アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

 自立、地に足をつける、倚りかからない、そんな単語を頭の片隅に転がしつつ日々を送るようになって、だいたい一年になる。自立するとはどういうことなのか、どうすればそれが可能になるのか、ということを時には熱心に考え、時にはすっかり忘れて過ごした。毎日自炊をしてみたり、日常的に運動をしてみたり、家計簿をつけて節約に励んだり、禁煙を試みたりもした。

 自炊と節約生活から得たものが特に大きかった。自分がある程度健全に生命を維持するためにかかる必要最低限のコストを身を以て知ることができたことは、精神衛生上とてもよかったように思う。詳しく内訳を書くことはしないけれど、どんな職業・働き方をしてもなんとか賄えるくらいの金額だった。

 また、お金に頼りすぎないように意識して暮らしていると、足るを知ると同時に不足を知ることもできた。お金をなるべく使わないようにして暮らすことも意義のあることだと思うのと同時に、お金を使っていいものを買ったり遊んだりするのも楽しいという当たり前のような実感を得た。お金は飯の種であると同時に誰が使ってもだいたい同じような効力をもつとても質の良いコミュニケーション・ツールだ。お金のことをたくさん真面目に考え続けてお金のいろんな側面を微見ることができた。拝金主義やマテリアルビッチじゃこの先きつそうとは思うけれど、必要以上に嫌悪することも、ミニマリズムもできそうにない。ミニマリズム原理主義的に実践しようとすると、そもそも生きている必要があるのかと疑問に思ってしまう。「動的平衡」で有名な福岡伸一が料理研究家の辰井芳子との対談の中で、次なようなことを言っていた。

辰巳 出発点の「気づき」から、それが確固とした「認識」に到達するまでの過程については、どういうことが大事なのでしょう?
福岡 私は「振り幅」が大きいということが大事だと思います。貯金通帳の残高を見るのが大好きという人もいるようですが、人生は残高じゃなくて振り幅だ、と私は思うんです。なるべく総収入が大きくて総支出も大きいのがいい。どうせ残高を棺桶に入れて持っていくわけにはいかないんですからね。やっぱり大事なのは振り幅で、それが大きいほど豊かな確固たる認識に到達すると思います。
—  辰巳芳子『食といのち』

 安定ということ、主に精神的な安定についていつも思いを巡らしているけれど、これまでは安定というと、振れ幅が少ない、お金で言えば支出が少ないような状態こそが安定であると、心が揺さぶられることがなるべくないことが安定なのではないかと思っていたけれど、求道的な節約生活に片足を突っ込んでみて、勘違いだったように思い始めている。振り幅が大きくても、極端に大きく振り切ってしまった場合にも上手に揺り戻しが効いていれば、それも安定の一つの形なんじゃないか。独楽のように回り続けることではじめて得られる安定もあるんじゃないか。長い目で自分の来し方を振り返ってみると、とてもとても振り幅が大きい。そしてそれがとても楽しかった。これからも一つのところに長くとどまることはきっとなくて、それでいいんだと思う。フロイトが、人間には生への意志(エロス)と一緒に死への欲動(タナトス)も備わっていることを発見したけれど、それぞれ無理に力を加えて抑え込もうとしても無駄に消耗してジリ貧になるだけなので、適度に、問題にならないうちにこまめに発散していった方がきっと良い。これまた手垢にまみれた用語だけど、ハレとケのバランスというか。何にせよ一辺倒というのは健全じゃない。

 

 地に足をつけるとはどういうことかを考えたときに、まだまだ途中ではあるけれど、そしてありふれた結論ではあるけれど、毎日きちんと食べるということとの関わりは根深いように思う。生きることは食べることという、人はパンのみにて生きるにあらずともいう、そのどちらも正しいけれど、個人のささやかな実感として、慌ただしく日々を飛ばして間に合わせの食事を詰め込んで摂取したカロリーでなんとか体を動かす日々が続くと、浮き足立っていると感じる。落ち着かないと感じる。食事をする時間が乱れがちになるとうまく眠れなくなる。飽きてきた。終わります。

 地に足をつけるとか、浮き足立つとか、落ち着かないとか、そういう語源に身体感覚が根ざしているような言葉に最近とても面白味を感じる。言葉の中に先人たちの知恵や実感がぎっしり詰まっている。前にも書いたような気がするけど、みんなと一緒が安心なら死者たちの真似をするのが数が多いしいちばん手っ取り早いと思う。高橋睦郎の「この家は」という詩がそのあたりとんでもなくすごい。


死者より(From The Dead) / 坂本慎太郎(zelone records official)

 ここ数日は、また本を読むのが楽しくてしょうがなくなって、とても調子がいい。