アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 雑な問いの立て方をするとモヤモヤしか出力されない。生きるとは何かがその代表例だ。自分には考えられることと考えられないことがある。言い換えれば答えられる問いと答えられない問いがある。答えられる問いは、それは答えられるものであるから、きちんとした良い問いを立てることができたなら、それはもうほとんど答えだ。

 答えられない、手に負えない、抽象的・観念的な問いを立てたふりをしてモヤモヤしていることが許される期間がモラトリアムだとすると、僕は年齢的にはそれを卒業してしかるべきなので、やたらと観念的な悩み事を作り出して身動きが取れなくなることを自分に許すのはそろそろ良くない。最近あんまりそういうのないけど。かといって、簡単には解決できない、しかし見て見ぬ振りをするのも望ましくない問いを捨ててしまうのも如何なものかという気持ちもある。引っ掛かりを懲りずに持ち続けることによって、考え続けることによって、時間の経過とともに、答えというには頼りないにしても、ちょっとした手応えのようなものが得られることがある。だからこのことについては保留にする。

 生きるとは、とか、欲望の原理とか是非とか、正直そんなことを考えていても結論は無になるだけでなんにもならない。無なものは無だと言われても現に僕はいま生きているしとりあえず天寿は全うするつもりでいる。生きていることや欲望の存在は所与のものとしてまず受け入れるべきで、自分で自分の足場を切り崩すような真似を素人がいたずらに試みるのはたぶん百害あって一利ない。根本を考えることは共有するべき前提を作る上では有効かもしれないけれどそれ自体が目的なのではない。僕の目的はというとなるべく平気で生きること、なるべく楽しく暮らすことなので、そういう観点で言ったら、自分は何をしているときが楽しいのか/苦しいのかを検討した方がきっと実りがある。欲望の原理やその是非についてクダを巻くよりも、どのような欲望が自分にとって望ましいのか、つまりどのような欲望を選択するべきなのか、を考えた方がいい。僕は欲望は恣意的なもので、環境を変えることである程度の方向性はコントロールできるものだと思っている。恣意的というのはちょっと違うかもしれない。自分にどんな欲望が流れ込んでくるかを予測して環境を整えることで自分がどのような欲望を抱くことになるのかがある程度コントロールできる、といった方がいいかもしれない。そんなに単純じゃないことの方が多いかもしれないけど。

 僕は将来の夢がいくつかあって、好きな人と暮らすこと、毎日料理を作ったり休みの日にはお菓子とかピザとか焼くこと、本が読める生活をすること、蜜柑の木を植えることです。当面の目標はいい感じに日焼けすること、筋肉でもつけてなかなか疲れなくなること、仕事をもらうこと、です。いま欲しいものは穂村弘の新しい歌集とプロテインのヘヴィーウェイトゲイナーです。