アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

安東次男「藤原宮址」がすごい

 渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』を本屋さんに注文していたのが届いたので取りに行った。アマゾンで頼んだ方が早いしそれでもいいんだけど、本を買うことは僕の数少ない外出の動機になるので、北大路の本屋さんまで注文しに行くことにしている。

 詩の読み方を易しく解説、という趣旨の本は結構な数があるけれど、この本のユニークなところは、「詩はわからない」ということに軸足を置いていることで、簡単にはわからないということの面白さについてたびたび言及している。

詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年たっても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、 唯一解に到達する必要もない。

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』

   これがこの本の基本的なスタンスであり、そこで紹介される詩人・作品も、いわゆる教科書に載るような詩ではなく、ほかの詩の入門書とは毛色がちがっている。

 例えば「実感の表現」と云うとき、「実感」のもとになった現実世界における体験が、常にその表現に先立って存在しているということになる。つまり「実感の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。

 そ れに対して塚本的な「何か」は、自らの表現が未来と響き合うことを期待している、とでも云えばいいだろうか。ここで云う未来とは過去の反対語としてのそれではなく、現実を統べる直線的な時間の流れからの逸脱そのものであるような幻の時である。

穂村弘『短歌の友人』

  これはこの本の中で引用されている穂村弘による塚本邦雄評の一部であるが、『今を生きるための現代詩』で紹介されている詩は、ほとんどが「未来と響き合うことを期待している」ものである。著者は、中学の国語の授業で教えられた谷川俊太郎の詩(「生きる」)の良さがさっぱりわからずに困惑した記憶に粘り強く思考を巡らし、あの作品の良さは作者の、そして読者の「過去の経験」の厚さに依拠するもので、ほとんど過去を持たない当時の自分に理解できなかったのは当然だ、と結論している。そういう、ある程度の経験というか、年月を経ないとわからない、というか年齢を重ねてから読んだ方が味わいの増す詩というのがある一方で、「未来と響き合うことを期待している」詩というのは読み手の年齢や人生経験とは関係がなく、言い換えれば誰にとっても平等にわからない。そのような詩が本書では紹介されている。もちろんわからないとだけ言って投げっぱなしというわけではなく、唯一解的な読みを読者に押し付けないだけで、著者なりの読みも教えてくれる。当たり前だけど、詩の読み方には正解があるわけではなくて、たとえ作者が同じであっても、違う詩であれば読み方、読むスピードも変わってくるし、声に出すか目で読むかというのも詩によってちがう。詩を読むメソッドというのはありえなくて、詩の数だけ読み方もあると考えたほうがいい、ということを再認識させられた。

 

 以上が僕なりのこの本の紹介だけど、僕が書きたいのは本当は本の紹介ではなくて、この本の中で紹介されている安東次男という人の詩に、すっかり惚れ込んでしまったということだ。特に気に入ったのが「藤原宮址」という詩で、引きずり込まれるような危うい魅力がある。

 

十一月の汗をかくほとけの微笑
に飽きてくらがりで時計を見る
無意味なくせをやめたニシキギ
の寺をくだりはじけたアケビ
実に似た川をさがして夕もやの
地形にまよいこんだカンナビの
金色にアトリはいずアケビのた
ねを散らしながらまばらな松林
へいそぎ脚の長い女の子にあい
さつされたプールのある小学校
の庭でホツケでらの観音の伏目
にはすこしたりなかった右手を
思いだした指紋のない三かみ山
の そとへどうやつて帰ろうか
—  安東次男「藤原宮址」

  安東次男という人は、連句の実践・研究者としての側面も持っていて、それがこの詩に存分に発揮されている。連句というのはある人が出した五七五の長句に、次の人が七七の短句をつけ、その次の人がまた長句をつける…といった具合に進んでいき、前の句に対応するようにある句が出され、次の句はその句と対応するように作られる。つまり一つの句が前の句と後の句それぞれとペアになっており、少なくとも二つの文脈で読まれることになる。安東次男の「藤原宮址」にも、その連句を思わせる特性があって、この句読点がなく機械的に行分けされた詩句をどこで区切るかは読者に委ねられていて、ある言葉がどの言葉にかかっているのかを読み替えることによって刻々と幾通りもの意味や情景が生まれいく。そうやって行きつ戻りつしながら徐々に読み進めていくうちに、どんどんイメージが積み重なっていき、なかなか読み終わることができないでいるうちに、そとへの帰り方を忘れてしまうような、眩暈のような陶酔感がこみ上げてくる。狐に化かされた人が同じところをずっとぐるぐると歩き続けているうちに次第に陶然としてくるような感じだ。この詩のもつ妖しく波打つような、たゆたうような呪術的なリズムは、音楽でいうならミニマル・ミュージックというかポリリズム的で、イメージが少しずつ変化したり重なったりしていくのにひたすら身を委ねるのが気持ち良い。読むたびに意味が変わるようで、ちょっと俗な例え方をするならば、プレイするたびに展開の変わるチュンソフトサウンドノベル弟切草』にも通ずるところがある。

 トリップ感のある詩というと、伊藤比呂美の『河原荒草』が圧倒的にナンバーワンだったんだけど、安東次男もかなりのものかもしれない。もっと色々と読んでみたい。

 

 気になる詩人、もっとたくさん読んでみたいと思う詩人がまた一人増えた。そういう詩人にはそうそう出会えるものではないので、とてもうれしい。今年に入ってから、伊藤比呂美、蜂飼耳、高橋睦郎、安東次男と、続々と増えている。この四人は特にお気に入りで、他にも谷川俊太郎や松下育男、岡本啓日和聡子、高良留実子、フランシス・ポンジュなども気になっている。これは自分のための忘備録。