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狂気のアメリカン・パイ全作品レビュー

・まえがき
 アメリカの青春コメディ映画の金字塔、『アメリカン・パイ』シリーズ全作品の感想です。有名なシリーズですが、全作品を通して観たことがある人は、意外と少ないのではないでしょうか。先日友人とアメリカン・パイシリーズ全作品を語り合う会を開催するため、8作品を一気に駆け抜けたので記念にレビューを残しておきます。ストーリーのネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
 ちなみに、アメリカン・パイパイなど、いわゆるパチモンも多い本シリーズですが、4作品あるスピンオフも含めて、正式シリーズは以下の8本になります。2020年に製作されていますが、2012年の『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』が完結編とされているため、今回は取り上げません。

・『アメリカン・パイ』シリーズ全作品一覧
アメリカン・パイ』American Pie(1999)
アメリカン・サマー・ストーリー』 American Pie 2 (2001)
アメリカン・パイ3:ウェディング大作戦』 American Wedding (2003)
アメリカン・パイ in バンド合宿』 American Pie Presents: Band Camp (2005)
アメリカン・パイ in ハレンチ・マラソン大会』 American Pie Presents: The Naked Mile (2006)
アメリカン・パイ in ハレンチ課外授業』American Pie Presents: Beta House (2007)
アメリカン・パイ in ハレンチ教科書』American Pie Presents: The Book Of Love (2009)
アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』American Reunion (2012)

・『アメリカン・パイ』American Pie(1999)
 監督:ポール・ワイツ 脚本:アダム・ハーツ
  アメリカン・パイシリーズの記念すべき第一作。友達とアメリカンパイ全作品について語り合う会をする約束をしたので約10年ぶりに再鑑賞。高校卒業までに童貞を卒業する協定を交わして奮闘する男たち。男だけでつるんで、下ネタで大はしゃぎする、ホモソーシャル全開のノリが高校時代を思い出す。セックスのことしか頭になく、それ以外のすべてが見えなくなっていた状態から、ちょっとした失敗や大失敗を繰り返しながら、相手を思いやり、愛することを知っていく。それぞれのキャラクターが個性豊かで、みんな違ったやり方で自分を見つけていくのが良い。
プロムの夜の特別な輝きになんだか涙ぐんでしまう。アメリカの青春映画は沢山あるけれど、これだけ正面切って、プロムパーティを最高に特別な夜として描いた作品はないんじゃないだろうか。バカばっかりしていた高校生活の終わりに、見失いかけていた友情や、本当に大切なことに気づいて、それぞれの新たな一歩に対して乾杯をする。男の子たちも女の子たちもみんな素敵で愛らしい。やることなすことド派手に失敗する主人公ジム、一人だけ彼女持ちだが最後の一歩を踏み出せないケヴィン、アメフト部に所属するオズの正統派誠実イケメンっぷりも眩しいし、フィンチの低い声や飄々とした佇まい、とろんとした目元がセクシー。シリーズ通して物語を大きく動かしていく屈指のトラブルメーカー、スティフラーの存在も欠かせない。あと楽しそうにバンド合宿の話をするミシェルや、達観したアドバイスをくれるジェシカが好き。シャーミネーターのドヤ顔もキュート。
アメリカン・パイの使い方のことをすっかり忘れていて改めて衝撃を受けた。童貞の想像力は世界を塗り替えてしまうほどの凄みがある。あとお父さんのキャラが良い。自分のお父さんだったら多分嫌だけど、良いお父さんだなって思う。お父さんの息子への理解、優しさの示し方が不器用で空回りしてるのが血の繋がりを感じさせて良い。

・『アメリカン・サマー・ストーリー』 American Pie 2 (2001)
 監督:ジェームズ・B・ロジャーズ 脚本:アダム・ハーツ
  前作から一年後、大学生になった彼らが、夏休みに高校時代の仲間と海沿いの別荘を借り、パーティを開いて最高の思い出を作ろうとする。フィンチの相変わらずの、と言うよりもっとパワーアップした飄々とした佇まいと眠そうな目元が好き。元カノのことが忘れられないケヴィンの、「友達でも、君がいない人生よりはマシだ」という台詞が泣ける。前作でも共感性羞恥を掻き立てて止まなかったジムは相変わらず桁違いの大恥をかいている。ずっとバンドキャンプの話をし続けるミシェルを変人扱いしていたが、彼女が楽しそうに思い出を語る意味に、はたと気づくシーン、憧れの人と離れ離れになっていた一年間を語ろうとすると、ミシェルのことばかりが出てくる、楽しかった時間にはいつもミシェルがいる、その気づき方がめちゃくちゃ良い。SUM41の"In Too Deep"が流れるシーンで泣いちゃう。楽しそうに自分の話をしてくれる女の子を見ると好きになってしまう。お茶目なミシェルが一番好き。
あと前作から結構ツボだったシャーミネーターがウケててよかった。シャーマンめちゃくちゃ面白い。
 大学に入ったばかりの彼らにはやりたいこと叶えたいことがいっぱいあってそれが眩しい。彼らは実際に未来を体現していて、いつか大人になって、そんなものは初めから存在しなかったのだと気づくその日まで、未来は未来形で存在し続ける。そんなことを思った。
 お色気コメディでありながら、気取らない純粋な恋愛、友情、親子愛をさらっと描いていて油断していると涙腺にくる良作。

・『アメリカン・パイ3:ウェディング大作戦』 American Wedding (2003)
 監督:ジェシー・ディラン 脚本:アダム・ハーツ
 童貞を捨てることに躍起になっていてジムたちが大学を卒業し、今回はとうとう結婚式を挙げるのが感慨深い。なにかとトラブルに見舞われ、人一倍大恥をかいてきたジムの一生に一度の大舞台となれば、波乱が起きないわけがない。シリーズを通して屈指の性獣、物語の起爆剤、スティフラーが今回は良い意味でも悪い意味でも大活躍!劇場版ジャイアンみたいになってて笑った。ゲイバーでのダンスバトルシーンはヒット曲のクラブアレンジも楽しいし、リバティーンズが流れるシーンが良かった。デリカシーがなく場を弁えないスティフラーの傍若無人な振る舞いは、皆から疎まれながらも、彼らのプロムが忘れられない夜になったのも、女の子たちと出会ったのも、海辺のパーティを大成功に導いたのも、そしてフィンチのキャラを立てたのも、スティフラーが一役買っている。彼の底のない突飛な行動力によって、良くも悪くも忘れ難い思い出が沢山できた。とはいえやっぱり一緒にいたくない。今作では彼の生半可ではない気合を見せつけるシーンがいっぱいあり、主役であるはずのジムをすっかり食ってしまっている感すらある。
 ジムが披露宴でダンスを披露するシーンで、1で見せたあの奇天烈なダンスを再び見られるかと思いきや器用にこなしていてびっくり。3ともなると、みんな10代のバカな若者じゃなくなって、落ち着きを持った大人になってくる。彼らが集まってしゃべる場所も小洒落たバーになっている。飲むお酒も風俗嬢を呼んで騒ぐのも金がかかっている。ケヴィンなんて1Dにいそうな風貌になっている。フィンチだけ回を重ねるごとにやたら尖っていくのが面白い。オズの不在にまったく触れられていないのが悲しい。今回スティフラーが物語の中心に置かれたのは、彼ぐらいしか無茶をしてはしゃいで物語を回すことができる人物がいなかったからなんじゃないかと思うと少し寂しい。
ジムが結婚するとなると気になるのが、今まで頼んでもないのに要らんことをいっぱい教えてくれたお父さんと、結婚にあたって何を話すのか、という点だが、父子の交流が今回はいっぱい描かれていて満足感があった。
 なんだかんだで一番ぶっ飛んでいるのはミッシェルな気がする。彼女と一緒にいたら毎日楽しいだろうな。スティフラーとフィンチの、mother fucker,grand-mother fuckerとなじりあうやり取りが良い。

・『アメリカン・パイ in バンド合宿』 American Pie Presents: Band Camp (2005)
 監督:スティーヴ・ラッシュ 脚本:ブラッド・リドル
 スティフラーの弟を主人公にしたスピンオフ作品。破天荒な兄貴に憧れ、悪戯三昧の悪ガキっぷりを遺憾無く発揮している。本当の兄弟かと思うほど顔つきが似ている。表情の使い方が完全にスティフラーのそれ。
 ひょんなことから吹奏楽部のバンドキャンプを共にすることになったスティフラーが、最初はダサいギーク達だと軽蔑しながらも、最終日の学校対抗の大会に向けて、なんやかんや交流していく話。弟が兄と決定的に違う点は、弟は兄のように奔放に振る舞おうとしている節があり、行動の数々に兄のようになりたいという願望が見え隠れして、つまりスティフラーらしく振る舞うことに執心しているように見える。現に学校の生徒や、周りの大人達から彼は「スティフラーの弟」と眼差されている。吹奏楽部のオタク達、そして疎遠になっていた幼馴染のエリスだけが、彼の度を越えた悪戯を疎いながらも、彼をマットとして、ひとりの個人として見ている。彼の悪名高い家名ではなく、彼の為すことによって彼を見ている。彼の短気な性格が起こしたトラブルによって損害を被れば彼を責めるし、彼の意外な特技によってその埋め合わせをしたら彼を許す。彼の行動の過激さを目当てに寄ってきていた従来の悪友たちよりも、彼を彼自身として認め、歩み寄ろうとしてくれるブラスバンドの仲間たちを選び、彼らしい豪快なサプライズをキメる展開がアツい。ブラスバンドのみんな懐深すぎやろ。
ラジコン式のアーム付きロボットを自作する科学オタクのサックス吹きの少年のキャラが良い。最初にマットに歩み寄ろうとしたのも彼だし。
 あんなに強烈な兄がいたら良くも悪くも影響受けてただろうな。兄の影を追う弟が自分を見つけていく映画だとも言える。

 盗撮はライン越えだろ!!と思ったが一作目ですでにネット配信をしていた。オーボエもアップルパイよりはマシだし。

 本シリーズからは、ジムのお父さんとシャーミネーターが出ている!シャーミネーター好きなので嬉しかった。遺憾なくそのシャーミネーターっぷりを発揮していた。

 本家シリーズと比べるとエロもバカも控えめに思えた。立て続けに観ていて慣れただけかな?とはいえスピンオフ作品でここまで初出のキャラクター達に愛着を持たせるのはすごい。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ・マラソン大会』 American Pie Presents: The Naked Mile (2006)
 監督:ジョー・ナスバウム 脚本:エリック・リンジー
 アメリカン・パイシリーズのスピンオフ第二弾。今回はスティフラー家でありながら童貞の高校三年生のエリックが主人公。2年付き合っている彼女がいるが、心の準備ができないと言われ悶々としている。そんな時悪友達に誘われ、テスト期間後の大学のキャンパスで開催される、全裸マラソン大会に参加することに!というストーリー。
シリーズ恒例の自慰行為が親に見つかるシーンで始まるが、今度は両親だけでなく祖母も加わり、さらに祖母はそのショックが元で死んでしまうし、それもあっさり流される。オープニングだけでこれから始まるのがどういう映画なのか、一発で理解させる導入だった。
 今回はおふざけに定評のあるシリーズの中でも群を抜いたお祭り騒ぎが見られる。屈指のハイテンションっぷり。突然始まり、エロくもないし笑える要素もなく尺が長いアメフトの試合は、アメリカン・パイを観る者の期待に全くそぐわないシーンだが、大学に遊びに行ってハメを外す主人公達を期待する者にこの苦行のような時間を味わわせることで、ずっと恋人にお預けを食らっているエリックの気持ちが追体験できる仕組みになっている。嘘やけど。
 従兄弟のスティフラーが本物のパーティ・ピーポーで、彼が行く先々がお祭り騒ぎになる。スティフラー家で唯一の純粋な人気者。回を重ねるごとにスティフラー一族とジムのパパの存在感が増していく。お待ちかねの全裸マラソンの後、そのまま下着ダンスパーティーに移行するのガチで陽キャ過ぎる。世界で一番陽気やろ。全員テンション高過ぎて観ていて熱出そうになった。
 愛とセックスは別物か?という問いが今作では提示されるが、安心で安全なアメリカンパイシリーズなのでNTR要素はなくほっこりできる。結局みんないい感じに幸せになるからこのシリーズは良い。トレイシーめっちゃ可愛い。乗馬のシーンは伏線のようでいて、白馬は全く脈絡がなく、エリックが下痢しがちであるという設定も気がついたら吹き飛んでいる。携帯電話を失くしてるのに気にするそぶりも見せない。そういった細かな整合性などもろともせずに、勢いだけで突っ走っていくあたま空っぽムービーで楽しかった。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ課外授業』American Pie Presents: Beta House (2007)
 監督:アンドリュー・ウォーラー 脚本:エリック・リンジー
 前作に引き続きエリックが主人公で、脚本にエリック・リンジーが続投されている。彼の描くストーリーのテンションの高さは頭一つ抜けている。前作で純愛を貫いた彼女がイケメンに寝取られた設定で落ち込んだ。前作からそうだったけど今回エリックの影が薄過ぎる。居た?従兄弟のスティフラーはクラブを盛り上げるし面倒見が良いし、身をもって仲間とクラブの伝統を守ろうとする。ゴッドファーザーみたいだった。
 大学に入ったエリックが従兄弟のスティフラーがいる友愛会の入団試験を受けるところから始まる。クラブに入会するための50の試験がこれまで以上にホモソーシャル全開でちょっときつかった。こういう他人への迷惑を省みず排他的なやり方で男同士の絆を深め合うやつ好きじゃない。
 校内では、主人公たちパーティ・ピーポーが所属するベータと、将来を約束された御曹司のオタクたちが集まるイプシロン(通称ギークハウス)が対立している。性の乱れを懸念したギークが、ベータを潰しにかかろうとすることにより両者の対立が激化し、あまりの過激さに40年前に禁止されたギリシャ・オリンピックで決着を着けることになる。
 ヒロインとの初デートで行く、ハンマーで蟹の甲羅を割って殻を散らかしながら食べるレストランが豪快で楽しそう。
 後半のギリシャ・オリンピックがアホらし過ぎて良い。こういう因縁のガチンコバトルみたいな展開は素直に燃える。少年漫画みたい。パルクールの達人のギークの無駄に華麗なアクロバットの数々が良い。そのあと急に唐突なディアハンターのパロディが始まって笑った。ペロポネソスの戦い(55リットルのビール早飲み競争)では、サム・ライミのホラー映画よりも吐いている。サム・ライミよりも口から液体出す映画初めて観た。ギーク達による最大効率の吸収も面白いし、ジェフリーのバルブ全開が格好良過ぎる。中忍試験のロックリーかと思った。
シリーズの中でおそらく一番露骨なエロが多い。大学寮の男女共用のシャワールームとか、ブラ外し大会とか、ガチでハレンチだった。大学行ったらこんな感じなんだ…と思い、薔薇色のキャンパスライフへの憧れが募った。もう大学出てるけど。

・『アメリカン・パイ in ハレンチ教科書』American Pie Presents: The Book Of Love (2009)
 監督:ジョン・パッチ 脚本:デヴィッド・H・ステインバーグ
 破竹の勢いでアメリカン・パイシリーズを観ています。スピンオフ四作目。1に登場したバイブルが再登場。the book of loveをハレンチ教科書と訳す邦題は好き。再び登場人物を一新して、童貞卒業を目指す男子高校生三人組の話。全員キャラが薄いし魅力がない。名前も覚えられないレベル。単調な妄想パートがスベっている。下品で不謹慎なのはいつもの通りだが今回はそれすらも面白くなくて不快感が勝る。
 アメリカン・パイシリーズの魅力といえば個性豊かな、つい応援したくなってしまう登場人物、友人たちとの馬鹿騒ぎ、明るいエロ、奇抜でアホなアイデア、清々しいほどストレートな恋人や家族への愛などが挙げられるが、登場人物に魅力がなく、熱い友情もなければ、ついついほっこりしてしまうような絆もない。3以降あれだけ持ち上げといたスティフラーを今後に及んで急に薄っぺらい嫌なやつにするのもモヤモヤする。公式作品だけど、タイトルだけパクったパチモンかと思うほどつまらない。バターサンドやいつもの喫茶店など、申し訳程度のアメリカン・パイ要素は出てくるが、アメリカン・パイらしさが決定的に欠けている。1のような切実さや特別さがない印象を受けた。
 ジムのパパが出てきて、バイブルの修復作業に乗り出すくだりは、書物の成立過程を見ているようでわくわくする。余談だがアメリカン・パイばっかりみていたら童貞のアトリビュートとも言えるニキビがめちゃくちゃ増えた。

・『アメリカン・パイパイパイ!完結編 俺たちの同騒会』American Reunion (2012)
 監督:ジョン・ハーウィッツ/ヘイデン・シュロスバーグ
 脚本:ジョン・ハーウィッツ/ヘイデン・シュロスバーグ
 高校を卒業してから13年後に初めて開かれる同窓会!オリジナルキャストが大集結しているのが嬉しい。皆勤賞のジムのパパは勿論、ジム、ケヴィン、フィンチ、スティフラー、3では居なかったオズまで!ミッシェル、ヘザーやジェシカ、ナディアやシャーミネーターやMILFの二人組など、懐かしい面々が大集結してるだけでとても嬉しい。シャーミネーター大好きなので彼も同窓会に来て、シャーミネーターっぷりを発揮していたのが良かった。
 30歳も越えて、バカな童貞だった彼らも大人になり、落ち着いてるし、垢抜けている。ある者は結婚して、ある者は父になっている。必ずしも人生は思い通りにならず、なりたかった自分になれているとは限らず、楽しかった思い出は遠く、かつては許されたこともともすれば犯罪になる。変わった部分もありつつ、みんなでふざけて笑っている時の顔は全然変わってなくて良い。家庭生活や仕事や恋愛がうまくいっていてもいなくても、本人がそれに引け目を感じていたとしても、そんなことは関係なくて、楽しかった青年時代を共に過ごしたかけがえのない仲間として互いに尊重し讃えあっている姿に感極まるものがある。1,2に比べて3は少し微妙だと思っていたが、完結編である今作をみると、楽しいカス野郎が親愛なるour dickになるために、3も必要不可欠なアメリカン・パイシリーズの作品だったことがわかる。変わらない友情や、あの頃の特別だった人、共に生きてきた生涯の伴侶、大切な人たちや何度思い出しても笑える思い出が沢山ある彼ら彼女らは幸福だろう。

 時にはお節介なアドバイスをしたり、主にスピンオフ作品で尾鰭がつきまくったジムのお父さんがパーティで弾けるシーンがあるのも良い。長年連れ添った妻をなくして、思い出の中に生きようとする彼が、今度は息子のジムに諭されて今ここから新しい幸せを見つけようとし始めるのが感動的。

 誰もゲロを吐かなくなったが、いつも集まっては駄弁り、高校卒業時に、将来に乾杯した店で、再開することを約束に乾杯して終わるの良過ぎる。これ以上の完結編は考えられない。そして本シリーズの通奏低音をなすmother fuckで締めるの格好良い。3でも使われていて印象的だった女性を高らかに賛美するジェイムスのlaidが流れるのも良い。

・総評
 アメリカのお下劣コメディの名作と名高い『アメリカン・パイ』ですが、シリーズを通して変わらない魅力としては、思わず感情移入して応援したくなってしまう、個性豊かで魅力的なキャラクター達、楽しかった青春時代を想起させる男同士の熱い友情、女の子と上手に話せなかった頃に抱いていた切実な異性への憧れ、自分のことでいっぱいいっぱいだった主人公たちが、相手を思いやることを学び運命の人と出会っていく純愛物語、そして驚くほどストレートに表現された感動的な家族や身の回りの大切な人々に対する愛情によって、思いの丈を素直に伝えることの大切さ、回を重ねるごとに、ライフステージを上がっていき、その時々にぶつかりがちな人生の悩みを正面切って取り上げている点などが挙げられます。下品なネタや不謹慎な笑いのオンパレードなので、カップルで観るのはおすすめしにくいですが、もしもアメリカン・パイシリーズを一緒に笑って観ることができたら、ジムとミッシェルのように、末永く幸せに暮らしていくことができるかもしれません。最後まで読んでいただきありがとうございました。

・お知らせ
 友達のyoutubeチャンネル「あたおか映画チャンネル」にアップするため、「アメリカン・パイ全作レビュー座談会」の様子を動画で撮影しました。現在編集作業中です。公開までしばらくお待ち下さい。動画が上がりましたらtwitterアカウント(@komo198198)でお知らせさせていただきます。フォローしていただけたら嬉しいです。

「不在の百合」とはなにか

 今日、いつものようにTwitterに張り付いていたとき、「不在の百合」なる概念があることをこのツイートで知った。
https://twitter.com/dw_nkmr/status/1349546827826098181?s=20
 また、Twitterで検索してみると、「不在の百合」概念の例示として、うら寂れた田舎の風景や、灰色のロードサイドの光景を移した写真がアップされている。百合とは関係性を愛でるものであるとしたら、人物がいないのであるから関係性は生じないのではないか。また、写真が撮られている地点、カメラの視点は、百合を見出す受け手・写真の鑑賞者の視点と同一なのか、あるいは適切な言い方ではないかもしれないが、百合の登場人物の視点なのか。どちらでもないのか。風景それ自体に百合を見出しているのか、あるいはその風景の中でかつてあった百合らしい出来事を仮構しているのか。
 そして調べてみるとここ数日「不在の百合」概念に関連したツイートが数多くなされており、徐々に広がりを見せている。なぜいま、「不在の百合」なる概念が生まれ、広がりを見せているのか。
 文字通り非存在を表す「不在」と女性同士の関係性を表現するジャンルである「百合」、この一見相反する二つの言葉の組み合わせが生み出すインパクト、そして一体何を表す概念なのかがさっぱりわからないのが気になったので、その語の意味や初出、受容のされ方について少し調べてみた。その結果をもとに簡単な概念分析を試みたい。
 僕はオタク気質ではあるもののアニメや漫画をそこまで追えているわけではなく、ただのライトな百合好きなので、見当外れな点、間違った点が数多くあるかもしれません。気になった点があれば、やさしく指摘していただければ幸いです。色々教えて下さい。

 

 

・「不在の百合」概念の初出
 さて、「不在の百合」概念は、2018年5月のSFセミナーにて行われた、『裏世界ピクニック』シリーズの作者・宮澤伊織さんへのインタビュー記事が初出と思われる。
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
 このインタビュー記事の趣旨は、あくまでも個人の見解であると慎重に前置きした上で、「宮澤さんの考える百合」を明らかにするというもので、まずはじめに「『百合』といえば、女性と女性の恋愛なのかな? というようなざっくりした認識」を持っている読者を想定して、百合をめぐる固定観念の数々を「よくある古い概念」として、そのアップデートを提言する。
 次に、百合の前提へと話は進み、百合の大前提として、「女」の概念が提示される。これは「百合の文脈ではそう言わざるをえない」、「何重もの意味が折り畳まれた圧縮概念であり」、「引用符がめちゃくちゃついて “““女””” という感じ」として強調されている。「日常会話で『女』と呼び捨てのように言うと、けっこう言葉が強いというか、こわい感じがありますよね」と断った上で、”女性”ではなくあえて「女」と呼んでいるからには、この「女」はそのまま”女性”に置き換えて読むことはおそらく不適当なのだろう。生物学的な性別や、社会的に形成された女性性を示すものではなく、オタク文化サブカルチャーの表象における、記号的、キャラクター的な「女」のみを指しているということを意味しているのだろうか。このあたりのニュアンスがつかみにくいので、有識者の方にやさしく教えていただきたいです。
 そして「 “女と女” が百合を理解するために重要な関係」であり、「百合とは何かといえば、“女と女の関係” といえば間違いない」と言われている。前述の「女性と女性の恋愛」は「ざっくりした認識」であり、「女と女の関係」が百合の本質である。一見大差がないように思えるが、ここでは「女性」が「女」になり、「恋愛」が「関係」と言い換えられている。つまり百合とは女と女の関係ではあるが必ずしも恋愛ではない。
 また、女と女の関係があればそれは百合なのかと問われればもちろんそうではない。単なる友達関係など、百合ではない女性同士の関係はいくらでもある。それでは女と女の関係を百合とするのは何なのか。「女と女を結びつける“何か” は「巨大不明感情」と呼ばれたりもしました。2016年くらいに確立した概念ですね。「感情」の動きをちゃんとやるとフィクションの「解像度」が高まるんです。解像度の上がった百合は『強い』。」
 つまり、両者の間に存在する強い感情、あるいは大きな感情が二人の関係を百合にするのであって、そしてその感情の大きさによって百合の強弱が決まる。そして「強い百合」とは「人間を描くということ」であり、感情の強さだけではなく「女性の性欲や肉体から逃げずに書き」、実在感を高めることで百合の強度は高まると言う。
 以上が宮澤さんによる百合概念の説明であり、その後インタビューは当時(2018年)の百合コンテンツの話に移り、ニコニコ動画の自分の好きを語り、他者の好きに共感する「ここすき」文化と百合界隈のコミュニケーションのあり方の類似性に触れられる。
 つづいて、百合は今後どのような可能性を持っているかという話になった際に、人間とタコの交流を描いたノンフィクション作品『愛しのオクトパス』のとある描写に「異種間&歳差百合」を見出したと語る。本来百合作品として描かれたのではないものに対しても、百合という関係性を見出すことは可能である。このように、ある既存の関係の上に、あるコードに則った関係性を付与していく、関係性の読み替えの文化は、BL界隈で古くから行われてきたものであり、代表例として天井と床、消しゴムと鉛筆、からあげとレモンなどが挙げられる。BL界隈での関係性の読み替えは、主として”カップリング”、二つのもの・人物が恋愛関係であると考え、それぞれに攻め・受けの役割をあてがうものが主流であるが、一方で百合界隈ではそのような擬人化、無機物をカップリングする発想はあまり見られないと指摘した上で、BLと百合の異なる点として、百合では「逆に「不在の百合」というのが成立しうる」と語っている。これが「不在の百合」概念の初出であると思われる。

 

 

・「不在の百合」とはなにか
 「不在の百合」とはなにか。「不在の百合」とは、どのような意味で使われた言葉であるのか。宮澤さんは説明する。「エモい風景は、それだけで百合」であり、「なぜかデカい風景には、それだけでそこに百合味がある」。宮澤さんがこの着想を得たのは、「海を前にした崖に、草が生えていて、フェンスがあり、灰色の海と空が広がって、無人の2人がけのベンチがある」
画像に、#百合のハッシュタグがつけられた投稿からであるという。
 インタビュアーがそれを受けて、『裏世界ピクニック』の「女子ふたりが農機に乗って、どこまでも広がる草原を走っていく…という扉絵」は百合であるかと尋ねると、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」くと、「轍の上に、錆びて朽ち果てた乗り物が置いてある」が、「かつてそこには2人がいた」。その情景を、「これはもう完全に百合」であるとしている。
 以上の発言と、「どういうわけか、草原って百合なんです」という記述を合わせて考えると、「不在の百合」の成立のためには、人気のない、うら寂れた、茫漠とした、広がりのある風景が必要であると思われる。また、注目すべきなのは着想源であるツイートにしても、「無人の2人がけのベンチ」があり、『裏世界ピクニック』の扉絵そのものではなく、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」いたものが「不在の百合」とされている点である。前提として百合とは「女と女の関係」であることが確認され、BLとは異なり百合では無機物のカップリングが行われにくいことを指摘されているので、風景それ自体に百合という関係性を見出しているのではなく、うら寂れた、無人の、荒涼とした風景に、かつてそこにあり、そして今はもはやない「女と女の関係」を思い描き、それを「不在の百合」としていると思われる。
 冒頭に書いた問いに戻ります。以上のことをふまえると、「不在の百合」概念が宮澤伊織さんの言ったのと同じ意味で使われていると仮定すると、「不在の百合」写真は鑑賞者の視点から撮影されたものであり、寂れた無人の風景のなかに、今はないがかつてあったかもしれない百合を見出すものであると考えられる。

 

 

・「不在の百合」の受容
 上述のように、「不在の百合」概念は2018年7月19日に公開されたnote記事が初出であるが、Twitterの検索結果を遡って見てみてもすぐさま浸透したわけではなく、しばらくは筋金入りの百合愛好家たちの間で、ひそかに囁かれていたようである。
 しかし、『裏世界ピクニック』のアニメ化決定に伴い開設された、テレビアニメ『裏世界ピクニック』公式アカウントが2020/03/08〜2020/07/01にわたり、#裏世界ピクニック#裏ピクのハッシュタグと共に、無人の風景の画像を投稿しており、それらのツイートがされるたびに、『裏世界ピクニック』のファンであると思われる百合好きの方たちが不在の百合概念を持ち出してそれらの画像に言及しているツイートが数件みられ、公式アカウントが「不在の百合」画像の継続的な投稿をやめた7月以降にも、「不在の百合」概念に言及したツイートは断続的に確認できる。とはいえ、この時点では『裏世界ピクニック』ファン以外の目に届くまでには広がっていないと思われる。
 不在の百合概念に言及したツイートの数や、関連ツイートに対するファボ数が増え始めるのは2020年の11月以降である。ねこむろさんの「不在の百合」を題材とした画像のツイートや、2020年11月2日から書かれている、一連のnote記事と、「不在の百合」という語の響きが持つインパクトにより、従来の『裏世界ピクニック』ファンの垣根を越えて認知度が高まったのではないかと思われる。

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320254558879113218?s=21

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320266143584546817?s=21
https://note.com/nekomuro_note/n/n3d5e90923137?magazine_key=mec491b1a84ea

  流れをまとめると、『裏世界ピクニック』原作の作者である宮澤伊織さんのインタビューで「不在の百合」概念が提出され、テレビアニメ「裏世界ピクニック」公式アカウントの発信する無人の写真が「不在の百合」概念の例示として受け取られ、それが概念の拡張の契機となり、ねこむろさんのnote記事に代表されるように、「不在の百合」写真を撮る人々によって肉付けがなされ、「不在の百合」概念の意味する範囲が広げられていっているのだと思われる。

 また、2021年1月4日より、TVアニメ『裏世界ピクニック』の放映が始まったことにより、再度「不在の百合」概念に注目が集まっているのが現状なのだろう。そして、「不在の百合」という語のインパクトに惹かれ、その文脈を必ずしも理解していない人々によって、たとえば「エモ」や「感傷マゾ」のように、さまざまに解釈された「不在の百合」が、いまひとり歩きを始めようとしているのではないか。「不在の百合」はこのまま、インターネット発祥の美的カテゴリーの一つとして発展していくのか、あるいは乱用の果てに形骸化していくのか。これからも「不在の百合」の行く末を見守りたい。

 今回は主に「不在の百合」がどのような言葉として生み出されたか、を見てきたが、またいつかTwitterにおける「不在の百合」概念の受容、およびその使用における意味の変遷を具体的な例を見ながら検討してみたい。

 

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映画『マグダラのマリア』(2018)の感想。

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Netflixでも配信中の、ガース・デーヴィス監督、ルーニー・マーラホアキン・フェニックス主演の映画『マグダラのマリア』(2018)の感想です。

 

マグダラのマリアについて、ルカによる福音書にはイエス様に7つの悪霊を追い出して頂き、自分の財産を投げ出してイエス様に付き従った女性であるという記述があり、またヨハネによる福音書によれば、イエス・キリストが復活後初めて姿を現したのがマグダラのマリアのもとであった。このように、彼女に関しては共観福音書中にはわずかな記述しかなく、その出自や素性は詳らかではないが、キリストの復活を使徒たちに伝える役目を負ったことから、「使徒たちへの使徒」などと称されることもある。一方でマグダラのマリア西方教会に於いては、ルカ7,36-50に登場する、シモンの家でイエスの足を涙で濡らし香油を塗った「罪深い女性」と彼女を同一視する、グレゴリウス1世の見解が広く影響力を持ち、また伝説や伝承においてしばしば改悛した娼婦として描かれ、そのようにマグダラのマリアを表象した美術作品も少なくない。

ところが20世紀になってから発見された外典の写本では、イエスの弟子、使徒として描かれ、またイエスとの親密な関係を匂わせる描写から、イエスの花嫁であるとの俗説を生み出すに至った。このような外典の記述や、フェミニスト神学の動きが相まって、従来のマグダラのマリア像の見直しが図られ、2016年には教皇フランシスコによりマグダラの聖マリアの祭儀が、それまでのように記念日としてではなく祝日の等級で一般ローマ暦に記入されるべきだと定められた。そしてその新しい、イエスの弟子としてのマグダラのマリアの姿を描いたのが本作である。

ルーニー・マーラの美しい顔、慈悲に溢れた優しい仕草、苦しむ人に寄り添う様子はまさに神の国の住人のようだった。イエス伝としては盲人の治癒やラザロの蘇りなど、治癒神としてのイエスが強調して描かれ、従来の、ユダヤ教的な父権的な神ではなく、癒し育む母性的な側面にスポットが当てられている。一方で、涙を流し弱くありうる人としての脆さを持った存在としても描かれる。奇蹟を行う神の子としてのエピソードを強調する傍らで、イエスの人間的な弱さや、神の国の折衷案的な解釈を提示するこの映画のどっちつかずの姿勢には納得がいかない。現世的なところに着地させるなら、パゾリーニの『奇跡の丘』のような描き方の方が良かったのではないか。「徹頭徹尾終末論的でないものは、徹頭徹尾キリスト教的ではない」と、カール・バルトも言うてます。ワンピースがこのオチだったら全員キレるでしょ。

また、マグダラのマリアは従来カトリック権力によって不当に貶められてきたとも考えるが、この映画では今度はペテロが槍玉にあげられている。映画オリジナルと思われるローマ人に壊滅させられた村人を看取るエピソードで、父権的で軍人的なペテロが、慈愛に満ち、優しさのあふれるマグダラのマリアに懐柔されたり、キリストの復活や神の国の解釈について論破したりするシーンには作り手の作為を感じずにはいられない。「それは主の言葉じゃなくて、あなたの言葉でしょう」っていうのはブーメランと言うか、それに続くマグダラのマリアの主張も、聖書にある主の言葉ではなく彼女の解釈としか思えない。福音主義的な立場とフェミニスト神学とは相性が悪いのかもしれない。フェミニスト神学はそもそもエリザベス・スタントンの「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」という言明から始まっており、聖書を一字一句過たない神のみことばとする福音主義の立場とは相容れない。

とはいえペテロに当たりが強いのは、「天の国の鍵」をイエスから授かったペテロが、教会の礎となり初代ローマ教皇であるとみなすカトリック教会への異議申し立てという意味なのかな。カトリック教会の男性主義的な歴史が今作でのペテロに集約されていて、それを乗り越えるものとして新しいマグダラのマリア像が描かれている印象。しかし男性性に女性性を対置して後者を称揚するという構図では結局男性/女性という二分法に囚われたままであり、また旧来のジェンダーロールの強化につながりかねないと言う意味で、かつてキャロル・ギリガンに向けられた批判が今作にも当てはまるかも?

この映画で手放しで好きな点はユダの描かれ方。心優しく、温和で、なかったことにされてきた弱いものの声にも耳を澄ませる。利己的で小賢しい悪人として描かれることの多いユダだが、彼もまたキリストに選ばれた使徒である。使徒でありかつ裏切り者である彼の存在がずっと腑に落ちていなかったが、本作でのユダの描かれ方が一番納得できるものだった。彼は打算から、銀貨に目が眩んで師を売ったわけではなく、キリストの説く救済、神の国の到来、を誤解した故の過ちだった。事実キリストの活躍した時代には当然聖書もなく、キリスト教もなく、文書もなければ教義もない状態で、使徒たちの間で主の言葉に対する解釈が食い違っていても不思議はない。自分で裏切っておきながら首を吊るのも謎に思っていたが、キリストの死によって己の過ちの大きさに気づく、ということなら筋が通るように思える。

家父長制の根強い家族や抑圧的なムラ社会から逃れるところから始まり、マグダラのマリア復権、聖書に潜む男性主義的な価値観の告発、単なる悪しき裏切り者ではない新しいユダ像、フェミニズム的な観点からの聖書の読み直しという意図を明確に感じさせる挑戦的な本作は、マタイ10,34-39にある説教を想起させる。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁を姑に。こうして自分の家族の者が敵となる。」
21世紀になってもなお、こうして聖書をめぐる物語、新しい映画が作られて、さまざまな解釈があり、議論を活発化させていくことは、聖書が今なお生きた書物であることの証であるように思える。テクスト読解とか作品の解釈とかに興味がある人は、元祖テクストである聖書や、元祖テクスト読解である神学の歴史を学んでみるのも面白いと思います。

automatisme 2

オートマティスムシュルレアリスムの技法の一つ。反省的思考の追いつかない速度で書くことによって実現される無意識の書き取り。論理や命題ではなく声を取り戻すための試み。

 

かわいいだけの帯状模様。眩いばかりの脚韻。黄色い埃の積もった部屋で、ミシュレの愛した緑色の大腿骨。緋色のカーテン。落書きめいた名詞の羅列。貸出カードに集まる名前は、海底トンネル、通信ケーブルの類。無脊椎動物の見る夢。

 


土牛蒡のアク抜きに使う酢水の匂いが台所を満たしている。黒い牛のように蹲る雲が横切っていく、失業都市の上空。序列は脱臼し、順列組み合わせのカオスに雪崩れ込む。皺だらけの手、嗄れた声。真赫な髪の夏だった。

 


成長する見込みはとっくに潰えているのに、成長するつもりで設計されている世界。中学三年生になってもダボダボの学ラン。

 


わたしに天国は似合わない。あなたのための讃美歌じゃない。

 


鈍感になれた心が、木星の表面と同じ模様ではためいている。花盛りの棺はなめらかで、夜が明ける速度で崩落する。渇望の漸進的横滑り。奥が突き出る喉笛の、銀色、紛うかたなき手が出る足がし、痺れる、雨だ!!

 


繁殖している、赤茶けた感情、地表を覆い隠そうとしている、敗残者、墓荒らし。エコーの箱の中に混じった砂金。失業都市。

 

 

 

一日の終わりに、窓から光が差さなくなったことを確かめ、厚いカーテンを引く時に、ふと耳のあたりを掠める記憶。友人と酒を飲み交わした折に聞いた当たり障りのない、何らの教訓も引き出せない挿話を繰り返し思い出すことがある。夜の暗さを振り払うかのような明るい暖色の照明、異常なほどに安いハイボール、周回遅れの流行歌、明日の気配は鳴りを潜めて、時計の音は低くなる。インドネシア語で、二匹の犬が噛み合っています、と言うフレーズを諳んじることができると自慢されたこと。近所にスーパーが二つあるが、片方は空調がきつく、あまりに寒すぎるために行くことができない、という話。酒呑みはひとたび飲酒を始めると、そこまで辿り着かなければ満足することができない「最後」の概念が存在すること、など。

 


色の変わりゆく夜の中を、缶チューハイ片手に練り歩く。遊具の少ない公園や珍しくない苗字の家々、掃除のしにくいところにばかり捨てられる煙草の吸い殻、重たい眠気を呼び込むような、住宅街に染み付いた匿名の疲労の気配。

 


あなたとの思い出を作り変えるための手紙、いつか私たちが風化してのち、生き残ったこれらの文字が、私の新しい血肉となるように。

 


階段と手摺りに擦りつけた煙草の灰が、錆びた鉄の色に青みを添えていた。冬の夜に浮かんだ紫煙吹き出しのようで、しかしその中は空白だった。あらゆるものから遠ざかって、二足歩行で、君のことを考えていた。屋上から落ちる最中、去来する心象の、落下する線状の、はみ出した感情を。

 


キングコングの手の中で眠る夢を見た。少し汗ばんだ大きな手のひらからは、草の生い茂る惑星の匂いがした。

 


焼き切れた空の、茜色の果ての、薄く引き伸ばされて褪せた、受話器の向こうで、響いている歌声。あなたがひとりでいる時に聴く音楽。

 


生まれた意味から、離れ続ける二足歩行の、途方もない速度。巡り会う遊星の、二度とは混じり合わぬ軌道。ビエラ彗星。宇宙規模の孤独。よろしくお願いします。

automatisme

パリコミューンの残骸が母国を目指す。大袈裟な身振りの蕩尽、ローソン・コラボ。試供品の空袋。大陸を横断する季節風マルクス国民文庫の背表紙が電子レンジの熱に震えている。豪華客船が波立たせる海面、膨張する音楽、魚介類、貝類、乳化する鯨油。逆再生の哀悼。さんたまりあ。さんたまりあ。

 


アンドレ・マッソンの夏休みの絵日記。エキゾチックな海綿体。耳鳴り、塩気を含んだ、罵詈雑言、デマゴーグ。囁かれるだけ思想、影に覆われ、バロックの光によって照らされる。ヴァニタス絵画を売り捌く。人質の替え玉。空砲、埃を被った万国旗。捩れた静物。生物は涙を流す。

 


意味をかなぐり捨てたラディケ。ピューリファイ、!漂白された詩集。銀幕の上の砂、広島の記憶。塗りこめられた声。鎖に繋がれた、地滑りを続ける、パレスチナの午後。

 


プラトンアリストテレスの時代のプシュケーと、デカルト以降の心の概念とを区別するものは、心の概念は主観的・私秘的であるという点であろう。心身問題と他我問題独我論はその意味で同根である。私にしか感じられない私の心の存在、言い換えれば、私が私以外の心を感じられないという事実、私がどうしても私であるということが、これらの問題の根底にある。

 


長い間女性はまるで自我を持たないかのように、家庭内の労働力として抑圧されてきた歴史がある。ヴァージニア・ウルフは、『自分ひとりの部屋』において、女性の社会進出、地位向上のためには、自分ひとりの部屋を持ち、自分のために使える時間を確保することが必要であると説いた。

 


また、イーフー・トゥアンの『個人空間の誕生』は個人的な空間の誕生と、近代的な自我の成立との関係について述べられているっぽくて、今読んでみたいと思っている。

 


空間と時間は哲学の重要問題であり続けている。空間と時間という概念は人間の認識を成立させるために欠かせない枠組みであるし、個人的な空間と時間が、心という概念の成立に深く関わっているとしたら。

 


読みたい本はたくさんあるがそれをすべて買うためのお金も、読み切るだけのガッツもない。いまはないし、これまでもなかったし、きっとこれからもないだろう。しかし何かに急き立てられて、急いで読もうとしてしまうから、自分の頭で整理する、というステップをすっ飛ばしてしまい、そうすると後々の定着率が低くなる。読んだはずなのに読んだ気がしなくなる。急いで読んで、鵜呑みにすると、次の日にはすべてケロリと忘れる。きちんと咀嚼して、必要ならば唾をかけろ。

 中公クラシックスから出ているデカルトの『省察』の、神の存在証明に関する、第三省察を読んでいて、わからないことがいくつかあり、書かなければ忘れてしまうので、書き留めておく。

「 実際、疑いを容れないことだが、私に実態を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、いっそう大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性(観念において表現されているかぎりの実在性)をそれ自身のうちに含んでいる。さらに、それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実態を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身の内に含んでいるのである。」
 様態のみを表現する観念よりも、実態を表示する観念のほうが大きい。観念が大きいというのは、より多くの表現的実在性を含んでいる、と言う意味である。
 「 ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。なぜかというに、結果は、その原因からでなければ、いったいどこから自分の実在性を引き出すことができるであろうか。また原因は、自ら実在性を有するのでなければ、どうしてそれを結果に与えることができるであろうか。こうして無から何も生じえないということばかりではなく、より完全なもの、いいかえると、より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なものから生じえない、ということも帰結するのである。」
 無から有は生じえない。よって、何かが生じるとすれば、その原因のうちに、生じたものと同等の実在性がなければならない。他に実在性が生じる理由が説明できないからである。
「 しかもこのことは、現実的すなわち形相的実在性(物がそれ自体においてもつところの実在性)を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真なのである。
 (中略)なぜかというに、この原因は、私の観念のうちに、なんら自己の現実的すなわち形相的実在性を送りこみはしないけれども、だからといって、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならない。むしろ、観念は、私の意識の一様態であって、私の意識から借りてこられる形相的実在性のほかはなんらかの形相的実在性をも、自分から要求することはない、というのが観念そのものの本性である、と考えなくてはならないのである。 」
 ある原因が、私の観念のうちに自己の形相的実在性を送りこまないなら、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならないのはなぜか。送りこまれていないものが、原因には存在しているとどうしていえるのか。観念は私の意識の一様態であるから、形相的実在性を、その原因からではなく、私の意識から借りてくるというのがその答えであり、それが「観念そのものの本性」とまで言われているが、それでは、結果は私の意識の形相的実在性に由来し、原因はそれ自身の形相的実在性をもつのであるから、原因と私の意識の形相的実在性を比べることになるのではないか。原因のほうが結果よりも多くの形相的実在性を持っている、といえる根拠はないのではないか。
 「ところで、この観念がこの特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、その原因によるのでなくてはならない。なぜなら、その原因のうちになかった何ものかが観念のうちに見いだされると想定するならば、観念はそれを無から得てくることになるであろうが、ものが観念によって表現的に悟性のうちにある、そのあり方は、たとえどんなに不完全であろうとも、明らかに、まったくの無ではなく、したがって、無から生ずることはありえないのだからである。
 なおまた、私が私の観念において考慮する実在性はたんに表現的なものであるから、その実在性はこれらの観念の原因のうちに形相的にある必要はなく、その原因においても表現的にあれば十分である、などと憶測してはならない。なぜなら、表現的なあり方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同様に、形相的なあり方は観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因には、この原因の本性上、合致するのだからである。」ルネ・デカルト省察』中公クラシックスp.59−61

 観念において考慮する実在性は単なる表現的実在性であるから、その観念を生じさせる原因においてなければならないのも、当然表現的実在性のみではないのか?この真っ当に思える疑問に対して、原因の本性上、形相的なあり方は観念の原因と一致する、と言われても、「そういうものだから」と押し通されただけで、何の回答にもなっていない気がする。形相的なあり方は観念の原因に一致するのではなく、私の意識に一致するのではないのか?

 また、表現的実在性よりも形相的実在性の方が大きいとするのはなぜか。異なるカテゴリーを比較することはできないのではないか。そもそも観念の大きさとはなにか。この前の省察を通じて、外界の事物の存在への懐疑や、感覚の誤りやすさについて述べているが、それではなにによって観念の大きさを把握し、比較することができるのか。なにかを正確に比較するためには、長さにおけるメートル法のような基準が必要である。そのような基準をもとにした比較でないのならば、それは単なる誤りやすい感覚による比較に過ぎず、デカルトの目指す明晰で判明な真実とは程遠いものではないだろうか。

 そもそもデカルトの懐疑説というのは、形相的実在性を疑っても表現的実在性は存在する、というものではないのか?つまり疑いうる世界の中で、唯一確かに思える「私」にとっては、表現的実在性が形相的実在性に先立つのではないか?

 方法序説を読んでいないので、前提が共有できていないのかもしれない。読み進めたら書いてあるかもしれないが、ひとまず気になったので。