アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

いのちの線引き

  人間の自我なるものはいつ生まれて、いつなくなるのか、あるいは人権はいつからいつまで存在するのか。という問いを前回の日記の最後に書きつけた。しかしこのようなやり方で問うことがそもそも不適切であるかもしれない。実践倫理の領域において、これらの問いが前景化するのは、いつから、に対して中絶の問題、いつまでに対しては尊厳死安楽死をめぐる問題がそれぞれ対置される。

 

 人間はいつからいつまで人間なのか。このように問いたくなる理由を考えたい。あるいは、仮にここからここまで人間で、これより前のこれより後は人間ではありません、となんらかの方法で線引きができたとして、それで何が起こるか。もしも仮にそのような明確な基準ができたとしたら、中絶・安楽死尊厳死はどんな視点からでも正当化できる。なぜなら対象はもう人間の命ではないのだから。そのような制度は果たして正しく、適切に運用されるだろうか。どこからどこまでの線引きは、何を基準にするとしてもどこか恣意的であり、また制度として確立してしまえば、尊厳死安楽死が本人の意向によらずに外側から押し付けられてしまう危険性もある。つまりしっかりと線を引くことによって、それまでは人間であったものに対する存在に対する殺人が引き起こされ得る。現時点で誰もが結論を出せずにいるデリケートな状態にある人間が、その日から人間ではなくなってしまうかもしれない。つまりこれらの線引きによっていま人間だとされている存在の中から人間扱いされなくなるものが出てくる。人間の定義が縮小される。人間でないものには当然人権はないだろう。人間の条件などというものは存在しないし、存在しないほうが良い。