アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

音楽

 最近は毎日工事の音がうるさくて、正確なことはわからないがドリルやらトンカチのような音がひっきりなしに鳴り響いてきて、神経がカリカリしてくるので耳コピした。勢い良く振り下ろされるトンカチの音はミ、徐々に高まっていくドリルの音はド#からレを経由してミになる。だから賑やかになってくるとキーをEとして捉えてセッションしていた。そうやって一度乗りこなしてしまえば、半分は自分が鳴らしていると思うと悪い気はしなくなって、作業がひと段落したのか静かになってしまうと逆にちょっと寂しく思った。街でうるさい若者の集団の近くにいると身が縮こまる思いがするが、自分が友達と喋りながら練り歩いている時は一緒にいる友達や自分の話し声がうるさいとは思わない。もしくはスタジオに入って音を合わせている時にドラムやベースの音が耳障りだと思わないのと一緒で、自分も当事者になるというか、参加してしまえばあまり気にならなくなる。自分に関係がないのに、騒音の被害を被っているからムカムカしてくるのであって、一方的な思い込みであっても、何らかの関係を取り結んでしまえばちょっとした情が湧いてくる。

 
 話は変わって、この前母と二人でポール・マッカートニーの来日ライブを観に行ってきて、それに感銘を受けた母が、僕がギター始めたての頃によく練習していたビートルズの”Blackbird”を教えて欲しいと言い出したので今朝はじめの数小節の弾き方をレクチャーした。それでたどたどしくギターを爪弾く母を見ていると、かつての自分を見ているような気がして、というわけではないんだけど当時の体感がまざまざと蘇ってきて、目の前の光景やメロディーが二重写しのように感じられた。そうやって記憶の揺らぎというか存在がダブる感覚に浸るのはなんとなく気分が良かった。堀江敏幸の『燃焼のための習作』を読んでいて少し考えたことだけど、例えば子供を育てるというのは、しばしば同じ目線に立ってみたりしながら、自分の人生をもう一度生き直すような側面もあるのかもしれないと思うと僕は子供は苦手だけど子育てに少し興味が出てくる。それは保坂和志の『季節の記憶』を読んだ時も少し思ったことだった。子供を育てるということは単純に種の保存とかそういう意味だけではなしに、自分の人生を一過性のものではなくする試みなのかもしれない。一度きりの人生を一度きりじゃなくするというか、過ぎ去った時間や感覚の虚像を見つめ直すというか。まあどっちみちこんな自分本位な興味で新たな命をこの世に生み出そうなんて気にはならないですが…
 
 また話は変わるけどギターを始めたての頃の感触を思い出して、振り返ってみると本当に音楽を始めたことで僕の人生は大きく変わったんだなと思った。交友関係ももちろんだけど出かける場所とか時間の使い方とかやりたいこととか聴く音楽とか考え方とかにまできっと音楽が深く根を下ろしている。例えば僕はフジファブリックに季節が変われば町の匂いが変わるということを教わった。そういう例はいくらでもある。14才の頃から長らくロックに心酔していたわけだけど、音楽は世界を変えるなんて嘘っぱちだとしても少なくとも僕の人生は変えてくれたと思うと嬉しくなった。