アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 本を読んだら忘備録として読書メーターに感想を書く。最近はたまに詩集を読む。詩に感想をつけるなんて、ナンセンスだと思う。すべて詩の中に書いてある。そこに付け加えるべき言葉なんて何一つさえないと感じる。詩を読み解くなんてくだらない。詩は切り刻まれるために提出されたはずじゃないはずだ。詩は持ち運べばいい。詩は抱いて眠ったらいい。詩は何度も読み返したらいい。ものによるけど、声に出して読んでみたらいい。詩によって心の風向きが変わったなら、わからないことが増えたなら、安らぎを感じたなら、不安でたまらなくなったなら、それでいいじゃないか。現代詩はよくわからない。それはズタズタに引き裂いてみても、力任せにひん曲げてみても、上からベタベタと野暮な言葉を塗りたくっても変わらないはずだ。詩は読み返すしかないんだと思う。だけどこれはあくまでお客さんの立場での意見で、詩の未来?を思えば批評も論壇も必要なんだと思う。ぼくは詩を読むのはたのしい。

 
 話は変わるけど、最近自分の敵は自分だと感じることが多い。ストイックな意味ではなくて、自分の中に他人の声が多く流れ込んできて、その声が自分を裁き出すということがよくある。それで身動きが取れなくなったり、回りくどい文章を書いてしまったり、何も言えなくなったりすることもある。思慮深いとも自意識過剰ともいう。こういう時に自意識過剰という言葉を選んだ方が冷静に自分のことを見ることができている感じがするけど、シビアな方を選ぼうとするのはそれはそれで認知の歪みではないかと近頃は思う。
 誰だって多少はそうだと思うけど、自分を見つめるメタ的な自分というのがいて、そいつによる抑圧というか茶々入れみたいなのがだるくなってきた。そういうのダサくない?とか寒くない?とかまだそんなことについて真剣に考えてるの?それちょっと倫理的にヤバくない?今すごい飛躍したよね?などといちいち突っ込んでくる自分がいるけど、そういうのってなんていうか背伸びなんじゃないかと思う。年相応もしくは不相応に若いとか甘いとかダサいとか思われる(誰に?)ことに対してなぜだか異常にビビってるようなところがある。そういうところからもう一人の僕は出てきてるような気がする。人からの目線にこだわるのはうんざりするしダサいと思いつつも絶えず自分の中に外側からの視線を生み出してしまうのは、それはやっぱり若いということなんだろうか。なんかとぐろを巻く感じのこわい文章書いちゃったな。
 ぼくの一番大好きな本のひとつである、谷川俊太郎の『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』から、心あたたまる詩をひとつ紹介して終わります。
 
 8 飯島耕一
にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きてる
何をしていいか分らないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め