アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。2018年になりました。年々色々な種類の人を見て、年々人付き合いというものがわからなくなっていきます。そして、自分自身も年々色々な種類の人間になっていきます。文学少年的に青春を過ごしたので、いつも人生というものを捕まえようと励んできましたが、追いかけようとするほど今までの想像が幻想や思い込みの類であったことが自覚され、よく言えば自由に、感じたままの言葉を使えば曖昧になっていきます。悪い気はしません。

 今年は、去年に引き続き生活を掘り下げて、もっと動ける開けた身体を作っていくのが抱負です。それに加えて今年は、勉強したいことがあるのでそれを勉強して、あとは主体的な遊び上手になれたらいいと思います。最近街に出かけると、街での遊び方をすっかり忘れていることに気づいて愕然とします。ここ10年くらい、ただお金を使って遊ぶよりも、自分たちで作ったり、そこにしかないものを使って遊ぶのがトレンドらしいので、その方向でなんか、やっていきます。

 年末年始は、いつもより長めに帰省して、いつもより予定を入れずにゆっくりと家族と過ごしました。人と暮らしていると、どんな日も最低限の元気や社会性が維持されるのがいいですね。一人暮らし特有の、あのブレーカーが落ちたような気持ちになることがほとんどありません。

 実家への行き帰りは、行きはバスで、帰りは電車だったのですが、長距離を移動するときはバスの方がはるかに快適です。電車だと、周囲の人がめまぐるしく入れ替わるので、いちいちその人たちがまとっている現実感にあてられてくらくらしたりイライラしたりします。今日電車で帰ってきたのですが、くたくたです。次からは絶対にバスにします。

  実家の本棚からこっそり盗んできた、ミシェル・フーコーの『自己のテクノロジー』という本を読んでいるのですが、「なんじ自身を知るべし」という古代ギリシアの有名な言葉は、今でこそすっかり一人歩きをしているけれど、本来は「なんじ自身に気を配るべし」という規範に従属するものであったそうです。そこから始まって、「なんじ自身に気を配る」こと、自己管理、もっとキャッチーに言えば自己啓発歴史学といった内容で、晩年のフーコーはこんなことを考えていたのかと思うと、イメージと違っておもしろいです。プラトンの(実はプラトンの著作じゃないという説もあるそうですが)『アルキビアデス I』から始まって、キケロセネカマルクス・アウレリウス・アントニヌスへと繋がっていく、「なんじ自身に気を配る」ことをめぐる考え方や実践の変遷。この思想は僕の好きな新プラトン主義や初期のキリスト教へも繋がっているそうです。1,2世紀のギリシア・ローマにおいては自分がしたことに重きを置いていたのが、キリスト教によって心の内部の出来事、自分が何を思ったのかへと中心が移っていき、それが「なんじ自身を知るべし」の逆転に繋がって、デカルトなどの近代以降の哲学の考え方にも受け継がれて今に至る、という感じらしいです。こういう話が僕は好きです。

 他に今読んでいて面白い本は、佐久間裕美子『ヒップな生活革命』、竹内敏晴『思想する「からだ」』、土井善晴『一汁一菜でよいという提案』や禅の本などなどです。

 『ヒップな生活革命』では、2008年の金融危機以降にアメリカで起こった消費意識やライフスタイルの変化を食やファッション、文化など様々な面から見る本で、こんなことがあるんだよ、という報告集というか、お手紙のような本です。どこにお金を払うかは、どこに投票するかと同じ、みたいな価値観が根底にあるみたい。

 『思想する「からだ」』は、まだあんまり読み進めてないけど、からだと言葉、からだと精神、からだとコミュニケーションとの関わりとかそれをときほぐすためのあれこれが書いてあるっぽい本。まだあんまり読んでないので全然違うこと言ってるかもしれないけどおもしろそうな本。

 『一汁一菜でよいという提案』は文字通り、具沢山の味噌汁と漬物とごはん、毎日の食事はそれでいいんじゃない?っていう話。味噌汁の底力というか、可能性を感じる一冊。これ読んでから味噌汁作るのが楽しくなった。僕はまだ試したことないけどトマトと卵の味噌汁とかまで載ってる。おいしい日もあればまずい日もある、それが当たり前、という主張がおもしろい。

 

 今年もたくさん本を読みたい。今年もテキトーなことばっかり書いていきます。読み書きはたのしい。毒にも薬にもなるけどお金にはならない。

 

 書き記すこともまた自己への気配りの文化のなかでは重要であった。気配りの主要な特徴の一つとして、読みかえすために自分自身のことについてメモを取るとか、論文をしたためるとか友人を助けるために友人あてに手紙を書くとか、自分が必要とする真実を自分のために再活性化する目的で記録を作るとか、が含まれていた。ソクラテスの書簡は、この自己鍛錬の一つの模範である。
 伝統的な政治生活においては、口述の文化が広く支配的であって、したがって、修辞学が重要であった。しかしながら帝政時代の統治構造の進展および官僚制は、政治領域における書記作業の量ならびに役割を増大させた。プラトンの著作のなかでは、対話は文学的な仮の対話という形をとっていた。しかしながらヘレニズム時代までには、書き記すことが優勢となり、真の弁証法は往復書簡の形をとるようになった。人が自分自身に気を配ることは、恒常的な書記活動と結びつけられるようになった。自己とは、書きしるされるべき何かであり、書記活動の主題ないしは客体(主体)なのである。それは宗教改革とかロマン主義とかから生まれた近代的特色ではないのであって、最も古い西洋の伝統の一つなのである。アウグスティヌスが『告白』を書き始めたときには、それは定着しており、深く根づいていたのである。
—  ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』

 

 自己へのこの新たな配慮は、新たな自己体験を含んでいた。自己体験のこの新たな形式が見出されうる時代は、内省ということがますます細部に及んでいく紀元一、二世紀である。書記作業と注意深い観察とのあいだに関連がひろがった。生活や気分や読書の細部に注意がはらわれ、そして、自己体験はこの書記行為のおかげで強化され拡大された。以前には欠如していたある体験領域全体が開かれた。
 キケロを後期のセネカもしくはマルクス・アウレリウスと比較するとよい。すると目につくのは、たとえば、日常生活の細部とか精神の動きとか自己分析とかに寄せる、セネカマルクスの細々とした関心である。師フロントあての紀元百四四、五年の、マルクス・アウレリウスの書簡のなかには、帝政時代の何もかもが存在している。(中略)
 この書簡は日常生活を記述している。自分自身のことに気を配るその細部すべてが、ここには述べられているのである。彼の行った重要でない事柄のすべてが。キケロは重要な事柄だけを述べるが、しかし、アウレリウスの書簡では、これらの細部が重要なのである。なぜなら、これらの細部が私どものことーー私どもが考えたこと、私どもが感じたことーーなのだから。
—  ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』
 

 

あ、あと今年はアウトドアにも励みたいです。ゆるキャン△のアニメもはじまったし。