アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 人間とは何であるか。ここ数年間ずっとこの漠然とした問いが頭にこびりついている。人間の定義がもしも可能だとして、一度それを定義してしまったら、それは人間の条件として地上の人間をふるいにかける。どのように定義してみたところで、そこからこぼれ落ちる人間が必ずいる。人間の条件などといったものは存在してはならない。もしもそんなものが存在するのだとしたら、それは或る種の人間を排除するための口実にしかならないだろう。在りし日の奴隷制度の話を聞くと、どうして同じ人間にそんな非道い仕打ちができたのか、と驚くばかりだが、それは相手を同じ人間だとは思っていなかったからに他ならない。人間とは何であるか、という問いを立てることがそもそも不適切であり、答えがあってはならない問いなのだ。
 とはいえ、人間という概念を、たっぷりと幅を持った大味な概念だと捉えるのはよいとして、人間に対して、全く定義を与えないとしたら、それはそれで困ったことにはならないだろうか。よりよい人間を目指す、とか人間らしく生きる、といった言葉が一切の意味を失ってしまう。人はどうあるべきか、などという理想の人間像もたちまちかき消えてしまう。

 脳死状態の患者の臓器移植問題やあるいは中絶問題というのも、要するにどこからどこまでを人間とみなすか、どこに境界線を引くべきか、という点が問われている。ヒトの胚はすでに人間なのか、二度と意識を取り戻さないであろう人間は人間なのか。ここでは意識が存在するか否か、というのが人間であるかどうかと大きく関わっていることが示唆される。意識が存在するのであれば、当人の意思に関わらず命を絶つことは殺人である。あるいはそこに苦痛が存在するかどうか、ということを争点とするならば、動物倫理や反出生主義の提起する諸問題とも関連してくる。簡単に答えの出せる問題でもなく、一つの正解があるとも到底思えないことでもあるから、ここで答えを出そうとはしない。

 人間的という言葉がある。あるいはあいつは人間じゃないという言い回しがある。人間的であるとはどういうときに使われる言葉だろうか。矛盾した感情を同時に抱え込むだとか、欲望に振り回されるさまだとか、不合理な行動、あるいは他者への共感や理性的な行動などが、人間的であると評されるものの例として挙げられる。一方で、人間とは思えぬと言われる際には、良心や共感能力の欠如であるとか、冷徹で計算高い人間性などを指す。機械的に行動することは非人間的であるとされ、動物のように本能に盲従する場合にはむしろ人間的であるとされるのだろうか。不合理であるのが人間であるとして、人間的であろうと固く心に決め、常に不合理な方を選んでいくとしたら、それは人間的であるどころか、一貫して機械的に規律に従っていることにはならないだろうか。どうもここから何かが得られるという感じがしない。人間的であるとか動物的であるとか機械的であるとかという対比は、特に意味のあるものではないのかもしれない。

 目の前で呻き声をあげている人間が、もはや人間であると思えなくなったと感じたとき、僕は仕事をやめた。人間は生まれながらにしてすべて人権を持っている、と思いたい。そしてそれは外から奪われていいものではない。考えることができなくなっても、体が動かなくなっても、いかなるコミュニケーションがとれなくなっても、人間は死ぬまで、いや死してなお人間であると僕は考えたいと思っている。そういう意味では自分はヒューマニストであると思うと同時に世は地獄、人間は悲惨、手遅れになる前に早く死にたいとも思っている。

 

 なんだか少しもうまく書けなかったな。ホラー映画やゾンビ映画に見られる優生学的思想や根強いルッキズムや差別感情、あるいはユマニチュード等の相手を人間であるとみなしていると伝えるための技術の存在、生ける屍のようである、や犬のようであるとか豚のようであるとか、そういった比喩が形成するイメージの悪影響などとも関連付けて色々考えているつもり。もともと答えなどあろうはずもないことを問うことをやめられないのはどうしてなんだろうな。