いっそひと思いに
インスタグラムを見てみると、いつでも誰かがどこかに行っている。大学生は春休みの時期に入ったからか、どこか遠くに出かけている人が目立つ。ある人は車に乗って、ある人は飛行機に乗って、遠くに出かけている。
到来者にはウィ(oui)と言おうではありませんか、あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆる同定(アイデンティフィケーション)以前に。到来者が異邦人であろうとなかろうと、移民、招待客、不意の訪問者であろうとなかろうと、他国の市民であろうとなかろうと、人間、動物あるいは神的存在であろうとなかろうと、生者であろうと死者であろうと、男であろうと女であろうと、ウィと言おうではありませんか。
ジャック・デリダ『歓待について―パリのゼミナールの記録』
拒絶することにおいて、あくまでも先へ進まねばなりません。祖国と家族、この二つは互いに似ており、対応し合っているのです。『テオレマ』の客の重要な啓示は、男親はつねに養子縁組によってしか親となれないということではないでしょうか。みんながよそから来るのです。だからといって、ここが自分の場所であっていけないわけではありません。外国人などどこにもいない、いや、われわれ皆が外国人なのです。こことはいたるところのことです。どこにいたってそこが<ここ>なのです。したがって、そう、侵入に万歳!願わくは、客たちの時代の来たらんことを!もはや迎えるものと迎えられるものの区別のない時代、誰もが自分のことを客の客であると言うことができる時代の来らんことを!
だがパパラギにとって、考えるということは、道をふさいでどけようもない、大きな溶岩のかたまりのようなものだ。楽しいことも考えるだろう。だが笑いはしない。悲しいことも考えるだろう。だが泣きもしない。腹がすいても、タロ芋やパルサミ(サモア人の好む料理)を食べるわけではない。パパラギという人間の中では、欲望と精神が敵意を抱いて対立しているようだ。彼らは、くだけてふたつに割れた人間だ。
パパラギの生き方は、サバイまで舟で行くのに、岸を離れるとすぐ、サバイへ着くのに時間はどのくらいかかるかと考える男に似ていると言えるだろう。彼が考える。だが、舟旅のあいだじゅう、まわりに広がる美しい景色を見ようとはしない。やがて左の岸に山の背が迫る。それをちらっと見ただけで、もう止まらない ーーあの山のうしろにはいったい何があるだろう。おそらく湾があるのだろう。深いのかな?せまいのかな?こういう考えのために、若者たちといっしょに歌っていた舟歌どころではなくなってしまう。若い娘たちの冗談も聞こえなくなってしまう。
湾と山の背が過ぎ去ると、また新しい考えが彼を悩ます。「夕方までに嵐になるのじゃないか」。そう、嵐になるのじゃないか。彼は晴れた空に黒雲をさがす。来るかもしれない嵐について思いわずらう。嵐は来ずに、夕方ぶじサバイに着く。ところがこれでは、旅行はしなかったのと同然だ。なぜなら彼の思いはいつも彼の身体を離れ、舟を離れて遠くにあったのだから。これならウポルの自分の小屋に寝ていたのと変わらない。
エーリッヒ・ショイルマン『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』
そこでもう一度「ホスピタリティ」の概念である。「歓待の本質は、客をもてなす主の側には求められない。歓待の本質はあくまでも、やってくる客をめぐって規定される」。前にも引いた『歓待のユートピア』のR・シェレールは、そのように書く。シェレールによれば、ホスピタリティとは、<客>を迎え入れるものをその同一性から逸脱させるものであった。<客>ではない、あくまで<客>を迎え入れる者を、である。<客>を迎え入れるというのは、<客>をおのれに同化することではなく、逆におのれ自身をよそよそしいものへと異他化することである。これを言いかえれば、ホスピタリティは同一性への固執、つまり何かへの帰属へのこだわりを棄てるところにこそ成り立つということである。ある場所、特定の意味空間のなかのある位置、それへの帰属に無関心になること。自己の同一性よりも、「われわれ」の掟よりも、<客>の存在のほうが優位を占めるような絆、それがホスピタリティだというのである。「他者への生成なくしては、他者の承認とは、つまるところ空虚な言葉にすぎない」。
このような視点からすると、ホスピタリティは、世界をじぶんの法から視る、じぶんのほうへ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあることになる。私は自己のうちに閉じこもることができない。名をもった「だれか」として呼びかけられることで、わたしは<わたし>になる。わたしの固有性とは、したがって、わたしがその内部に見いだすもの(わたしがじぶんの能力、素質あるいは属性として所有しているもの)ではなく、むしろ他者によるわたしへの呼びかけという事実のなかでそのつど確証される。まさに<わたし>としてのその存在を脱臼させられつつ、である。
鷲田清一『「聴く」ことの力』
おなじことは客のほうにも言える。ホスピタリティをめぐる梅木の解釈はここに注目する。客がみずからの同一性に閉じこもろうとすると、歓待は起こらない。歓待は相互的なものでないかぎり、血みどろの同化か排除に反転しうる。「受け入れられるものは受け入れるものでなければならない。それが歓待のーーそして愛のーー掟である」。他者に「出会う」というのは、少なくともおのれの同一性の外に出る用意があるということだ。護るべき同一的なものをもたぬこと(=奪われてあることprive)、つまりなんの財(=所有物propriete)、も固有性(propriete)もーーいうまでもなくproprieteはetrangete(他者性)の対立概念だーーも所有しないこと、これが他者に開かれてあるための条件となる。
「ジュネによれば、「何ももたないこと」が逆に他者の願いに即座に対応することを 可能にしてくれる。定住する場も持続的な人間関係ももたぬものは他者に差し出すものを何も持たない、自分自身の身軽さを除いては。ところが無であることによってこそ、他者を即座に留保なく迎い入れることができるのだ。(中略)ジュネは、自分が他者に歓待されることを無制限に受け入れることによって、他者を歓待する」(梅木達郎、『放浪文学論』)。固有の場をもたぬこと、つまり非-場所、非-固有の場にあること、これがジュネからの「他者への贈り物」だったというわけだ。
鷲田清一『「聴く」ことの力』