アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

ひとりの時間

 高速バスほど音楽に没入できる環境はない。この週末は、京都の友達の家に泊まって滋賀でBBQをして大阪に行って遊んだ。だから移動時間も長くて、本を読んだりスマホをいじったりするとすぐに酔ってしまうので、ずっと音楽を聴いていた。長距離移動中にはくるりを聴くことが多い。昔好きだったバンドとか最近流行りの音楽とかも織り交ぜながらいろいろ再生する。他にやることも注意を向けるものもないので、普段ありえないほどの集中力で音や言葉に集中する。たまに自分が音になるような感覚がする。詳しくはないけどシューゲイザーが好きだった時期があって、それは甘い轟音に包まれていると自分というものが溶け出すような気がするからだった。うまく眠れない日が続いていた時期に、シューゲイザーに浸って自分を失くすのは、睡眠の代わりだったかもしれない。高速の上で揺られながら音楽を集中して聴くのは、隙間時間に上手に眠って体力を回復することができないからかもしれない。ところでシューゲイザーは都会の音楽だと思っていた。部屋でスピーカーで聴くよりも、街中でイヤホンで聴く方がずっと良い。街の喧騒や知らない人々の話し声、垂れ流される様々なアナウンスや音楽や信号機の音、そういったものがかすかに遠くから聞こえてきて、轟音楽と混じり合ってはじめて完成するような気がしていた。

 

 京都で泊めてくれた友達とは、ずっと仲が良かったけどサークルを引退してから急に音楽の話をすることが増えた。この前は十代の頃に聴いていた音楽の話をした。十代の頃の自分にとって音楽は特別だった。フジファブリックとか、フィッシュマンズとか、そういう音楽好きの間では常識になっているようなバンドを、中高生の頃、「クラスで僕しか知らない音楽」として聴けたことは幸福だったというような話をした。これは別にサブカル小僧特有の選民思想とかではなくて、そういう音楽をみんなが知ってる、教養としての音楽ではなく、ただ自分一人のためのビューティフルミュージックとして聴けたことはとても贅沢なことだったという意味だった。今は音楽好きと言えばフェス、というくらい、みんなで一つの音楽体験を共有する、ということが喜ばれる時代だけど、ひとりのために鳴らされる音楽があるということは、独りだった当時の僕にはとてもありがたかった。独りだったからその音楽まで辿り着けたというふうに、孤独に意味を与えてくれていたような気がしていた。今ではみんなでオアシスを合唱したりフェスに行ったりするのもちゃんと好きになれました。

 

 週末にお金を使って友達や恋人に会って遊んだりすると幸せな気持ちになる。友人や恋人と遊んだり話したりしている時に僕はいちばん幸福感を感じるかもしれない。一日中ひとりで好きなことをしている日は、幸せな気がするけど幸福感はあまりない。かといって毎日友達に会っていれば毎日幸せかというとそうでもない。ひとりで好きなことをひたすらしたいという気分になる。ひとりで好きなことをひたすら追求する毎日だったら幸せかというとそうでもない。もちろん不幸ではなくてどちらかといえば幸せだろうけど、幸福感はあまり感じられない。

 思うに僕は「ひとりの時間」を誰かと共有できた時に幸せだと感じるのかもしれない。僕のひとりの時間を理解しない相手としゃべったり遊んだりしてもあまり楽しくない。この前内定先の懇親会があったが同年代だからといって友達になれるとは限らないという当たり前のことを再確認した。この手ごたえのなさは何に由来するものかと考えてみると、自分と相手とのひとりの時間の過ごし方に重なるところがまったくないからだと思い当たった。だからこれはどちらかのコミュニケーションの能力や態度に問題があるというわけではなくて、ただ絶望的にすれ違っているだけなのだと思う。

 会っていない時の時間でも少なからず何かが重なり合っているような相手と、最近好きなものの話をしたり何かをオススメし合ったりするするのはとても楽しい。ひとりの時間が重なり合っている相手とは、地理的には離れていても離れている気がしない。おそらく時間的に離れていても離れている気がしないだろうと思う。チェーホフの短編「大学生」はそういう話だと思う。