アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

今日

 働くことに思想はいらない。これは保坂和志の小説『この人の閾』の中で主人公が誰かに宛てた年賀状に書き添えたアフォリズムのようなものだけど、日に日にそうだなという感慨が深まってくる。毎日決まった時間に起きて、そのために同じような時間に寝て、一定の水準を維持して働くためには、円滑に眠りに落ちるためには、考えないのが一番良い。僕は一時眠れない夜が多かったけど、それは頭の中で言葉がひたすら空転して焼き切れそうな状態であることがほとんどだった。これはまだ結論とか持論とまでは言えないが、ざっと見た感じ、周りのちゃんと働いている人々は考えながら働いているにしてもそれは結論ありきで考えている。というのも考えるということは疑うことから始まって、しばしば自分の足場を自分で切り崩してしまうようなこともあるわけだけど、考えながら働くというのは、あらかじめ用意された通り道の中で、道を間違えないようにするような、より良い近道を探っていくような感じで、その方向性や落とし所の見当はあらかじめついているようなところがある。

 自分が日々の時間の大半を捧げている行為に対して疑問を持つこと、それが踏み潰している小さな声に耳を澄ますこと、それはとても苦しいことであると思う。正しいことをしているとなるべくなら思っていたいし、自分から摩擦を大きくしにいくようなことはしたくない。解像度をいたずらに上げてしまって、見過ごすことができたはずの小さな悲しみに躓くようなことは避けたい。そのようなことにかかずらっていては、昼も夜もなくなって、たちまち生活が破綻してしまう。他者の苦しみを感じ取って、それでいて僕では何もすることができないのなら、それはこの世に苦しみを倍加させているだけなのだから、あまりに不合理ではないかと思わなくもないが、しかしだからと言って安易に切り捨てるようなことはできるようになりたくない。

 

 なんだか話が逸れてきた。こんなことを言うはずではなかったけれど、とはいえ言いたいことがあったわけでもないけれど、ともかく書いているうちに話がよくわからない方向へ行ってしまうことはよくある。元はと言えば、考えないほうが働きやすいが、考えてないと生きてるって感じしないよね、というようなことをグチグチ書きたかった。穂村弘は生きることと生き延びることとを区別しているが、しかし今の僕はひとまず生き延び方についてよくよく学ぶべきなんじゃないかという気もする。ただここで頭をよぎるのがいつか見たジョン・ヒューズの映画で、「食事をする前に手を洗わなくても済む仕事につきなさい」と父親に言われて、自動車をいじくることが大好きで高校を出たらすぐにでも修理工の仕事につきたいと考えている主人公が、「ああしなさいこうしなさいって、僕の人生はいつになったら始まるんだ?」というようなことを叫ぶシーンで、例えば以前は大学に入って親元を離れて暮らしたら、働き出して経済的に自立したら、ようやっと正真正銘の自分の人生が始まるとちらちら考えたりもしていたが、働いたら働いたで仕事をきちんとこなせるようになってから、とか国家資格を取ってから、とかいくらか貯金が貯まったら、とかそういう風になあなあになっていくのではないかという気がしないでもない。そしてそれは僕の場合、親が口うるさかったり上司が厳しかったりするわけでもなく、ただ単に自分でそう思い込んでいるだけのことで、そんなことで時間を取りこぼし続けていいのかとも思うが、かと言って自分の人生というとなんだか輝かしいようなものである気がするが、今現在のこの毎日、ヒイヒイ言いながら起きたり働いたりしつつ本を読んだりご飯を作ったり花を買ってきたりする、萩原朔太郎全集を読みつつトイレ誘導をしつつきんぴらごぼうを作る、三日ぐらいかけて漫画をちびちび読む、買ってきたユーカリを毎朝ベランダに出して日を当てる、表面の土が乾いてきたら水をやる、カレーを作った後のべとべとの鍋を泣きながら洗う、同じ話を何度も聞く、三好達治の『氷島』disの背後にある深い朔太郎リスペクトにじーんとする、味噌汁を余らせる、安いからと買ってしまった一玉のキャベツに毎晩のご飯が制限される、その日常の些事の積み重ね、その疲労と少しの満足感、それ以外に人生なんてないんじゃないかと思ってもいる。それでいてバスの揺れ方で人生の意味がわかる日曜日、そんなはみ出し方を少し恋しく思ったりもする。