アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 この前大きいことについて考えると疲れてしまうということを書いたけど、大きいことというよりも正しさについて、と言い換えた方が実感に近いかもしれない。正しさなんてものは一人で決められるものでもなくて、かといって多数決で決めていいものでもなくて、正しさについての合意形成はどのように行われるのか、ぼくには全然わからないけど、とにかく正しさについて考えようと思っても、そもそも足場からあやふやで、範囲も曖昧でよるべなく、誰か偉い人、賢い人が唱えた説を取り込んで自分の考えのように振舞うしかできない気がしている。かといって考えることをやめて自分の外から流れ込んでくる正しさを盲目的に信じていればいいわけでもなくて、自分なりの正しさをどうにか捕まえようという視線自体は持っていなくてはいけないと思うけど、正しさを求めることに汲々としていてもたぶん得るものはそんなにない。正しさはいつだって配慮しなければいけないもので、正しさに対する意識は時代とともに移り変わっていくので、各人が日々更新していかなければいけないものではあるけれども、正しさをひたすら追求することが良い結果をもたらすとは限らないというか、正しさにこだわり続けるとそれがいつの間にやら手枷足枷になっているということがあると思う。

 この前大きな図書館に行って、大きな図書館に行くといつも感じることだけど、ここにある本のうちぼくが読めるのは本当に一握りしかないんだなという感慨を覚えた。読書メーターで読んだ本を記録しているからわかるんだけど、ぼくは頑張ってもせいぜい年に200冊くらいしか本を読めない。そう思うと、どんな本を選んで読むのかということにもっと意識的にならないといけないのではという気になってくる。ある本を読んで引用されていたり言及されていたりアマゾンの関連商品に出たりしている本をまた買って読み進めるというやり方で本を読むことが多いんだけど、これは気持ちとしてはソシャゲのガチャを回すのに近い気がする。知識欲とか好奇心とかのもつ中毒性に突き動かされて反射的に次々と手を伸ばしてしまっているだけだという風に思えてならない。そういうジャンキー的な読み方をたぶんここ半年くらいはずっとしていて、自分の頭で考えるということをすっかりやめていたということに数日前に思い当たった。僕は書きながらかしゃべりながら考えるタイプだから、とりあえず何かを書いてみないことには自分がいま何を考えているのかわからない。だからいまもこの文章を、なんかモヤモヤするけど自分はいま一体何を考えてるんだろうということを知りたくて書いてる。

 どんな本が読みたいのか、本とどのような関係を持っていたいのか、今一度じっくり考えてみたい。けどいまはあんまり時間がないのでまた今度。最近はジェンダーや福祉についての本が多かった。気持ちはなんとなく詩の方に向いている気がする。川口晴美高橋睦郎など。