠原鳥類の詩を読んでから、魚類や海岸動物、海の生き物への興味が出てきた。魚、という語を見るとつい反応してしまうようになった。海のドキュメンタリーやら熱帯魚の図鑑を眺めるようになった。行く場所に迷ったら水族館を目指すようになった。シイラの銀色に泳ぐ姿が時々眼裏でまたたくようになった。シイラの名前の由来には諸説あるが、その中の一つに、水死体のまわりに集まっていることが多いことから、死、衣、らはなんだっけ、忘れちゃった。名古屋港水族館にあった荒俣宏の魚の博物図鑑で読んだ。唐突だが小笠原鳥類のいい所の一つは知らない名前に宿る素朴なポエジーに対して正直なところだ。

 ジム・クレイスの『死んでいる』の中にもモンダジーの魚という文句が繰り返し出てくる、モンダジーの魚というのは、不運な死を表すもので、モンダジーというのは、調べてもよくわからず、ジム・クレイスの創作かもわからないが、文筆家の人名らしい。モンダジーの著書の中で、魚をおそれて暮らす町の人々についての記述がある、ということになっている。

  

“死さえも──復活した街の民間伝承(これもモンダジーの作品)によれば──水まみれだった。「われわれはそれを『魚』と呼ぶ」と彼は、三十年以上前に出版された最後の回想録に記した。「それは泳ぐ。物音を立てない、非情の略奪者。夜に海から出てきて、通りの、浅く抵抗力の少ない水に勢いよく入っていく。魚がやってきて、あなたの父や母を寝床から連れ去る。魂が出発し、じっとりと冷たい空気の中で螺旋を描きながら転置するとき、あなたに聞こえるのは、鰭が震える音だけ」彼の迷信深い読者や信奉者は、モンダジーの魚は、死体の銀めっきとして、あるいは死体のにおいというかたちでのみ現れるとよく言っていた。死神はほとんど眼に見えない。けれどもすでに部屋の中にいた。そして、シーツに鱗と粘液の跡を残してくのだった。
かなりのあいだ、街で死人が出ると、どれも魚のせいにされていた。それは、雨をお供に屋根を伝い、寝室を抜け、ガン、心臓麻痺、老齢、脳卒中が看護師と薬を嘲る病棟を抜けて泳いでいく。それは、サンゴ礁の家具に囲まれてパジャマ姿で溺れた人々を訪ねる。日に十回、それは喘息患者のしわがれた喉で鳴る死に際の音を聞き、あるいは、舗道を抱き込むような雲に突然視界を遮られて車にはねられた子どもに付き添うために急ぎ、あるいは、じめじめした家に住んで肺が水袋になってしまった年金生活者の死因を、誰もが魚のせいだとわかっているのに、医師が「肺炎」と書くのを見届ける。
(中略)年老いて万端整うまでは死にたくないと思っているウェトロポリスの賢い人々は、ベッドのヘッドボードに網を広げておくか、首に釣り針のついたチェーンをかけていた。モンダジーが魚を復活させて久しい今でさえ、生き残っている街の男女は魚をまったく口にしないし、ネコの餌の缶詰でも、魚はいっさい家に置かない。彼らは、一九六八年にパイシーズという港のレストランで起こったことを記憶している。婚礼の祝宴で、食事をした九人とウェイターが一人、死亡した。魚がやってきて、毒を盛ったのだ。大量殺戮。花嫁は、夫と新婚旅行に行くことなく息絶えた。”

ジム・クレイス『死んでいる』

 

 今年は歌集をなるべく読みたいと思っていて、いくつか読んでいるけど大森静佳がダントツでいい。まだ買えていないけどいま気になってるのは井上法子と堂園昌彦で、今月中には買っちゃうと思う。現代短歌の中でもあまりチャラチャラしていない人たちが好みかもしれない。大森静佳の復刊された第一歌集『手のひらを燃やす』から、魚の出てくる短歌を二つ。

 

光りつつ死ぬということひけらかし水族館に魚群が光る

きみいなくなればあめでもひかるまちにさかなのように暮らすのだろう

/大森静佳『手のひらを燃やす』