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アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

僕の現在地はどこかの誰かにとっての遠い場所

同じ町の中で暮らしていても、見える景色が同じだとは限らない。日々の生活の中で、思うことや、気にすること、その日やらなければいけないことや帰ったらしたいことだって人それぞれまったく違うだろう。僕は今日は最近ハマっている漫画家の福満しげゆきのことやら、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のこと、当時のイギリスの持つ想像力への熱と、なぜか両立している不思議な慎ましさなんかのことをぼんやり考えていた。

それからここ最近僕は、ちょっとニヒルな気分が続いていたので心機一転して、誰かと会話をしている間、頭の中で好きだ!好きだ!と念じるようにしている。そうするだけでなんとなくいつもより楽しい。人の気分なんてちょろいもんだなあと思う。

人の気分とか考え方を変えるのは本当にちょろくて、周りの環境次第でどうとでも変わると思う。人が集まって一度集団になってしまうと、もう個人ではどうにもならなくなってしまう。周りの人が揃って良いとしているものを否定するのは気がひけるし、良くないと思ってることを好きだと叫ぶのには勇気がいる。どこの家庭でもきっと一度は発されたことがあるだろう台詞、「うちはうち、よそはよそ。」は、実はとても大事なことなのかもしれない。

 

僕は時々、自分の身体が自分から離れているような感覚になる時がある。部屋に一人でいる時に起こることが多くて、金縛りにかかったことはないけど多分金縛りとは全然違って、自分の身体の動かし方がよくわからなくなるというか、動かそうと思わないと動かせない、もしくは思った通りにしか動かなくなる。

ハイデガーの『存在と時間』を僕は読んだことがないけれど、保坂和志によるとこの本は、「手と道具による作業を念頭におきつつ、自分の身体がまわりと取り持つ関係(方向性や距離感)から人と世界の関係性を説き起こす」といった内容らしい。
この説明を読んで面白そうだなと思ったのだけど、この説明が本当ならば、ハイデガーの世界観と2016年を生きる若者の僕との世界観や身体感覚はかなり違うだろうなと思った。
世界観という言葉はなんだか大げさな感じがするけれど、言うなればこの世界の中で何を見るか、世界に対する感じ方や興味関心のことで、それは身体感覚や思考の癖や感情の波、それから周囲の環境、というかこの世界のすべてのものや人や出来事との関係性の結び方によって決まると思う。
話は少し変わるけど、上記の「自分の身体がまわりと取り持つ関係(方向性や距離感)から人と世界の関係性を説き起こす」という文章を読んで思い起こしたのは、歌人の笹井宏之と、それから漫画家の福満しげゆきだ。二人に共通しているのは、両方とも狭い世界で暮らしながら作品を作っていたことだ。だからこそ生まれる彼らの一般論から遠く離れた感覚が、ひとりぼっちから発せられた声が、時に胸を打ち、時に楽しませてくれる。僕は自分や誰かにとっての個人的なものが好きだ。
 
アカデミックな知識や一般論や処世術なんかにはあんまり興味がない。大学にいると学問的に正しいとされていることが絶対的に正しいと思ってしまいがちになるのだけど(今のようなテンションでこんな感じの文章でレポートを書くとまず単位がもらえない)、それはあくまで学問の場で正しいだけであって、そういう正しさも時には必要だと思うけれど(伝わりやすく客観的な根拠がある文章を書けたらきっと役に立つ)、こんな風な伝わりにくい文章の方が僕は好きだ。小説を読んでも映画を読んでも誰かの身の上話やら陰惨な事件のニュースを見ても、そこに何らかの意味を見出そうとするのなら結局は自分に引き寄せて解釈をするしかないと思う。そこでアカデミックな方法で客観的に正しいやり方で鮮やかなロジックを用いて説明仕切ることができたとしても、そういったものは大抵パターン通りでつまらない。一般論としてしか入ってこない。そういったものより自分の知識や環境や身体感覚に即した、自分専用の独りよがりな解釈の方が、僕は面白いと思う。せっかくこのブログは大して人が見ていないのだから、そういう個人的な、他の誰の役にも立たないし共感もされなさそうな、極私的な考えや感想を好き勝手に書いていきたいと思う。僕が今いるこの部屋は、僕が住んでいるこの街は、この年齢のこの季節は、どこかの誰かにとっての遠い場所だから。