アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

手を動かして、よく眠れ

 業務用スーパーで2kgの鶏肉を買った。宇多田ヒカルばかり聴いている。最近少し眠りやすくなった。『収容所のプルースト』を読んだ。川口晴美の詩集を読んでいる。日の光がよろこばしい。ペーパードライバーという語の響きが気に入っている。自動車免許は持っていない。

 少し活字に疲れてきている。肉体労働はつらいが1日部屋の中にいるのもつらい。小林銅蟲にハマっている。映画をまた観るようになった。放射性廃棄物の処理をめぐる『100000年後の安全』というドキュメンタリー映画がいま気になっている。『チェルノブイリの祈り』という本も読んでみたい。石牟礼道子の『苦海浄土』はずっと部屋の隅に積んだまま読めていない。近所の古本屋さんは熊本びいきで良い。

 高橋睦郎の『永遠まで』と伊藤比呂美の『河原荒草』をとても気に入っている。半年で2冊もお気に入りの詩集ができることは珍しくてとてもいいことだと思う。

 長い文章や、論理的な話の運びができなくなってきている。今日は別に疲れているわけではないのだけど。だから箇条書きで書いている。改行をしないと箇条書きに見えないかもしれない。そもそも人を動かすことにあんまり興味がないというか、それよりもそんなことはまるっきり他人事だと思っているという方が近い。

 お金があんまりない。ギリギリ食いつないではいけるけれども家賃とタバコと食費以外に回せるお金がほとんどない。お金がない状態が続くと時々、店やコンテンツや言葉の背後に透けて見えるあらゆる作為が鼻について嫌になることがあって、そういう状態になると何にお金を使っても楽しくなくなるので少ししんどい。そういう目で見ると、世界は空でしかなくすべてのものはハリボテに感じられるけれど、たとえ本質的には薄いハリボテだとしても、多くの人がそれをあるかのように振舞っているということそれ自身に価値は宿っている。本質が見たいという気持ちがずっと強かったけれど、おそらく本質などというものはロクなものではない。本質の上には何も築くことはできないのではないかという疑念がいまでは強い。ここで本質という言葉を使うのは本当は正しくないかもしれない。僕は本質という語の意味をそこまで正確に調べたわけでも把握しているわけでもなく、何となくの印象で使っているから。なんにせよ限定的な物言いはよくない。多分だけど人生は想像しているよりもずっと長くて、減らしたり捨てたりするのは一思いにやってしまえば簡単なことで、今はというか若いうちは減らすよりもむしろ増やすことに執心するべき季節なのではないかと思う。増やそうと思っても増やせないようになる時がきっと来る。今ならまだかろうじて増やすことができる。清貧とか簡素な生活とか色々言うけれど、減らすことが得られるもののヴァリエーションなんて割と高が知れている。減らすとか足るを知るという方向でやっていっていると、思ったよりもたやすくガンガン減っていく。確かにそれ相応の満足感もあるにはあるが、減らすことから楽しみや豊かさを引き出せる年月はそんなに長くないんじゃないかと思う。やはりどこか死に支度という感触が拭えない。単純化しすぎた考え方かもしれないけれど、やはり減らすことは死ぬことと繋がっている気がしてしまう。生きることは増やすこと、というかどんどん散らかしていくことではないかと思う。減らすことに重点を置いた生き方を今からしていくと30歳ちょい過ぎぐらいにもう何も無くなってしまいそうな気がするのでおそろしい。何も期待しなくなってしまうことはおそろしい。憧れがなくなってしまうことはおそろしい。それが幻かどうかはあまり関係がない。何かを信頼していなければうまく息ができない。そうじゃないか?

 何だか宗教にハマりそうな人みたいな文章だな。だけどあるかないかよりそれを信じることができるかどうかということの方が活力に関してははるかに重要だと思うんだ。全部ごっこ遊びに見えてしまう、冷めた視線には気をつけたい。危ない思想にも。