アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 駅の近くに住んでいる。駅の中にはフードコートやら婦人服やら子供服を売っているお店なんかがある。小さい薬局やコンビニめいた店もある。その中に匂いを売っている店がある。僕は匂いを買ったことがない。部屋をいい匂いにするのか、体に塗るものなのか、詳しいことはわからないが、いい匂いを売っているらしい。匂いを買うのはどんな気持ちがするものなのか。

 その人の匂い、と思えるほどに強烈な印象を残す人はあまりいないけれど、あの人の家の匂い、というのはすぐにわかる。人の匂いより家の匂いの方が強いのか。とはいえ家の匂いとはなんなのか。その家の材木の匂いではないだろう、鉄筋コンクリート造りの家以外には匂いを覚えるほどには行ったことはあまりない。住んでいる人の体臭でもなさそうだ。実際にその家から出てきたその人からはあまりそれを感じないから。しかしそれも少しは混ざっているだろう。それとも洗剤や柔軟剤の匂いなのか。煙草の匂いだって要素としては大きい。言葉にすると変だが消臭剤の匂いがする家というのもある。家ではないが古本屋の匂いが好きだ。

 

 梅雨はやっぱり調子が悪くて、音楽を聴いてもつまらなく感じる。お金を使うと楽しいから滝口悠生の単行本をネットでポチった。僕は文庫が好きなので現代日本の小説を単行本で買うことはあんまりないんだけど『茄子の輝き』は文庫化するのが待ちきれなくてすぐに読みたくて買ってしまった。最近また小島信夫を読み返している。小島信夫は見つけたときに買っておいて大抵はその時すぐには読まずに思い出した時にどっと読む。滝口悠生小島信夫も読んでいて小説って面白いなあという気持ちでいっぱいになる。詩歌の分野を読むことが最近は多かったけれど、小説には小説にしかできないこと、小説でしか描けないことがあって、それは例えばどうでもいいこと、名前のないもの、ないことにされているものを描くことで、詩歌でそれをやるとどうしてもちょっと意味を持ち過ぎてしまう。何気ないものに詩を見出そうとする視線そのもののほうが目立ってしまうというか。よく見ると継ぎ接ぎだらけの道路とか、地下に張り巡らされている何らかの管の何かを示す文字とか、家の裏に捨ててあるわけではないがもう二度と省みられることのなさそうななんか如雨露とかカゴとか。そういうノイズといえばノイズ、豊かさと言えば豊かさ、現実のきめ細かさみたいなものは言葉で再現するのが難しい。一本の木の形状を説明するのだって言葉ではできないんじゃないか。一本一本の木が違うこと、アパートの壁の模様とも言い切れないような模様、そういう現実世界の持つテクスチュアというのか、大事にしたいと思うと同時に、それくらいしかやることがないから、日々の生活の中に、もっと偶然性というのを取り入れていきたいと最近では思っている。再開した一人暮らしではなんでも自分の思い通りにできて先の見通しや一ヶ月の予算が立てやすい一方で思いがけないことが起こらなすぎる。もうトイレットペッパーなくなっちゃったよとか、そういうことしか起こらない。偶然が面白いのではないかと思ったのは最近Slay the Spireをやっているからかもしれなくて、このゲームの面白さは言ってしまえば麻雀のような面白さだった。ローグライク系の一種と言えばそうでランダム性があるから繰り返し遊んでしまう。いちいち1から始まるけれどプレイヤーに蓄積された経験値というか、こういう場面ではこうするとかこのカードが来たらこういうデッキ構成を目指すとかそういうのが少しずつ分かってきて、完全に運ゲーというわけではなくプレイヤーの実力というか判断がかなり大事になっている。その実力と運の混ざり具合がちょうど麻雀のようだと思った。あとは偶然といえば去年の暮れから今年の初めぐらいの時に博物画とか荒俣宏とかにハマりかけていた時期があって、今日読んでいた小島信夫の『こよなく愛した』のなかにボタニカル・アートの話が出てきて思いがけないところで再会したような気持ちになった。祖母が色鉛筆で絵を描いていたことも思い出した。