アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

禁欲主義的

 禁欲的な生活態度について考える。僕は必要に迫られて、主に金銭面で、禁欲的な生活態度でもって日々をやり過ごすことを余儀なくされることがしばしばある。ちょっとした都市に暮らす僕たちにとって、何かをすることは大なり小なり金銭のやりとりが発生するから、金銭面での節約は全面的な節制につながる。

 禁欲主義的な態度は、歴史を振り返ってみるとあらゆる時代の様々な地域に見出される。ぱっと思いつくだけでもストア派の人々、キリスト教徒、禅僧などなど。それらを大雑把に見てみると、禁欲というのはだいたいそれ自体が目的なのではなく、それによって近づくことのできる真理だとか死後の救済だとかと強く結びついている。今の僕は真理への探究心はそこまで強くない。ある程度の良識というかコモンセンスを外さなければまあいいかと思っている。真理への渇望も何らかの信仰も死後の救済もべつに信じていない僕も含めた現代を生きる多くの人々にとって、禁欲はどのような意味を持つのか。何らかの必要に迫られたり、宗教的な感情と結びついた禁欲なら理解できるけれど、そうではない自主的・積極的な禁欲は今日どのような意味を持つのか。

 「悟りとは平気で死ぬことではなく、平気で生きること」であるみたいなことを正岡子規がどこかで書いていて、禁欲の意義というとまずそれではないかと思う。欲望にいたずらに振り回されたり、我を失ったりすることなく、地に足をつけて自分の生を生きるための方法として、禁欲があるのではないかと。ミニマリストがものを減らすのは不要そうなものが目に入った時に「これ捨てようかな、どうしようかな、でも人にもらったものだし、思い出もあるし…」などと思い煩うコストを根本から断ち切るためだというのを聞いたことがある。何らかの仕事なり目標なりに打ち込むために、それへの集中を妨げる障害になりうる要素をあらかじめ取り除いておいて、生活をシンプルにしてしまって、生命維持や日常生活に関わるような活動をルーチン化して、それらに気をとられる時間や些細な決断で消耗するリソースを温存しておいてここぞというところに集中させるという、合理的な精神の持ち主が合理的な判断に基づいて禁欲を選び取る場合が多いんじゃないかと僕は思う。

 僕は合理的な考え方を内面化するのがあまり好きじゃない。コストパフォーマンスに徹底的にこだわるならいまこの場で自分の腹をかっさばいてしまうのが一番の節約ではないかと思う。僕のこれも大概だけど合理主義につきまとう単純な考え方があまり好きになれない。基準をこれと決めてしまったら、そのまましかるべき手順を辿れば出てくる答えは一定で、個人的にはそういうのにはすぐ飽きてしまう。だから僕は合理主義的な動機から積極的に禁欲に取り組むことはない。

 必要に迫られて禁欲生活を強いられることがあると書いたけれど、ちょっとお金に余裕ができてそこまでストイックにならなくてもいい時期が来ることもあって、そういう時はちょっと困る。欲望を持ち続けるのもけっこう大変というか意志がいることで、例えば何かが欲しいと思っても三日くらい放っておけば大体の物欲は色褪せて差し迫ったものではなくなる。つまり見ないようにしていれば欲望は勝手に萎んでいくので、むしろ長期間にわたって同じ欲望を持ち続ける方がよっぽど大変じゃないかと思う。それはすごいことなので夢と呼ばれたりする。欲望は他者の欲望を欲望するという言葉があるけれど、実際に振り返ってみても自覚される欲望のうちの大部分は他者を経由して入ってきたもので、自分が自分で欲望したものではない。というか突き詰めて考えると自分が自分で欲望するのはせいぜい最低限の生理的欲求のみなんじゃないかと思う。そんな風にして過ごしていると、急にちょっとは好きに過ごしていいよということになっても、別にやりたいこととか欲しいものとか特に思い浮かばないなということになる。かといってせっかくの休日に一日中座禅に取り組む、みたいな過ごし方は僕は退屈してしまう。何かがしたいという気持ちが起こらない状態は抑鬱状態と似ていて、欲望がないとか、したいことがないことは現代では不健康なことなんじゃないかとすらちょっと思う。

 欲望がなくなってしまうことは退屈だけども、欲望に身を任せて生きていくのもいやだ。面倒臭い。欲望は欲望を生み出すし果てがないし原理的に満足することはない。疲れそうだし虚しくなりそうなので興味がわかない。かといって過度に欲望を否定し続けていると次第に虚無が見えてくる。生が生前から死後へと向かう過程の一瞬の息継ぎであるかのように思えてくる。ところで生まれる前には僕は存在しなかったし、死後も存在しない。「ない」から来て「ない」に行き着く命であるのに無が恐ろしいというのは一体どういう仕組みなんでしょうね。意識は「ある」しか知らないからでしょうか。でもどっちみち死ぬとき意識は「ない」を認識できないけどね。いつからか自分の中にちっぽけな無常観がインストールされていて、ふとしたときにトカトントンと音をたてます。まあいつか無に還るその日までできるだけ頭と五感を喜ばせましょう。