アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

速度

 人から見たらそうは見えないかもしれないけれど僕は案外ちゃきちゃきした心性というか前のめりの姿勢で生きている。もっとあけすけに多動症といった方がいいかもしれない。

 本の読み方に関しておそらく最も色濃く影響を受けている保坂和志によると小説というのは読んでいるその間の時間においてのみ立ち現れてくるもので、僕も頭ではそう思ってはいるのだけど、ある本を読みだした時や読んでいる最中にはもう既に読み終わることを考えている。ひとつのページに目を通してページをめくるという行為にどうしようもなく快楽を覚えてしまっている。読みながら読み終えた後のことを考えている。次に読む本を探したりしている。それでは取りこぼしてしまうものも多いのではないかということはわかっている。片付ける、という意識があるのかもしれない。前へ前へ、次へ次へと急ぎやすい性質は読書だけに限らずに日常生活にも根を張っている。

 お金を出して時間をかけて本を読むのだからせっかくだから何らかの教訓やら意識の変化やらを得たいという貧乏根性むき出しの気持ちもある。そういうよこしまな気持ちがあるからある一文を前後の文脈から切り離して自分の都合のいいように使ったりしてしまうのではないか。

 もっと味わうということを覚えればいいのにと思う。今日のうちに既に明日に気を取られてしまっていては元も子もないと思う。明日はいつかなくなるが今日は死ぬ間際まであるのだから、今日に軸足を置いた方が正しいというか後々いいんじゃないかと思う。そもそも明日に気を取られていると言ってもいたずらにそわそわするだけで何ら具体的な予定を立てたり計画を練ったり準備をしたりするわけではないのだから、目の前にない時間に囚われるのは不毛でしかない。

 しかし読みたい本は増え続け僕は本を読むのが遅いので、両者の間の距離はますます広がる一方だ。読みたい本を全て読むことはできないのだから読む本をもっと慎重に選ぶべきではないかという気持ちも日増しに強くなってきている。そうやって吟味したとっておきの一冊を時間をかけてじっくりと、骨までしゃぶり尽くすくらいの気持ちで読むやり方に切り替える時期なんじゃないかと思う。しかしこの期に及んで僕は読みたい本をすべて読めないことに対して悔しさを感じる。

 

 小説は読んでいる時間の中にしかないというけれど僕は詩の方が読んでいる時間の中にしかないのではないかと思う。もっと言えば詩を読むことによって立ち現れる時間があるのではないかと思っている。詩はこちらのペースで読むことができない。散文を読むつもりでするする目を滑らせているとさっぱりわからない。ゆっくり読んでもわからないものも多いけれど。そもそもわかる・わからないという尺度があまりそぐわない気もする。詩を読むことは謎解きゲームではないと思う。詩を読むときはその詩に合った速度で読む。詩と速度の関係に関してはシュルレアリスムの自動記述の話が面白い。ブルトンが自動記述によって詩を書く際に、基準となる速度を幾つか設定していた。その速度によって詩の形式や語の結びつき方や文の長さが変わってくる。最高の速度で書かれたものは切れ切れのイメージが次々と飛び退るようなものになる。そういう詩はなるべく速く読んでそのスピード感に身を委ねるのが良いと僕は思う。こういう話がたしか塚原史の本に書いてあった。

 詩はその詩が要請するスピードで読む。詩を読む速度は読者ではなくて詩が決める。同じことを何度も言ってすみません。だから詩を読むことは自分勝手に読むのではなくて本に読まされることの訓練になる。僕と本の主従関係を逆転させるような楽しさがある。一行ごとに生まれるイメージとその連なりは、やっぱり音楽のようにそれに接している時にしか生まれない。旅をするような感じかもしれない。

 読んでいて旅をするような感じが特に強い天沢退二郎の詩集を買った。80年代よりも前の詩はそれ以降のものよりももっとわからない。だけどわからないものは楽しい。わからなさに身を浸してめくるめくイメージをただ受け止めるのは夢の中のようなままならなさがある。僕は寝るとき夢を見ない。夢を見ないから詩を読むのかもしれない。詩を読みながら眠っているのかもしれない。