アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

思っていたより屈託がなかった

サークルの同回生でぞろぞろ旅行に行った。その夜の飲み会で、楽しかった思い出話を交えつつ、いまだから笑って言えるけどあの頃実は…みたいな悩みとかをぽつぽつ語りあったりもしていた。人間関係で悩んでいたとか、今後の身の振り方がわからなくなっていた、などなど。
そのときに我が身を振り返ってみても、そのようなわだかまりがあんまり思い当たらなくて、その時々で大好きな人たちと一緒に好きなことや楽しいことをすることに夢中になったり飽きてしまったりを繰り返してきただけだったように思う。そうして、ぼくは自分が思っていたよりもはるかに屈託がなかったんだなと気づいた。
迷惑をかけたり、持て余していた激しさを受け止めてもらったりはしたけれど、いたずらに殴り合ったり傷つきあったりということはなかったと思いたい。これはもちろんぼくが鈍感で記憶力に乏しく責任感に欠けているだけかもしれず、周りの人たちが底抜けにやさしかったり、どうしようもなく気が合ってしまっていたことに由来するものではあるけれど。

ぼくらの代は今までで今が一番関係が良好で、これから先に集まったときに、それぞれ環境も考え方も遊び方も変わって、そりが合わなくなってしまうんじゃないかという不安の声を洩らす友達もいたけれど、個人的にはこれまでに好きだと思ってきた人たちとはつながりが切れたことがなく、屈託なく楽しい関係性を維持し続けられているので、そこは心配していない。来週も地元の友達とキャンプをしに行く予定がある。自分のこういうところは、きっといい面もわるい面もあるけれど、いまはただその単純さを喜ぼうと思う。

ぼくが一番感謝をしている友達のひとりが、ぼくらがまだ一回生の、頭の中ではハチミツとクローバーがぎっしり詰まってはち切れそうになっていた頃から、もっと距離感に気を遣えとしきりに諭してくれていたことを今もまだ思い出す。今なら彼女が言いたかったことが少しだけわかるような気がする。ずっと人間関係にはゴールがあるというか、人と人は際限なくかなり深いところまで繋がりうると思っていた節があったけれど、人間関係にはゴールなんてハナから存在しなくて、強いていえばつづけていくことが最大の目標で、もしかしたらつづけることすらも大した問題じゃないのかもしれない。安易に近づく必要もなければ、わかりあうことも、なにかを共に楽しむことも必要じゃないのかもしれない。その人自体を愛するだけではなく、その人と自分の間に頑として横たわる距離を慈しむという関係の結び方もあるのかもしれない。そんなようなことを宇多田ヒカルも歌っていたような気がする。挨拶をするだけという距離感が適切な相手もいるかもしれなくて、それが不意にどうしようもなく心を軽くしてくれることだってあるのかもしれない。一切の留保もなく受け入れること、それは必ずしも歩み寄ることを意味しない。なにが言いたいかわからなくなってきたけど、とにかく宇多田ヒカルはすごい。DISTANCEを聴け。