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「不在の百合」とはなにか

 今日、いつものようにTwitterに張り付いていたとき、「不在の百合」なる概念があることをこのツイートで知った。
https://twitter.com/dw_nkmr/status/1349546827826098181?s=20
 また、Twitterで検索してみると、「不在の百合」概念の例示として、うら寂れた田舎の風景や、灰色のロードサイドの光景を移した写真がアップされている。百合とは関係性を愛でるものであるとしたら、人物がいないのであるから関係性は生じないのではないか。また、写真が撮られている地点、カメラの視点は、百合を見出す受け手・写真の鑑賞者の視点と同一なのか、あるいは適切な言い方ではないかもしれないが、百合の登場人物の視点なのか。どちらでもないのか。風景それ自体に百合を見出しているのか、あるいはその風景の中でかつてあった百合らしい出来事を仮構しているのか。
 そして調べてみるとここ数日「不在の百合」概念に関連したツイートが数多くなされており、徐々に広がりを見せている。なぜいま、「不在の百合」なる概念が生まれ、広がりを見せているのか。
 文字通り非存在を表す「不在」と女性同士の関係性を表現するジャンルである「百合」、この一見相反する二つの言葉の組み合わせが生み出すインパクト、そして一体何を表す概念なのかがさっぱりわからないのが気になったので、その語の意味や初出、受容のされ方について少し調べてみた。その結果をもとに簡単な概念分析を試みたい。
 僕はオタク気質ではあるもののアニメや漫画をそこまで追えているわけではなく、ただのライトな百合好きなので、見当外れな点、間違った点が数多くあるかもしれません。気になった点があれば、やさしく指摘していただければ幸いです。色々教えて下さい。

 

 

・「不在の百合」概念の初出
 さて、「不在の百合」概念は、2018年5月のSFセミナーにて行われた、『裏世界ピクニック』シリーズの作者・宮澤伊織さんへのインタビュー記事が初出と思われる。
https://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0
 このインタビュー記事の趣旨は、あくまでも個人の見解であると慎重に前置きした上で、「宮澤さんの考える百合」を明らかにするというもので、まずはじめに「『百合』といえば、女性と女性の恋愛なのかな? というようなざっくりした認識」を持っている読者を想定して、百合をめぐる固定観念の数々を「よくある古い概念」として、そのアップデートを提言する。
 次に、百合の前提へと話は進み、百合の大前提として、「女」の概念が提示される。これは「百合の文脈ではそう言わざるをえない」、「何重もの意味が折り畳まれた圧縮概念であり」、「引用符がめちゃくちゃついて “““女””” という感じ」として強調されている。「日常会話で『女』と呼び捨てのように言うと、けっこう言葉が強いというか、こわい感じがありますよね」と断った上で、”女性”ではなくあえて「女」と呼んでいるからには、この「女」はそのまま”女性”に置き換えて読むことはおそらく不適当なのだろう。生物学的な性別や、社会的に形成された女性性を示すものではなく、オタク文化サブカルチャーの表象における、記号的、キャラクター的な「女」のみを指しているということを意味しているのだろうか。このあたりのニュアンスがつかみにくいので、有識者の方にやさしく教えていただきたいです。
 そして「 “女と女” が百合を理解するために重要な関係」であり、「百合とは何かといえば、“女と女の関係” といえば間違いない」と言われている。前述の「女性と女性の恋愛」は「ざっくりした認識」であり、「女と女の関係」が百合の本質である。一見大差がないように思えるが、ここでは「女性」が「女」になり、「恋愛」が「関係」と言い換えられている。つまり百合とは女と女の関係ではあるが必ずしも恋愛ではない。
 また、女と女の関係があればそれは百合なのかと問われればもちろんそうではない。単なる友達関係など、百合ではない女性同士の関係はいくらでもある。それでは女と女の関係を百合とするのは何なのか。「女と女を結びつける“何か” は「巨大不明感情」と呼ばれたりもしました。2016年くらいに確立した概念ですね。「感情」の動きをちゃんとやるとフィクションの「解像度」が高まるんです。解像度の上がった百合は『強い』。」
 つまり、両者の間に存在する強い感情、あるいは大きな感情が二人の関係を百合にするのであって、そしてその感情の大きさによって百合の強弱が決まる。そして「強い百合」とは「人間を描くということ」であり、感情の強さだけではなく「女性の性欲や肉体から逃げずに書き」、実在感を高めることで百合の強度は高まると言う。
 以上が宮澤さんによる百合概念の説明であり、その後インタビューは当時(2018年)の百合コンテンツの話に移り、ニコニコ動画の自分の好きを語り、他者の好きに共感する「ここすき」文化と百合界隈のコミュニケーションのあり方の類似性に触れられる。
 つづいて、百合は今後どのような可能性を持っているかという話になった際に、人間とタコの交流を描いたノンフィクション作品『愛しのオクトパス』のとある描写に「異種間&歳差百合」を見出したと語る。本来百合作品として描かれたのではないものに対しても、百合という関係性を見出すことは可能である。このように、ある既存の関係の上に、あるコードに則った関係性を付与していく、関係性の読み替えの文化は、BL界隈で古くから行われてきたものであり、代表例として天井と床、消しゴムと鉛筆、からあげとレモンなどが挙げられる。BL界隈での関係性の読み替えは、主として”カップリング”、二つのもの・人物が恋愛関係であると考え、それぞれに攻め・受けの役割をあてがうものが主流であるが、一方で百合界隈ではそのような擬人化、無機物をカップリングする発想はあまり見られないと指摘した上で、BLと百合の異なる点として、百合では「逆に「不在の百合」というのが成立しうる」と語っている。これが「不在の百合」概念の初出であると思われる。

 

 

・「不在の百合」とはなにか
 「不在の百合」とはなにか。「不在の百合」とは、どのような意味で使われた言葉であるのか。宮澤さんは説明する。「エモい風景は、それだけで百合」であり、「なぜかデカい風景には、それだけでそこに百合味がある」。宮澤さんがこの着想を得たのは、「海を前にした崖に、草が生えていて、フェンスがあり、灰色の海と空が広がって、無人の2人がけのベンチがある」
画像に、#百合のハッシュタグがつけられた投稿からであるという。
 インタビュアーがそれを受けて、『裏世界ピクニック』の「女子ふたりが農機に乗って、どこまでも広がる草原を走っていく…という扉絵」は百合であるかと尋ねると、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」くと、「轍の上に、錆びて朽ち果てた乗り物が置いてある」が、「かつてそこには2人がいた」。その情景を、「これはもう完全に百合」であるとしている。
 以上の発言と、「どういうわけか、草原って百合なんです」という記述を合わせて考えると、「不在の百合」の成立のためには、人気のない、うら寂れた、茫漠とした、広がりのある風景が必要であると思われる。また、注目すべきなのは着想源であるツイートにしても、「無人の2人がけのベンチ」があり、『裏世界ピクニック』の扉絵そのものではなく、「その風景から女子ふたりをとりのぞ」いたものが「不在の百合」とされている点である。前提として百合とは「女と女の関係」であることが確認され、BLとは異なり百合では無機物のカップリングが行われにくいことを指摘されているので、風景それ自体に百合という関係性を見出しているのではなく、うら寂れた、無人の、荒涼とした風景に、かつてそこにあり、そして今はもはやない「女と女の関係」を思い描き、それを「不在の百合」としていると思われる。
 冒頭に書いた問いに戻ります。以上のことをふまえると、「不在の百合」概念が宮澤伊織さんの言ったのと同じ意味で使われていると仮定すると、「不在の百合」写真は鑑賞者の視点から撮影されたものであり、寂れた無人の風景のなかに、今はないがかつてあったかもしれない百合を見出すものであると考えられる。

 

 

・「不在の百合」の受容
 上述のように、「不在の百合」概念は2018年7月19日に公開されたnote記事が初出であるが、Twitterの検索結果を遡って見てみてもすぐさま浸透したわけではなく、しばらくは筋金入りの百合愛好家たちの間で、ひそかに囁かれていたようである。
 しかし、『裏世界ピクニック』のアニメ化決定に伴い開設された、テレビアニメ『裏世界ピクニック』公式アカウントが2020/03/08〜2020/07/01にわたり、#裏世界ピクニック#裏ピクのハッシュタグと共に、無人の風景の画像を投稿しており、それらのツイートがされるたびに、『裏世界ピクニック』のファンであると思われる百合好きの方たちが不在の百合概念を持ち出してそれらの画像に言及しているツイートが数件みられ、公式アカウントが「不在の百合」画像の継続的な投稿をやめた7月以降にも、「不在の百合」概念に言及したツイートは断続的に確認できる。とはいえ、この時点では『裏世界ピクニック』ファン以外の目に届くまでには広がっていないと思われる。
 不在の百合概念に言及したツイートの数や、関連ツイートに対するファボ数が増え始めるのは2020年の11月以降である。ねこむろさんの「不在の百合」を題材とした画像のツイートや、2020年11月2日から書かれている、一連のnote記事と、「不在の百合」という語の響きが持つインパクトにより、従来の『裏世界ピクニック』ファンの垣根を越えて認知度が高まったのではないかと思われる。

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320254558879113218?s=21

https://twitter.com/dw_nkmr/status/1320266143584546817?s=21
https://note.com/nekomuro_note/n/n3d5e90923137?magazine_key=mec491b1a84ea

  流れをまとめると、『裏世界ピクニック』原作の作者である宮澤伊織さんのインタビューで「不在の百合」概念が提出され、テレビアニメ「裏世界ピクニック」公式アカウントの発信する無人の写真が「不在の百合」概念の例示として受け取られ、それが概念の拡張の契機となり、ねこむろさんのnote記事に代表されるように、「不在の百合」写真を撮る人々によって肉付けがなされ、「不在の百合」概念の意味する範囲が広げられていっているのだと思われる。

 また、2021年1月4日より、TVアニメ『裏世界ピクニック』の放映が始まったことにより、再度「不在の百合」概念に注目が集まっているのが現状なのだろう。そして、「不在の百合」という語のインパクトに惹かれ、その文脈を必ずしも理解していない人々によって、たとえば「エモ」や「感傷マゾ」のように、さまざまに解釈された「不在の百合」が、いまひとり歩きを始めようとしているのではないか。「不在の百合」はこのまま、インターネット発祥の美的カテゴリーの一つとして発展していくのか、あるいは乱用の果てに形骸化していくのか。これからも「不在の百合」の行く末を見守りたい。

 今回は主に「不在の百合」がどのような言葉として生み出されたか、を見てきたが、またいつかTwitterにおける「不在の百合」概念の受容、およびその使用における意味の変遷を具体的な例を見ながら検討してみたい。

 

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