アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

自転車を盗まれたことがある人・ない人

 
世の中には二種類の人間しかいない。自転車を盗まれたことのある人間と、自転車を盗まれたことがない人間だ。
これは事実を書いている文章だけれども、心の底からそんな風に思っているわけではないような気もする。自転車を盗まれた経験の有無がその人のその後の人格形成を左右するとはちょっと思えない。だけど、自転車を盗まれたことがあるのとないのとでは、やっぱりどこかがちょっと違う気もする。なにか微妙な違いは生まれる気がする。
ためしに友達を何人か思い浮かべて、自転車を盗まれたことがあるかどうか予想してみる。さっぱり見当がつかない。すぐにあきらめた。
なんでこんなことを急に思ったかというと、現代短歌をいくつか読んでいる時に、たまたま自転車の盗難に言及しているものを二つ見つけたからだ。とりあえずそいつを見てみよう。
 
自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る/兵庫ユカ
 
ここでは自転車を盗まれること、盗まれたことがないことが、その人の持つ語彙に関係している。作者はCDをかけて、流れてくる歌を聴きながら、「あ、この人は自転車を盗まれたことがないだろうな」と直感したのだと思う。ちょっと奇妙だけど、その感覚はなんとなくわかる気がする。
気になるのは、自転車を盗まれたことないひと特有のフレーズがあったのか、あるいはその逆があるのか、ということだ。自転車を盗まれたことがないから言えることがあるのか、ないと言えないことがあるのか。僕はないと言えないことがあるんだと思う。自転車を盗まれたことがある人にしかない語彙が、全く入っていないと感じたからこの歌はできたのだと思う。作者の兵庫ユカは、自転車を盗まれたことある人の語彙をもっているんだろう。
自転車を盗まれることで、その人のその後のまなざしや、語彙、ひょっとしたら感じ方や考え方まで変わってしまうのかもしれない、とこの一首を読むと妄想しまう。
 
最近よく思うんだけど、自分が歳をとるにつれて、身の回りはどんどん複雑になっていくような気がする。見てなかったものが目につくようになって、考えたことなかったことを考えるようになって、いろんな人の声を聞いて、ちょっとくたびれてしまう。絞り出した歯磨き粉はチューブに戻すことはできない、ってウディアレンの映画の中のセリフだけど、よくわかる気がする。
村上春樹も『国境の南、太陽の西』の中でそんなことを言ってたような気がする。
ひらきっぱなしで身の回りのことや人が言うことを全部素直に受け止めてたら結局何も言えなくなるだろうという気がしている。まあ、難しく考えすぎるのはよくない、ってこと。
 

ふわふわの髪の毛だねってなでてやる自転車を盗まれっぱなしの君だ/岡崎裕美子

「ふわふわの髪の毛」で「自転車を盗まれっぱなし」な君。なんだかリアリティのある人物像だ。具体的なことはあまり書かれていないのに、ちょっとだけ「君」のことがわかるような気になる。
太くて硬い髪質の人は自転車を盗まれないとか、そういったことはないし、「ふわふわの髪の毛」と「自転車を盗まれっぱなし」の間には何の因果関係も本当はないはずなんだけど、この一首の中ではその二つの要素が結びついて不思議な説得力を持っている。これが寺山修司の言う「短歌の自己肯定性」なのかなとぼんやり思い当たった。どんなに些細な題材でも、つじつまが合っていなくても、いい短歌には散文では出せない本当らしさが宿る。
 
ここまでふわふわした文章を書いてきましたが、さて、ここで問題です。僕は、自転車を盗まれたことがあるでしょうか、ないでしょうか。