アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

言葉にならない

 さっき文章を書くための準備期間がどうこうみたいな話をしたけど、言葉にならない、といった方が当たっているかもしれない。ギターを弾くときのフォームを直そうと思って変えたら、それが正しい姿勢であっても、最初は変える前よりも下手になる。音が安定しなかったり、速く弾けなかったりする。それでもなんとかやっているとコードを鳴らした時に以前よりも音の粒がきれいに揃ったり、力の抜けた演奏ができるようになったりする。

 言葉とか考え方においても、それと同じような現象が起こるんだと思う。今まで考えたこともないアイデアとか、自分の中にまるでなかった考え方や言葉遣いを自分の中に取り入れるためには、言葉や思考の枠組みの矯正とでもいうようなものが必要で、その作り変わっていく過程においては、言葉遣いや考え方がきっと前よりも一旦下手になる。
 
 分かり合えないということは、簡単にわかったつもりになられてしまうということだと前に書いたような気がするけど、わかるということは自分が持っている枠組みの中に物事をぎゅうぎゅうと押し込んで無理やり当てはめることではない。思春期の頃、どうしようもなく迸るフラストレーションが抑えきれずに周りの大人にぶつけてしまった時、「そういうことってあるよね、わかるわかる。」的なリアクションをされたのがとても嫌だった。単純に「そういう時期なのでイライラする繊細な若者」とか「思春期だから不安定」とかいうよくある図式に当てはめて理解を示されたことを感じ取ってイライラした。たとえありふれたものであっても、誰も通る道だとしても、そう簡単に理解されてたまるか、この気持ちはお前らにはわからねーだろ、と思っていた。今振り返ってみても、たとえ自分がかつて経験したことであっても、あの頃のとんでもない焦燥を肌で感じることはもうできない。はっきりと感覚まで思い出すことはできても、それはもう感傷のヴェールに覆われた別物なのだ。今の僕にはもうわからないのだ。軽々しくわかるなんて言うなよ、と今でも強く思う。ちなみにこれは『20センチュリーウーマン』を観て思った。ほんまいい映画やで〜。
 というか、「わかる」ということにはきっと幾つかのレベルがあるんだと思う。「頭ではわかる」「言っている意味はわかる」「同じことを別のとこで聞いたことがある」とか、「身体にすっと入ってくる」「腑に落ちる」とか、「まったくもって共感、お前は俺か?」とか「そういう時期俺にもあったわー」とか。
 ひとりひとり違った身体を持っていて、違った環境で育って、違った判断基準を持ち、違った生理感覚、言語感覚、思考の枠組みを持っているわけで、そう簡単に人が人のことをわかるわけがない。20歳くらいまではなんとなく誰とでも分かり合えそうな感覚があったんだけど、今では誰ともわかりあうことなんてできないんじゃないかくらいに思っている。もちろん誰もがなんとなく共有している考え方や文法というのも存在する。新書とかビジネス書とか、よく売れる本はそう言った語彙で書かれている。いいとか悪いとかではなくて。だから誰にでも伝わる話し方とか書き方とかってどういうものだろうと悩んだ時にそういうものを読むとすごくチューニングの助けになる。
 逆にたぶん一番理解されない言葉が詩で、これはものによるけど、その人に固有の身体感覚をそのまま言語化しようとしているというか、世界というものを詩人の身体を通じて翻訳したものが詩だから、詩のわからなさというのはそのまま個人のわからなさなんじゃないかと思う。
 
ルボーは一方、詩のやくわりを、
「外部でつくられたものではない映像で、
頭を満たすこと」と定義して、言う、
おそれるのは、個人の記憶が、
消滅してゆくことだ、なぜなら、
「われらの記憶は、外部があたえる映像で、
満たされているからだ、
内がわが空っぽになる傾向にある」と。
藤井貞和「明るいニュース」
 
 わかるってことは、わからないことや未知のこと、新しいことに対応して、自分を作り変えていけることなんじゃないかと最近は思う。とても面白い本を読むと、感想がとても書きにくいことに気づく。わくわくしながら読んだし、こんなに興奮しているのに、どうして言葉にできないんだろうと不思議だったけれど、言葉にするということは、無理やり自分の形に当てはめるということでもあるので、うまく言葉にならないということは、それまでの自分の枠組みに収まりきらないこと、従来の自分では処理しきれないということで、自分が少しずつであれ組み変わっていっている証拠であって、そこで生じる沈黙は、生まれ直していくために骨が軋む音、もしくはかすかな胎動なのだと考えている。
 身体や禅や発酵の本をよく読んでいるけど、そのどれもが今まで触れたことのない分野で、そこで使われる語彙がこれまで慣れ親しんできたものとまったく違うのが、新鮮で面白くてしょうがない。だけど感想がうまく書けない。それを語るための言葉をまだ僕は持たない。けど焦ることはきっとない。
 
・最近読んだ本
スペクテイター「発酵のひみつ」
小倉ヒラク『発酵文化人類学
渡邊格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 タルマーリー発、新しい働き方と暮らし』
 
兄に勧められて読んだ発酵の本。おもしろくてまんまとハマっちゃった。
『発酵文化人類学』の中で、現在発酵は「オーガニック」「美容」「オルタナティブ・カルチャー」「テクノロジーイノベーション」とかのいろんな観点から注目が集まってると書いてあった。個人的には、微生物のはたらきとか、人の暮らしとの関わりとのダイナミズム、とかの微生物すげー!みたいな楽しみ方もあるけど、それよりも「これならできそう!」という、DIYムーブメント的な文脈での関心が強い。DIYと言うと、憧れはあったけど、例えば日曜大工でも、必要な道具を買い揃えるのも大変だし、十分なスペースもないし、毎週釘とか打ってたら苦情がやばそうだしで、自分にはとても無理だ…と思っていたけど、簡単な発酵食品作りなら、容器と水と塩があればできるし、待ってたら勝手に進むし、静かなのでこれならできそうだと思った。土井善晴に倣って一汁一菜スタイルの食事を最近はしていて、一菜を発酵食品にしたら腸にもいいっぽいしよくね、ということで今年は醸していきたい。
 
発酵食品にはなんだかよくわからないところがあって、そのため多くの人は発酵食品を自分で作ることに及び腰になるようです。工場で作られた発酵食品はすべて、薬品による徹底的な殺菌、厳密な温度管理、管理の行き届いた微生物培養などで同じ仕上がりにしているため、発酵食品を作るにはこうした条件すべてが必要なのだろうと一般的に思われています。そしてビール作りやワイン作りに関する本がこうした誤解をさらに根強いものにしています。
 僕からのアドバイスは、専門家崇拝の偏った思想を断固として拒否することです。恐れてはいけません。ハードルが高いなんて思っちゃダメです。どんな発酵食品作りも、技術革新がその製造工程をなんだか複雑にしてしまう前から存在していたことを忘れないでください。発酵に専用の道具など必要ありません。温度計すら入らないのです(あると便利ですけど)。発酵させるのは簡単だし、ワクワクします。誰にだってできます。微生物たちも柔軟に僕たちに合わせてくれます。もちろんどの発酵食品作りでも、かなりの微妙なさじ加減を学ぶ必要はありますが、継続していけな、それまでの経験が教えてくれます。とはいえ基本の作り方は単純でわかりやすいものです。十分自分でできます。
—  サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
 
スペクテイター「ボディトリップ」
内田樹『私の身体は頭が良い』
内田樹平尾剛『僕らの身体修行論』
野口晴哉『体癖』
矢田部英正『からだのメソッド』
 
発酵にハマると共にスペクテイターにもハマる。とても面白そうな企画が多くて、時代の空気を捉えるその嗅覚におどろきまくり。
去年から筋トレを始めて、筋トレというのは最大限に負荷をかけて筋肉を一度壊して、プロテイン飲んでタンパク質を補給してぐっすり眠って、筋肉が治る時に以前よりも太くなる、ってことなんだけど、プロテインがまあまあ高くて、筋肉っていうのはタダじゃないんだ、贅沢品だ…と思って東洋的な身体運用の方向にシフトしました。筋肉をつけることを諦めたわけじゃないけど、いかに疲れないように身体を使うか、っていうのもバイタリティの一つのかたちではないかと思ってる。今はコミュニケーションにおける身体の役割にも興味がある。そのへんは多分竹内敏晴がつよい。
あと、『からだのメソッド』に書いてあったちゃんとした立ち方(どこに重心を置くかとか)を学んで実践してみたら、立ち仕事のバイトが格段に楽になったので、姿勢とか身のこなしを見直してみようと思って、整体関係の本やらアレクサンダー・テクニークやらを勉強してみようと思ってる。
 それと、野口晴哉の『体癖』のなかの、「健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。」っていうのは本当その通りなんだと思う。毎日ちゃんと夜に眠れるように過ごすしかない…
 
・ちびちび読んでる本
小泉武夫『発酵』
一島英治『麹』
サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
阪本順治微生物学 地球と健康を守る』
村尾澤夫・藤井ミチ子・荒井基夫 共著『くらしと微生物』
 
竹内敏晴『思想する「からだ」』
竹内敏晴『ことばが啓かれるとき』
野口晴哉『整体入門』
野口晴哉『風邪の効用』
野口三千三『原初生命体としての人間』
三浦雅士『考える身体』
平尾剛『近く遠いこの身体』
サラ・パーカー『アレクサンダー式姿勢術』