アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

automatisme 2

オートマティスムシュルレアリスムの技法の一つ。反省的思考の追いつかない速度で書くことによって実現される無意識の書き取り。論理や命題ではなく声を取り戻すための試み。

 

かわいいだけの帯状模様。眩いばかりの脚韻。黄色い埃の積もった部屋で、ミシュレの愛した緑色の大腿骨。緋色のカーテン。落書きめいた名詞の羅列。貸出カードに集まる名前は、海底トンネル、通信ケーブルの類。無脊椎動物の見る夢。

 


土牛蒡のアク抜きに使う酢水の匂いが台所を満たしている。黒い牛のように蹲る雲が横切っていく、失業都市の上空。序列は脱臼し、順列組み合わせのカオスに雪崩れ込む。皺だらけの手、嗄れた声。真赫な髪の夏だった。

 


成長する見込みはとっくに潰えているのに、成長するつもりで設計されている世界。中学三年生になってもダボダボの学ラン。

 


わたしに天国は似合わない。あなたのための讃美歌じゃない。

 


鈍感になれた心が、木星の表面と同じ模様ではためいている。花盛りの棺はなめらかで、夜が明ける速度で崩落する。渇望の漸進的横滑り。奥が突き出る喉笛の、銀色、紛うかたなき手が出る足がし、痺れる、雨だ!!

 


繁殖している、赤茶けた感情、地表を覆い隠そうとしている、敗残者、墓荒らし。エコーの箱の中に混じった砂金。失業都市。

 

 

 

一日の終わりに、窓から光が差さなくなったことを確かめ、厚いカーテンを引く時に、ふと耳のあたりを掠める記憶。友人と酒を飲み交わした折に聞いた当たり障りのない、何らの教訓も引き出せない挿話を繰り返し思い出すことがある。夜の暗さを振り払うかのような明るい暖色の照明、異常なほどに安いハイボール、周回遅れの流行歌、明日の気配は鳴りを潜めて、時計の音は低くなる。インドネシア語で、二匹の犬が噛み合っています、と言うフレーズを諳んじることができると自慢されたこと。近所にスーパーが二つあるが、片方は空調がきつく、あまりに寒すぎるために行くことができない、という話。酒呑みはひとたび飲酒を始めると、そこまで辿り着かなければ満足することができない「最後」の概念が存在すること、など。

 


色の変わりゆく夜の中を、缶チューハイ片手に練り歩く。遊具の少ない公園や珍しくない苗字の家々、掃除のしにくいところにばかり捨てられる煙草の吸い殻、重たい眠気を呼び込むような、住宅街に染み付いた匿名の疲労の気配。

 


あなたとの思い出を作り変えるための手紙、いつか私たちが風化してのち、生き残ったこれらの文字が、私の新しい血肉となるように。

 


階段と手摺りに擦りつけた煙草の灰が、錆びた鉄の色に青みを添えていた。冬の夜に浮かんだ紫煙吹き出しのようで、しかしその中は空白だった。あらゆるものから遠ざかって、二足歩行で、君のことを考えていた。屋上から落ちる最中、去来する心象の、落下する線状の、はみ出した感情を。

 


キングコングの手の中で眠る夢を見た。少し汗ばんだ大きな手のひらからは、草の生い茂る惑星の匂いがした。

 


焼き切れた空の、茜色の果ての、薄く引き伸ばされて褪せた、受話器の向こうで、響いている歌声。あなたがひとりでいる時に聴く音楽。

 


生まれた意味から、離れ続ける二足歩行の、途方もない速度。巡り会う遊星の、二度とは混じり合わぬ軌道。ビエラ彗星。宇宙規模の孤独。よろしくお願いします。

automatisme

パリコミューンの残骸が母国を目指す。大袈裟な身振りの蕩尽、ローソン・コラボ。試供品の空袋。大陸を横断する季節風マルクス国民文庫の背表紙が電子レンジの熱に震えている。豪華客船が波立たせる海面、膨張する音楽、魚介類、貝類、乳化する鯨油。逆再生の哀悼。さんたまりあ。さんたまりあ。

 


アンドレ・マッソンの夏休みの絵日記。エキゾチックな海綿体。耳鳴り、塩気を含んだ、罵詈雑言、デマゴーグ。囁かれるだけ思想、影に覆われ、バロックの光によって照らされる。ヴァニタス絵画を売り捌く。人質の替え玉。空砲、埃を被った万国旗。捩れた静物。生物は涙を流す。

 


意味をかなぐり捨てたラディケ。ピューリファイ、!漂白された詩集。銀幕の上の砂、広島の記憶。塗りこめられた声。鎖に繋がれた、地滑りを続ける、パレスチナの午後。

 


プラトンアリストテレスの時代のプシュケーと、デカルト以降の心の概念とを区別するものは、心の概念は主観的・私秘的であるという点であろう。心身問題と他我問題独我論はその意味で同根である。私にしか感じられない私の心の存在、言い換えれば、私が私以外の心を感じられないという事実、私がどうしても私であるということが、これらの問題の根底にある。

 


長い間女性はまるで自我を持たないかのように、家庭内の労働力として抑圧されてきた歴史がある。ヴァージニア・ウルフは、『自分ひとりの部屋』において、女性の社会進出、地位向上のためには、自分ひとりの部屋を持ち、自分のために使える時間を確保することが必要であると説いた。

 


また、イーフー・トゥアンの『個人空間の誕生』は個人的な空間の誕生と、近代的な自我の成立との関係について述べられているっぽくて、今読んでみたいと思っている。

 


空間と時間は哲学の重要問題であり続けている。空間と時間という概念は人間の認識を成立させるために欠かせない枠組みであるし、個人的な空間と時間が、心という概念の成立に深く関わっているとしたら。

 


読みたい本はたくさんあるがそれをすべて買うためのお金も、読み切るだけのガッツもない。いまはないし、これまでもなかったし、きっとこれからもないだろう。しかし何かに急き立てられて、急いで読もうとしてしまうから、自分の頭で整理する、というステップをすっ飛ばしてしまい、そうすると後々の定着率が低くなる。読んだはずなのに読んだ気がしなくなる。急いで読んで、鵜呑みにすると、次の日にはすべてケロリと忘れる。きちんと咀嚼して、必要ならば唾をかけろ。

 中公クラシックスから出ているデカルトの『省察』の、神の存在証明に関する、第三省察を読んでいて、わからないことがいくつかあり、書かなければ忘れてしまうので、書き留めておく。

「 実際、疑いを容れないことだが、私に実態を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、いっそう大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性(観念において表現されているかぎりの実在性)をそれ自身のうちに含んでいる。さらに、それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実態を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身の内に含んでいるのである。」
 様態のみを表現する観念よりも、実態を表示する観念のほうが大きい。観念が大きいというのは、より多くの表現的実在性を含んでいる、と言う意味である。
 「 ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。なぜかというに、結果は、その原因からでなければ、いったいどこから自分の実在性を引き出すことができるであろうか。また原因は、自ら実在性を有するのでなければ、どうしてそれを結果に与えることができるであろうか。こうして無から何も生じえないということばかりではなく、より完全なもの、いいかえると、より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なものから生じえない、ということも帰結するのである。」
 無から有は生じえない。よって、何かが生じるとすれば、その原因のうちに、生じたものと同等の実在性がなければならない。他に実在性が生じる理由が説明できないからである。
「 しかもこのことは、現実的すなわち形相的実在性(物がそれ自体においてもつところの実在性)を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真なのである。
 (中略)なぜかというに、この原因は、私の観念のうちに、なんら自己の現実的すなわち形相的実在性を送りこみはしないけれども、だからといって、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならない。むしろ、観念は、私の意識の一様態であって、私の意識から借りてこられる形相的実在性のほかはなんらかの形相的実在性をも、自分から要求することはない、というのが観念そのものの本性である、と考えなくてはならないのである。 」
 ある原因が、私の観念のうちに自己の形相的実在性を送りこまないなら、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならないのはなぜか。送りこまれていないものが、原因には存在しているとどうしていえるのか。観念は私の意識の一様態であるから、形相的実在性を、その原因からではなく、私の意識から借りてくるというのがその答えであり、それが「観念そのものの本性」とまで言われているが、それでは、結果は私の意識の形相的実在性に由来し、原因はそれ自身の形相的実在性をもつのであるから、原因と私の意識の形相的実在性を比べることになるのではないか。原因のほうが結果よりも多くの形相的実在性を持っている、といえる根拠はないのではないか。
 「ところで、この観念がこの特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、その原因によるのでなくてはならない。なぜなら、その原因のうちになかった何ものかが観念のうちに見いだされると想定するならば、観念はそれを無から得てくることになるであろうが、ものが観念によって表現的に悟性のうちにある、そのあり方は、たとえどんなに不完全であろうとも、明らかに、まったくの無ではなく、したがって、無から生ずることはありえないのだからである。
 なおまた、私が私の観念において考慮する実在性はたんに表現的なものであるから、その実在性はこれらの観念の原因のうちに形相的にある必要はなく、その原因においても表現的にあれば十分である、などと憶測してはならない。なぜなら、表現的なあり方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同様に、形相的なあり方は観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因には、この原因の本性上、合致するのだからである。」ルネ・デカルト省察』中公クラシックスp.59−61

 観念において考慮する実在性は単なる表現的実在性であるから、その観念を生じさせる原因においてなければならないのも、当然表現的実在性のみではないのか?この真っ当に思える疑問に対して、原因の本性上、形相的なあり方は観念の原因と一致する、と言われても、「そういうものだから」と押し通されただけで、何の回答にもなっていない気がする。形相的なあり方は観念の原因に一致するのではなく、私の意識に一致するのではないのか?

 また、表現的実在性よりも形相的実在性の方が大きいとするのはなぜか。異なるカテゴリーを比較することはできないのではないか。そもそも観念の大きさとはなにか。この前の省察を通じて、外界の事物の存在への懐疑や、感覚の誤りやすさについて述べているが、それではなにによって観念の大きさを把握し、比較することができるのか。なにかを正確に比較するためには、長さにおけるメートル法のような基準が必要である。そのような基準をもとにした比較でないのならば、それは単なる誤りやすい感覚による比較に過ぎず、デカルトの目指す明晰で判明な真実とは程遠いものではないだろうか。

 そもそもデカルトの懐疑説というのは、形相的実在性を疑っても表現的実在性は存在する、というものではないのか?つまり疑いうる世界の中で、唯一確かに思える「私」にとっては、表現的実在性が形相的実在性に先立つのではないか?

 方法序説を読んでいないので、前提が共有できていないのかもしれない。読み進めたら書いてあるかもしれないが、ひとまず気になったので。

『論理哲学論考』に関する覚書き

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考(以下、『論考』と略記する)』を読んでいる。初めからじっと読んでいってもあまりしっくりこない。全体との関係においてそれぞれの命題が意味を持つものであるので、読み進めてみて初めて意味がわかるという箇所が多い。とりあえず初めから終わりまで目を通してみて、どのようなことが書かれているかをざっと把握し、もう一度はじめから読んでみて、書いてあることに対する解像度を徐々に上げていく、という読み方でしか読めない本であると感じる。
 『論考』が何についての話をしているのか、を理解するためには、普通の本でもそうであるが、序文をしっかり読むことがその助けになる。先取りして言ってしまえば、『論考』の目的は哲学的な諸問題の根本的な解決である。論考の序文にはこうある。

 本書は哲学の諸問題を扱っており、そして──私の信ずるところでは──それらの問題が我々の言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体として持つ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
L・ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳『論理哲学論考岩波文庫

 


 また序文の終わりの方で、「問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」と表明している。つまり哲学の諸問題について、それらの問題が言語に対する誤解によって生じており、その誤解を問いたならば、その諸問題はもはや問題ではなくなる(=解決される)ということを言っているのである。それは、どのような手続きによるのか。

かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことに対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
 したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。

同書

 


 ここで言う哲学の諸問題を解決するとは、それらの諸問題が根本的にナンセンスであることを示すこと、言い換えれば、それらが語り得ぬことについて語ることを要請する問いであること、我々の思考の限界を超えた答えられない問いであることを示すことである。我々の言語の限界を定めることによって、思考の限界を画定し、哲学の諸問題がその限界の向こう側に属するものであることを示すことで、それらの諸問題がナンセンスな問いであることを示す。そのことによって哲学的な諸問題を解決ないしは解消させるのが『論考』の目的であると思われる。
 言語の限界について述べるために、ウィトゲンシュタインは、まず世界とはどのようなものであるか、という記述から始める。上で述べた論理の流れだけを単純化して本文の中から該当箇所を抜き出せば、次のようになる。

「1 世界は成立していることがらの総体である
 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。」

「2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」

「4.023 命題とは事態の記述にほかならない。」

「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」

 世界とは事実の総体であり、事実とは、成立した事態のことであり、命題とは、事態の記述である。事実は事態の成立したもの、つまり事態の一部であり、事実の総体が世界である。つまり世界は成立した事態の総体である。そして事態を記述したものが命題である。つまり成立した事態の総体とは、真である命題の総体である。つまり真である命題の総体が世界である。よって、言語の限界(=命題として意味を持つもの)が私の世界の限界となる。
 そして、命題の性質を明らかにし、さらに命題の一般形式、つまりあらゆる命題を作ることができる形を見定めることによって、すべての命題が記述されうる。そしてまた、それらの命題が意味するところのものが示されうる。そのようにして言語の限界=思考の限界=私の世界の限界を画定することができ、それによって哲学の諸問題がその外側にあることを示せば、それらの諸問題は解決される。
 命題についての議論や、なぜ哲学の諸問題がそれらの外側にあるといえるのか、事実や事態などのウィトゲンシュタインに特有の語の用法などについては複雑な話になるため、個人的な忘備録である本記事では詳述しない。

ウィトゲンシュタイン『青色本』を読もうとする・1

・なぜ青色本を読むか

 近頃ウィトゲンシュタインを読んでいる。ウィトゲンシュタインは哲学者だが、彼の哲学は一風変わっている。哲学書というのは一般に、ドイツ観念論などに顕著だが、その思想的な背景や前後の歴史を踏まえていなければわからないことが多い。難解な専門用語や日常言語とは意味の異なった用法が飛び交い、同じ哲学用語でも人が違えば解釈が微妙に違っていたりする。つまり哲学書を読むためには広く深い前提知識と、文脈に合わせた適用が必要になる。一方で、ウィトゲンシュタインは自身の哲学を治療であるという風に考えていたらしく、多くの人々を困惑させてきた難解な問いの数々を、その問いの問われ方に着目することで、問いを鮮やかに解決ないしは解消させてきた。このスタンス自体は初期から後期まで一貫しているように思える。ウィトゲンシュタインを読むと、どのように取り組めばよいのか皆目わからない問いに対して、ここから手をつければよいという取っ掛かりを得ることができる。問いの立て方を検証し、様々な角度から眺め回してつっついているうちに、問いそれ自体が知恵の輪のようにほどけていく。中期以降のウィトゲンシュタインの哲学は、読み手に体系的な知識や思想を与えるような性質のものではなく、どのように問いに取り組むか、いかに哲学をするか、というその方法についてのヒントを与えてくれる。様々な場合にそのまま使えるマニュアル本というわけでは勿論ないが、実際にどのように考えていくか、それは自分でじっくり考えるべきことなのだ。

 

青色本の位置づけ

 青色本は1933年から1934年にかけてケンブリッジで行われたウィトゲンシュタインの講義を記録したノートである。そのコピーが広く読まれ、青色の表紙がつけられていたことから一般に『青色本』と呼ばれている。

 ウィトゲンシュタインの活動は大きく初期・中期・後期の3つに分けられることが多く、初期が生前唯一出版された哲学書である『論理哲学論考』期を指し、死後出版された後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』を執筆し始める1936年以降が後期、その中間が中期であるとされている。『論理哲学論考』を書き終えたのち彼は哲学から身を引き、小学校の教員や修道院の庭師や建築物の設計などの仕事を経て、1929年に再び哲学に復帰するまで、前期と中期との間には数年間の空白がある。

 『青色本』の講義が行われたのはウィトゲンシュタインの思想が中期から後期へと移り変わっていく過渡期であり、のちに『哲学探究』に結実していく思想的アイデアの片鱗が各所に散りばめられている。

 

青色本を読みはじめる

 『青色本』は前述の通り講義録であるため、話が前後したり、いくつもの話題が入り組んでいたりするため、ときに読みにくいことがある。よっていくつかの段落ごとに区切って読み、その言わんとするところを慎重につかもうと努力してみることにする。一度通して読んでみたけれど途中で迷子になってしまった気がするので今回は、いまどのような問いが立てられているのか、何の話をしているのか、見失わないようにゆっくりゆっくり読んでいくつもりだ。また、僕は外国語ができないためちくま学芸文庫から出ている大森荘蔵訳のものを読んでいきます。以後特に断りがない場合、ページ数や引用などはちくま学芸文庫からのものです。僕って書くと途端にですます調になってしまいますね。

 

・語の意味とはなにか(p.7)

 語の意味とは何か。

 この問題に迫るためにはまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。

 こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役に立つのと同じ仕方で役立つ。

 『長さとは何か」「意味とは何か」「数1とは何か」等々、こういった問は我々に知的けいれんを起させる。それに答えて何かを指ざさねばならないのに、何も指ざすことができないと感じるのだ。(哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考えに迫られるのだ。) 

  「語の意味とは何か」。青色本はこの問いかけから始まる。そしてこの問いはこの本の通奏低音となっている。語の意味とは何か、という難しい問いに対して、ウィトゲンシュタインはまず問いをより考えやすい形にしようと試みている。ところで、「語の意味の説明とは何であるか」と、「語の説明とはどのようなものか」という二通りの問いは、同じものだろうか。縮めてみると、何であるかと、どのようなものか、は同じことを問いかけているのだろうか。僕には微妙に異なったものであると思える。一見よく似た問いであるけれども、その答え方は大きく変わってくる。

 何であるか、という問いに対しては、これであるという実物を差し出してやるのが最も簡単で確実である。勿論そのような直示定義であればどのような場合でも間違いなく伝えることができると考えるのは適切ではないが、たとえばみかんとは何であるかと尋ねられたらみかんを手渡して、実際に見て触って食べてもらうのが一番良いだろう。しかし、現実世界に対応するものが実在しない抽象概念等の場合、話は複雑になってくる。これといって指し示してやることができないのだから、言葉による定義が必要になってくるが、抽象概念を定義しようと思った場合、また別の抽象概念を持ち出さなければならず、しばしば循環定義に陥ってしまう。

 一方で、どのようなものか、という問いは、そのものの定義というよりもその性質やその語が使われる状況などを尋ねていると感じられる。このような問いであれば、みかんが手元になくとも、柑橘系の食べ物で、冬にこたつの中で食べるとおいしい、などと説明することができる。同じように、長さとは何か、を言葉で説明するのは難しいが、どうして長さを測るのか、と聞かれれば、長さによって距離や大きさや面積などについて、定量化が可能になり、異なる種類のものや遠く離れたもの同士での比較や、計算などの操作が便利になる、などと答えることができる。

 このように、「名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考え」に囚われずに、何であるかという答えることのできない問いを、どのようなものかという答えやすい問いへと変形してみること、そのように問い直すことで、止まってしまった手をとにかくまた動かし始めることが可能になる。これがウィトゲンシュタインの治療のやり方の一つである。引用部分の「語の意味の説明」と「語の説明」を、今回ははっきりとは区別しなかったが、それは次回以降に持ち越しとする。前置きを書くので消耗してしまったので今回はここまで。

カラヴァッジォ展に行きました。

ぐずついた天気で濁った頭を抱えながら耳を塞いで、1時間近く電車を乗り継いだ果てにガラス張りのエレベーターに乗り込んだ。14階でチケットを買った。カラヴァッジォの絵を見に来た。

 


1600年前後から活躍を始めたカラヴァッジォの特徴としては何よりもまずスポットライトのような一点からの強い光で、それによって強烈に浮かび上がる造形の力強さ、迫力、生々しさは当時の人々に衝撃を与え、多くの追随者を生んだ。カラヴァッジォと聞いてまず浮かぶのが中期以降のくっきりとした明暗のコントラスト、ドラマチックな画面構成だが、初期の静物、特に果物や花々、を描くときの精細なタッチや明るくくっきりとした線の感触もぼくは好きで、今回来ていた《リュートを弾く若者》は凄く良かった。住み込みをしていたパトロンの館に居たカストラート(去勢された歌手)をモデルとしたとされる中性的な顔立ちの若者が、誘いかけるような目つきでこちらを見ている。その口は半開きになっていて、今まさに歌いだそうとしているようだ。そして画面の手前部分のこちらが手に取れそうな位置にヴァイオリンが置かれている。画面に克明に描かれている楽譜は当時実際に愛唱されていたラブソングのものらしく、私があなたを慕っているのは知っているでしょう、でも私があなたの為なら死ねるということは知らないでしょう、というような情熱的な歌詞だったらしい。澄ました顔で、静かだが確かな眼差しをこちらに向けている若者のこの絵は、この上なく甘美なムードが漂っていた。カストラートは20世紀の始めに教皇によって禁止されたが、最後のカストラートと呼ばれる人物の歌声は録音されて残っているらしい。

 


展覧会の構成としてはカラヴァッジォの初期の絵や影響を与えたとされる人物の絵画が控えめに展示されていて、その後カラヴァッジォの全盛期の絵画と、それをはるかに凌ぐ点数のカラヴァッジォの追随者たちの絵が並んでいる。それらを順を追って見ていくと、カラヴァッジォが編み出した強烈な明暗の対比がいかに人々の心を捉えたか、またそれ以降大した発展を見せずに新古典主義へとつながるような明るい画面にいかにして移り変わっていくか、ということが朧げながらわかるようになっている。また、当時の流行りのモチーフというのもなんとなくわかってくるのが面白い。女性の中ではユディトやサロメ、聖人の中では聖ヨハネや聖ヒエロニムスや聖セバスティアヌスが人気だったようだ。またダヴィデとゴリアテ、ユディトや聖ヨハネの生首など、斬首のシーンを描いたものが多く描かれているのが目についた。

 


聖書のラテン語訳を手がけたとされる聖ヒエロニムスを描いた絵画が数点展示されていて、カラヴァッジォのものと彼のフォロワーのものとがあったが、どう見てもカラヴァッジォのものが一番良かった。カラヴァッジォの描く聖ヒエロニムスからは高度な知性、精神性、静謐さが伝わってきた。突然だが電話がかかってきたので終わります。

 


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