アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

書くための期間

 日記でも感想文でも手紙でも、どんな形であっても、書くということは続けていきたいと思っている。書くことは楽しいし、書くことによってはじめて、ぼくはいろいろな意見や実感を持ったりして、主体的になることができるような気がするから。

 書くための期間、ということについて最近よく考える。一冊の本を書くためには、100冊の本を読む必要がある、って、うろ覚えだけどたしかphaの『持たない幸福論』か何かに書いてあって、たしかに何かを書くためにはそれなりの充電期間が必要だと思う。ひとりよがりな実感を気ままに書き連ねるだけでも、来る日も来る日も新たな実感にしみじみしているわけではないから、やっぱり何らかの実感が訪れるまで待たなければ書けない。なにかしらの有益な情報をまとめたり、読んで面白いコンテンツを仕上げようと思ったら、たくさんの情報やネタを集めたり、縫い合わせたり、切ったり貼ったりするための準備期間がある位程度必要になる。かといって、書いていない時間が長くなると、多分スポーツと同じように、ブランクが長ければ長いほど思うように体が動かなくなっている。頭がうまく動かずに、文章の組み立て方がさっぱりわからなくなったりする。ぼくは基本的に文章を書きながら考えを進めていくタイプなので、何も書かないでいると信じられないくらいぼけーっとしたまま毎日をやり過ごすことになる。あるいはいつまでも同じ考えに固執して過ごしている。要は思考能力が極端に衰える。
 それに、よく言われることではあるけど、その時のその人にしか書けない文章というのがやっぱりあって、そういうものを書かずに放っておいてしまうのは、ちょっと勿体無いんじゃないかと思ってしまう。恥ずかしい文章だとしても、どこかに書き残しておくと、後からアルバムをめくるみたいに、懐かしい音楽を聴くみたいに、時間が経ってから読み返した時に変ないい気分に浸ることができる。去年の暮れに、一年間を振り返ってみようとした時に、読んだ本とか、観た映画が全部記録してあったから、それを順に眺めているだけで一年間に考えたこととか感じていた気持ちとかをわりにはっきりと辿ることができて楽しかった。
 だからなるべくたくさん書いていたいと思うんだけど、書きたい気持ちだけあって書くことがない。もしくは頭の中がうるさくて一向にまとまらない、ということがよくある。毎日何かしらの文章を書いている人を見ると尊敬する。事実のみを羅列した日記だとしても、毎日書くのは大変だ。僕は多くの人と同じように日記をつけようと思って二日で挫折したことが何回もあるんだけど、毎日日記に書くような何かが起こるわけではないし、充実した日はそれはそれで日記を書く時間や気力がない、という現実に直面して打ちのめされてやめた。
 日記が続かないのは、素敵な思い出を書き残そうと思っているからで、文章を継続的に書いていくためには、きっと力んではいけないんだと思う。おもしろいものを書こうとか、びっくりさせてやろうとか、誤解のないようにとか、いろいろなことに気をつけながら書くのは疲れるから続かない。
 「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく」るくらいが、きっとちょうどいいんだと思う。毎日ブログを書いてる人ととか、新聞で毎日四コマを連載している漫画家とかを見ると、そこに修辞的な工夫や形式的な気遣いはあれど、その時何となく思ったことを、何となくそのままたらたらと書いている、という印象を受ける。自己批評をすることは大事なこともあるけれど、そればかりでは何もできない。とりあえずやってみる、ということもきっと大事。この前とりあえずやってみようと思ってヨーグルトづくりにチャレンジしてみたら、部屋が寒くてまったく発酵が進まなかった。今度友達と味噌の仕込みをやってみるつもり。同じ日に同じ材料、同じやり方で仕込んでも、置いておく環境によって味が大きく変わるらしい。だから今のうちに仕込んで、夏が過ぎるくらいに出来上がるらしいんだけど、出来上がったら交換会でもするようにしたら、ちょっとしたタイムカプセルみたいでたのしそう。
 なんか書きたいけど書くことないわ、という話を何も考えず読み返しもせず無心でキーボードに打ち込んでいたら、それなりの文字数にはなった。書くことないという話を延々とすることによって結果的に2000字近く書いたことになった。なんかふしぎだ。