アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

真夜中のひとりごと

感情や気持ちというのは、複雑なもので、複雑というのは、原因-結果と単純に割り切ることができないことで、例えば気分が沈んでしまって、それでいて落ち着かないというのは、空が灰色だからとか、疲れがたまってるんだとか、もっともらしい理由をつけることもできるけれど、それはあくまで一要素でしかなくて、そういった説明からはこぼれ落ちてしまうなにかが常にある。そのなにかを無意識と言ってしまってもいいかもしれないけれど、シュルレアリスムは、とりわけ初期の、詩のシュルレアリスムは、無意識の言語化ということを盛んに叫んでいたものだけど、シュルレアリスムの詩を読んでも、なんだかはぐらかされているような感じがする。どうも腑に落ちないところがある。

最近読んでいる本、田中小実昌の『カント節』には、そういう辻褄の合わないようなことが、辻褄の合わないままでべたべたと並べ立てられていておもしろい。ロジカルにピントがずれていく感じがお気に入り。
田中小実昌の『カント節』の中の「ジョーシキ」という最初の一編を読んでいたら、ぼくは本の中に好きな文章を見つけるとそれをメモするのだけど、ほとんどの文章をメモすることになってしまった。中でもお気に入りなのが、次の文章。
 
わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。
だいたい、複雑な感情、複雑な気持というのはあっても、複雑な理屈はあるまい。感情や気持は、複雑という言葉がすでにおかしく、なにもかもいっしょくたになったものだ。
理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。
 
理屈はけっして複雑なものではないというのは、哲学は「こうとしか考えられない」を積み上げていくものだから、考えてみればその通りで、納得した。それが理解できないのは、大抵は前提となっているコンテクストを知らないか、使われている語の定義を履き違えているからじゃないかと思う。まあそんなことはどうでもよくて、ぼくはこの人の書く文章のリズムがとても好きになってしまった。音楽が好きだから、というのが関係しているのかわからないけど、好きな文章というのは、その文章のリズムが好きであることが多い。上の引用の言い方を借りれば、その文章の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを好きになる。お気に入りの音楽を探すみたいに、お気に入りのリズムを求めて文章を読む、のかもしれないな。それで、気分によって聴きたい音楽が変わるように、しっくりくる文章のリズムもときどき変わる。ちょっと前まではハードボイルド的な、すっきりしていて意味がはっきりしている文章が好きだったけれど、なんとなく今は、もっとごちゃごちゃした、ポリリズム的な、蛇行してのろのろと進む文章が好きになっている。
 
屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシキは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
 

 

どうして、本が読みたいのか?と言われても、どうして、音楽を聴きたいのか?と同じように、読みたいからとか聴きたいからといった風な、同語反復的な答え方になってしまう。リズムが、リズムがいいんだ。音楽を聴いて体を揺らすのが気持ち良いように、文章を読んで頭の中を揺らすのが気持ち良いんだ。最近、ジャズをたまに聴くんだけど、ジャズの演奏の、テーマやコードやリズムの中でいかに遊ぶか、みたいなところに気をつけて聴くのがすごくおもしろい。頭の中でテーマを反芻しながら、アドリブ部分を聴くと、たまにすごくスリリングな瞬間があって、それがわかる。ジャズってスポーティなジャンルだなって、最近思う。今までの話に関係がありそうで、ない話。今日はなんだか、涙が出そうなほどイライラしてつかれたけど、家に帰ってごろごろしながら本を読んで、こうやってだらしのない文章を書いているうちに回復してきました。最後に、今日目にして心地よかった文章を貼って終わります。
 
これは匂いで、林檎そのものではありません。匂いは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩している林檎の方が好きです。
尾崎翠「匂い」

 

俺はおとつい死んだから もう今日に何の意味もない おかげで意味じゃないものがよく分かる もっとしつこく触っておけばよかったなあ あのひとのふくらはぎに
谷川俊太郎「ふくらはぎ」
 

 

「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」/早坂類
 
早坂類については、心底好きな歌人なので、いつかまとまったものを書きたいと思う。おやすみなさい。
ああ、そうだ。最近すごく思うことがあって、人の話が聞ける人って、えらいと思うんだ。この前、兄に会って話したんだけど、ぼくの兄は人の話をちゃんと聞ける、えらい人で、見習おうと思いました。あんな風に、人の話が聞ける人はあんまりいないから。自分とは違う考え方や、わからないこと、腑に落ちないことに対して、むやみに同調したり、あるいは否定したり、無視したりせずに、そのままにしておくこと。考えずにほうっておくという意味ではなくて、そのままにして、適切な時間をかけて、消化したりしなかったりすること。そのあたりがきっと人の話を聞くということのコツなんだろうと、ぼくはこっそり睨んでいます。コミュニケーションって、わかり合うって、そういうものなのかもなって。でもまだよくわからないので、そのままにしておきます。