アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

中也

 僕は中原中也が好きだ。学校の教科書に載っていた「汚れちまった悲しみに」が初めて読んだ彼の詩だった。中也の詩は今でもときどき読み返す。その度にあらためて好きだと思う。

 中也は理由のない悲しみをよくうたうから好きだ。理由のある悲しみも僕たちの生活にはありふれているけれど、理由のない悲しみだって当たり前に存在する。この前文庫になっている中也の詩集を読み返してみるまで、僕はそのことを忘れていた。中也を読むのは、好きだと思うのは、青臭くて恥ずかしいという意識がいつからか芽生えていた。太宰治はよくはしかに例えられるけど、中也もはしかだと思っていた。わけもなく悲しくなってしまうなんて、子供っぽいことだと思っていた。
 というのも、悲しい気持ちになるのは単純に体が疲れているからだとか、睡眠が足りてないからだとか、お腹が減っているからだとか、そういう風に割り切って対処することが物分かりのいい大人の対応というものだと、そういうようなことは大人になるまでわからなかったという但し書きをつけて主張する人をよく見ていたからだ。だけどこういう○歳になるまでわからなかったこと論法はずるい。ずるいというか抑圧的だと思う。抑圧的だと思うからずるいと感じる。まず単純にその歳に達していないひとがそれは違うんじゃないのと言ってみたところで「君はまだ若いからわからないんだよ」と言われるのがオチで、物分かりのいい風を装いつつも結局のところ一方通行で言いたいことを言いっぱなしてるだけで、たとえその中身が本当のことや有益なアドバイスだとしても、そういう一方的な物言いには反感を覚えてしまう。また仮想敵と闘ってしまった。そんなことはどうでもよかった。
 話が逸れてしまったけど、そういう言説に触れているうち、そしてそれらに素直にふむふむと頷いているうちに、いつしか悲しみには理由があって、そしてそれは大した理由ではない、という認識が内面化されていった。たっぷりご飯を食べてゆっくりお風呂に入ってぐっすり眠れば、悲しいことなんてないんじゃないかと。そうすると悲しい気持ちになるのはこちらに何らかの手落ちがあったからで、そのことでぎゃあぎゃあ騒ぐのは幼稚なんじゃないか、悲しみを高尚なものとしたり、アイデンティティの拠り所とすることはガキくさい愚行なんじゃないかと思うようになってきた。ここまで書いてきて思ったけど、自分の読みが変な方向に過剰だっただけで、自分の生活実感を無邪気に書き綴って手と手をとって明日からも頑張ろうとしているだけの人たちにはやっぱり罪はない。
 それはそれとして、中也の詩には理由のない悲しみがよく出てくる。それを読むととても心が安らぐ。別に悲しみを高尚なものとしているわけでもなく、それを拠り所とするのでもなく、言い訳にするのでもなく、ただ悲しいから悲しいという、そういう描かれ方をする。その悲しみには理由もなく、意味もなく、因果関係もない。ただ悲しいだけだ。そのような悲しみを前にして、「なすところもなく日は暮れる」。それでいいじゃないか、仕方がないじゃないかと、僕は久しぶりに中也を読み返して、自分のわけのない悲しみを受け入れることができた。僕は中原中也が好きだ。