アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

めめんともり?

 よく生老病死のことを考える。この世の四苦八苦のことを考える。それは伊藤比呂美の最近の著作をいくつか読んでいたからかもしれないし、昭和一桁生まれのご老体を日常的に目にする職場で働いているかもしれない。気がついたらフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』とか、ジム・クレイスの『死んでいる』とか、死をテーマにしている本を手にとって読んでいる。前者は死んでいく主体の視点で書かれた、いくらか幻想的な、そしてラテンの香りがする小説で、後者は死んでいく客体、動物学者の夫婦の腐敗し分解されてゆく過程や、そこに至るまでのあまりドラマチックとは言えない人生や、彼らがすれ違ってきた死、そして娘が彼らの死を知り、受け止める物語が描かれる。ジム・クレイスは徹底的な無神論者で、この小説は無心論者はどのように死を捉えるのか、そこに虚無以外の何物かを見出すことはできるのか、という試みであると思えた。その即物的というのか、唯物論的というのか、ある意味では冷徹とも言える淡々と距離を置いた描写や、粛々と行われる自然の浄化作用の様をひたすら追っていくうちに、この語り口それ自体が、一つの答えとまでは言えないまでも、一つの受け止め方を示唆するものであるし、この小説、この試みがすでに、一つの弔いになっているのではないかという印象を受けた。死後や救済といったものを持ち出さずに、死者を弔うには、やはり語るということ、夜通し語りつつ悼むこと、残された記憶をとっておくこと、少なくとも残された者たちが生きているうちは、なかったことにしないこと、それぐらいしかできないのかもしれない。自然のサイクルの中で一人の人間の死を捉えるのでは、それはあまりにちっぽけで、取るに足らない出来事で、納得はできるかもしれないが慰めにはならないと感じる。人間の死にはやはり人間的な対処をするべきではないかと思ってしまう。人間的だなんていうよくわからない言葉を使ってしまった。

 そもそも死が、考えるに値するものなのかどうか、疑わしいと思うところもある。それはただの厳然たる事実、当然の結果なのであって、考えたところで何が変わるわけでもない、いくら思いを巡らしたところで想像の域を出ることはない、と言えるかもしれない。死ぬ瞬間、私は死んでいるのだから、それを知覚する意識はないのだから、私の意識は死ぬことはない、みたいなことを昔のギリシアの人が言っていたっけ。そうであるならば死のことを考えても仕方がない、死は考えるに値しないということになるかといえばやはりそうではない。生きている限り必ず死ぬわけで、死は虚無以外の何物でもないとするならば、それに連なる生も虚しいものになってしまわないか。もちろん生は虚しいと嘯いてみせることは簡単だが、心底そう思いながら生活していくことはできない。虚しいもののために苦しい思いをして日をつないでいこうなどと思う方が頭がおかしいと思う。

 死に対して我々ができることが、語ることであるとするのが『死んでいる』ならば、生きることは語ることだとするのがジャネット・ウィンターソンの『灯台守の話』で僕はこれをとても明るい気持ちで読んだ。物語を読むことによる、あるいは物語ることによる救い、と言ってしまえば陳腐かもしれないが、陳腐でもなんでも物語にはやはり救いという側面はある。光を当てられるだけで、掬い取られるだけで、救われる思いがする時がある。十代の頃、自分の気持ちを言い当てられたかのような文章を読んだ時のあの気持ちは、救いと言っても大げさではないものだったと思える。ケアの分野でもナラティブ・ケアという考え方がある。僕はまだ詳しくないので今年中にでも関連書籍を読もうと思う。そういえば伊藤比呂美も、語りのスタイルで詩を多く書いている。それは救いとはまた別のものだけど、草いきれのような、夥しいような感じのする、強烈な生の充満を感じさせるものだった。『河原荒草』がすごいので読んだほうがいいです。」

死後の電話であなたのために歌うとき声は水面を羽ばたく水鳥

 

電話の声は死後に似ていておもいだすとき声はいつでも鳥に似ていて

カニエ・ナハ『なりたての寡婦』 

 

生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび

大森静佳『手のひらを燃やす』