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映画『マグダラのマリア』(2018)の感想。

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Netflixでも配信中の、ガース・デーヴィス監督、ルーニー・マーラホアキン・フェニックス主演の映画『マグダラのマリア』(2018)の感想です。

 

マグダラのマリアについて、ルカによる福音書にはイエス様に7つの悪霊を追い出して頂き、自分の財産を投げ出してイエス様に付き従った女性であるという記述があり、またヨハネによる福音書によれば、イエス・キリストが復活後初めて姿を現したのがマグダラのマリアのもとであった。このように、彼女に関しては共観福音書中にはわずかな記述しかなく、その出自や素性は詳らかではないが、キリストの復活を使徒たちに伝える役目を負ったことから、「使徒たちへの使徒」などと称されることもある。一方でマグダラのマリア西方教会に於いては、ルカ7,36-50に登場する、シモンの家でイエスの足を涙で濡らし香油を塗った「罪深い女性」と彼女を同一視する、グレゴリウス1世の見解が広く影響力を持ち、また伝説や伝承においてしばしば改悛した娼婦として描かれ、そのようにマグダラのマリアを表象した美術作品も少なくない。

ところが20世紀になってから発見された外典の写本では、イエスの弟子、使徒として描かれ、またイエスとの親密な関係を匂わせる描写から、イエスの花嫁であるとの俗説を生み出すに至った。このような外典の記述や、フェミニスト神学の動きが相まって、従来のマグダラのマリア像の見直しが図られ、2016年には教皇フランシスコによりマグダラの聖マリアの祭儀が、それまでのように記念日としてではなく祝日の等級で一般ローマ暦に記入されるべきだと定められた。そしてその新しい、イエスの弟子としてのマグダラのマリアの姿を描いたのが本作である。

ルーニー・マーラの美しい顔、慈悲に溢れた優しい仕草、苦しむ人に寄り添う様子はまさに神の国の住人のようだった。イエス伝としては盲人の治癒やラザロの蘇りなど、治癒神としてのイエスが強調して描かれ、従来の、ユダヤ教的な父権的な神ではなく、癒し育む母性的な側面にスポットが当てられている。一方で、涙を流し弱くありうる人としての脆さを持った存在としても描かれる。奇蹟を行う神の子としてのエピソードを強調する傍らで、イエスの人間的な弱さや、神の国の折衷案的な解釈を提示するこの映画のどっちつかずの姿勢には納得がいかない。現世的なところに着地させるなら、パゾリーニの『奇跡の丘』のような描き方の方が良かったのではないか。「徹頭徹尾終末論的でないものは、徹頭徹尾キリスト教的ではない」と、カール・バルトも言うてます。ワンピースがこのオチだったら全員キレるでしょ。

また、マグダラのマリアは従来カトリック権力によって不当に貶められてきたとも考えるが、この映画では今度はペテロが槍玉にあげられている。映画オリジナルと思われるローマ人に壊滅させられた村人を看取るエピソードで、父権的で軍人的なペテロが、慈愛に満ち、優しさのあふれるマグダラのマリアに懐柔されたり、キリストの復活や神の国の解釈について論破したりするシーンには作り手の作為を感じずにはいられない。「それは主の言葉じゃなくて、あなたの言葉でしょう」っていうのはブーメランと言うか、それに続くマグダラのマリアの主張も、聖書にある主の言葉ではなく彼女の解釈としか思えない。福音主義的な立場とフェミニスト神学とは相性が悪いのかもしれない。フェミニスト神学はそもそもエリザベス・スタントンの「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」という言明から始まっており、聖書を一字一句過たない神のみことばとする福音主義の立場とは相容れない。

とはいえペテロに当たりが強いのは、「天の国の鍵」をイエスから授かったペテロが、教会の礎となり初代ローマ教皇であるとみなすカトリック教会への異議申し立てという意味なのかな。カトリック教会の男性主義的な歴史が今作でのペテロに集約されていて、それを乗り越えるものとして新しいマグダラのマリア像が描かれている印象。しかし男性性に女性性を対置して後者を称揚するという構図では結局男性/女性という二分法に囚われたままであり、また旧来のジェンダーロールの強化につながりかねないと言う意味で、かつてキャロル・ギリガンに向けられた批判が今作にも当てはまるかも?

この映画で手放しで好きな点はユダの描かれ方。心優しく、温和で、なかったことにされてきた弱いものの声にも耳を澄ませる。利己的で小賢しい悪人として描かれることの多いユダだが、彼もまたキリストに選ばれた使徒である。使徒でありかつ裏切り者である彼の存在がずっと腑に落ちていなかったが、本作でのユダの描かれ方が一番納得できるものだった。彼は打算から、銀貨に目が眩んで師を売ったわけではなく、キリストの説く救済、神の国の到来、を誤解した故の過ちだった。事実キリストの活躍した時代には当然聖書もなく、キリスト教もなく、文書もなければ教義もない状態で、使徒たちの間で主の言葉に対する解釈が食い違っていても不思議はない。自分で裏切っておきながら首を吊るのも謎に思っていたが、キリストの死によって己の過ちの大きさに気づく、ということなら筋が通るように思える。

家父長制の根強い家族や抑圧的なムラ社会から逃れるところから始まり、マグダラのマリア復権、聖書に潜む男性主義的な価値観の告発、単なる悪しき裏切り者ではない新しいユダ像、フェミニズム的な観点からの聖書の読み直しという意図を明確に感じさせる挑戦的な本作は、マタイ10,34-39にある説教を想起させる。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」
「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁を姑に。こうして自分の家族の者が敵となる。」
21世紀になってもなお、こうして聖書をめぐる物語、新しい映画が作られて、さまざまな解釈があり、議論を活発化させていくことは、聖書が今なお生きた書物であることの証であるように思える。テクスト読解とか作品の解釈とかに興味がある人は、元祖テクストである聖書や、元祖テクスト読解である神学の歴史を学んでみるのも面白いと思います。