アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

話すこと

 クッツェーという南アフリカの作家の『マイケル・K』という小説を読んだ。アパルトヘイトの時代に書かれたもので、生きることと食いつなぐことが同義の世界でマイケル・Kという名のひとりの男が、ときに獣のように家も持たず身一つで、ときに強引な福祉政策や暴力に絡め取られながら、ひとりで土のように生きていこうとする物語だ。いろいろな切り取り方や読みができる小説だと思うけれど、僕はこれは「人はひとりでは生きていけない」というテーゼを真摯に突き詰めた作品だと思った。

「人はひとりでは生きていけない」とみんなが言う。僕もたぶんそうだろうと思っている。ひとりで生きていくには、知らないことが多過ぎるし、持っていないものが多過ぎる。もし仮に十分な土地と知識と筋肉があったとしても、僕はひとりで生きていけるだろうか。町中の店という店には究極的には不必要なものばかりが溢れていて、手間や労力を惜しまずに、そして見栄や外聞というものの一切を投げ捨ててしまったら、いらないものばかりだ。物質的には、ある程度の土地と家と動物と植物があれば、ひとりで生きていくのは不可能ではないんじゃないかと思う。問題はつまり精神的な孤独に耐えられるかということだけど、それはわからない。無理そうな気がするけど、そもそもたわいのない仮定の話なので突き詰めるのはやめにする。

 ひとりで生きることを選ばないのなら、社会のなかで、他人とともに生きていく必要がある。そしてそうするためには、少なからず話す必要が出てくる。職を得るためには面接で自分のことを熱っぽく少々劇的に語らなければいけないし、日雇いのバイトでも休み時間に天気の話ぐらいはする。先に挙げた小説のなかでも、住んでいた街から強制労働から難民キャンプからすり抜けて大地とともに生きようとするマイケル・Kは何度も社会の中に引き戻されて、その度に話すことを強いられる。そのうちのワンシーンで、頑なに口を閉ざす彼は次のように問い詰められる。

 「ここへきみを連れてきたのは話をするためだ、マイケルズ」と私。「上等のベッドをあてがい、食べ物もたくさんあたえ、一日中居心地よく寝そべって、鳥が空を飛んでいくのを見ていられるようにしているんだから、われわれとしてもそのお返しが欲しいところだな。そろそろ吐いてもいいんじゃないか、な。きみには語るべき話があり、われわれはそれを聞きたい。どこからでもいいから始めたらいい。母親のことでもいい。父親のことでもいい。きみの人生観でもいいさ。母親のことを話したくないというなら、あるいは父親のことや人生観なんて嫌だというなら、このところ考えてる耕作プランとか、ときたま山からおりてきてちょっと立ち寄り、食事をしていく仲間のことを話してくれ。われわれが知りたいことを話してくれれば、君を独りにしてやれるんだがな」
 私はここで一息ついた。彼は頑固ににらみ返してきた。「話せよ。マイケルズ」私はまた口を開いた。「話すなんて簡単だろ、わかってるよな、話せよ。いいか、よく聞け、ほら私は難なくこの部屋にことばを響かせているだろ。一日中飽きずにしゃべりまくる人間だっているし、あたり構わずしゃべりまくる人間だっている」ノエルと目があったが、私は続けた。「自分に中身をあたえてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。戦争が終わり、差を出すために巨大な数の引き算が行われるとき、きみはその数表を構成する数字の一単位にすぎなくなってしまうぞ。ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を人に聞かせろ、きみの話を語れ!われわれが聞いてやろうじゃないか!こんなふうに親切に、文明人の紳士が二人して、必要とあらば昼も夜も、きみの話に耳を傾けようとしてるなんて、おまけにノートまでとろうとしてるなんて、いったいどこの世界にあるというんだ?」

  ここでは話すことは自分に中身をあたえることだと言われている。話さなければ誰にも気づかれず、簡単に忘れ去られ、すぐに数字の一単位に過ぎなくなってしまう。語られないことは存在しないものとみなされて、声の大きい意見がたやすくまかり通ったりする。しゃべることは誰にでもできる、ささやかで地道な存在証明なのかもしれない。語り続けることは、確かに何かを変えうるのかもしれない。言葉を持つということは、言語化できるということは、それだけで一つの力なのかもしれない。

 僕はいま日雇い労働をしていて、毎回違う人と仕事をするわけだけど、自分が話していない事柄は一切相手には伝わらないということを強く実感する。例えば気圧が下がると頭が痛んで身体に力が入らなくなることも、主張しなければ相手にはそんなこと思いもよらずに考慮はされない。僕が最近ラテンアメリカ小説に凝っていることや、音楽が好きなこと、ギターが弾けること、前の晩にチキン南蛮を作って食べたことなどを相手は知らない。そのことについて喋っていないからだ。そして相手のことも何も知らない。普段どんなものを食べているのか、恋人はいるのか、どんな学生時代を過ごしたのか、一万円をポンと手渡されたら何に使うのか、想像もつかない。そのことについて聞いていないからだ。もちろん日雇い労働の現場でそんな個人的な立ち入った話を持ちかける必要はまったくないけれど、とにかく話さなかったことは決して相手には伝わらないという当たり前の事実になんだか改めて気がついたような、そんな新しい気持ちになったのです。