アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 中公クラシックスから出ているデカルトの『省察』の、神の存在証明に関する、第三省察を読んでいて、わからないことがいくつかあり、書かなければ忘れてしまうので、書き留めておく。

「 実際、疑いを容れないことだが、私に実態を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、いっそう大きなあるものであり、いわば、より多くの表現的実在性(観念において表現されているかぎりの実在性)をそれ自身のうちに含んでいる。さらに、それによって私が神を理解するところの観念、すなわち、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外のいっさいのものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実態を表示するところの観念よりも、明らかにいっそう多くの表現的実在性をそれ自身の内に含んでいるのである。」
 様態のみを表現する観念よりも、実態を表示する観念のほうが大きい。観念が大きいというのは、より多くの表現的実在性を含んでいる、と言う意味である。
 「 ところでいま、作用的かつ全体的な原因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。なぜかというに、結果は、その原因からでなければ、いったいどこから自分の実在性を引き出すことができるであろうか。また原因は、自ら実在性を有するのでなければ、どうしてそれを結果に与えることができるであろうか。こうして無から何も生じえないということばかりではなく、より完全なもの、いいかえると、より多くの実在性をそれ自身のうちに含むものは、より不完全なものから生じえない、ということも帰結するのである。」
 無から有は生じえない。よって、何かが生じるとすれば、その原因のうちに、生じたものと同等の実在性がなければならない。他に実在性が生じる理由が説明できないからである。
「 しかもこのことは、現実的すなわち形相的実在性(物がそれ自体においてもつところの実在性)を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真なのである。
 (中略)なぜかというに、この原因は、私の観念のうちに、なんら自己の現実的すなわち形相的実在性を送りこみはしないけれども、だからといって、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならない。むしろ、観念は、私の意識の一様態であって、私の意識から借りてこられる形相的実在性のほかはなんらかの形相的実在性をも、自分から要求することはない、というのが観念そのものの本性である、と考えなくてはならないのである。 」
 ある原因が、私の観念のうちに自己の形相的実在性を送りこまないなら、その原因がより少ない実在性をもつはずだ、と考えてはならないのはなぜか。送りこまれていないものが、原因には存在しているとどうしていえるのか。観念は私の意識の一様態であるから、形相的実在性を、その原因からではなく、私の意識から借りてくるというのがその答えであり、それが「観念そのものの本性」とまで言われているが、それでは、結果は私の意識の形相的実在性に由来し、原因はそれ自身の形相的実在性をもつのであるから、原因と私の意識の形相的実在性を比べることになるのではないか。原因のほうが結果よりも多くの形相的実在性を持っている、といえる根拠はないのではないか。
 「ところで、この観念がこの特定の表現的実在性を含んで、他の表現的実在性を含んでいないということは、明らかに、その観念自身が表現的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含むところの、その原因によるのでなくてはならない。なぜなら、その原因のうちになかった何ものかが観念のうちに見いだされると想定するならば、観念はそれを無から得てくることになるであろうが、ものが観念によって表現的に悟性のうちにある、そのあり方は、たとえどんなに不完全であろうとも、明らかに、まったくの無ではなく、したがって、無から生ずることはありえないのだからである。
 なおまた、私が私の観念において考慮する実在性はたんに表現的なものであるから、その実在性はこれらの観念の原因のうちに形相的にある必要はなく、その原因においても表現的にあれば十分である、などと憶測してはならない。なぜなら、表現的なあり方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同様に、形相的なあり方は観念の原因に、少なくとも最初の主要な原因には、この原因の本性上、合致するのだからである。」ルネ・デカルト省察』中公クラシックスp.59−61

 観念において考慮する実在性は単なる表現的実在性であるから、その観念を生じさせる原因においてなければならないのも、当然表現的実在性のみではないのか?この真っ当に思える疑問に対して、原因の本性上、形相的なあり方は観念の原因と一致する、と言われても、「そういうものだから」と押し通されただけで、何の回答にもなっていない気がする。形相的なあり方は観念の原因に一致するのではなく、私の意識に一致するのではないのか?

 また、表現的実在性よりも形相的実在性の方が大きいとするのはなぜか。異なるカテゴリーを比較することはできないのではないか。そもそも観念の大きさとはなにか。この前の省察を通じて、外界の事物の存在への懐疑や、感覚の誤りやすさについて述べているが、それではなにによって観念の大きさを把握し、比較することができるのか。なにかを正確に比較するためには、長さにおけるメートル法のような基準が必要である。そのような基準をもとにした比較でないのならば、それは単なる誤りやすい感覚による比較に過ぎず、デカルトの目指す明晰で判明な真実とは程遠いものではないだろうか。

 そもそもデカルトの懐疑説というのは、形相的実在性を疑っても表現的実在性は存在する、というものではないのか?つまり疑いうる世界の中で、唯一確かに思える「私」にとっては、表現的実在性が形相的実在性に先立つのではないか?

 方法序説を読んでいないので、前提が共有できていないのかもしれない。読み進めたら書いてあるかもしれないが、ひとまず気になったので。