アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

コトバを連呼するとどうなる

藤井貞和という詩人がいる。どういう詩人なのか、よくわからない。そもそも詩人を言葉で簡潔に説明することは、できるんだろうか。詩人は詩の中でしか生きていないのだから、詩人の姿は詩の中にしか見られない。詩について、あるいは詩人について、何かを書こうとすると、やたらと抽象的になって、ちっとも要領を得ないので、こまる。

 

藤井貞和という詩人がいる。ニホン語について、たくさん考えて、たくさんの言葉を吐き出している人だと思う。端正できれいな詩を読むと、言葉を紡ぐ、という言い方がしっくりくるけれど、藤井貞和の詩にその言い方は当てはまらない。もっと、ガサガサしている。これは生き物が作った詩だ、という印象を強く受ける。言葉について、詩について、小説について、都市について、孤独について、時間について、身体の中であるいは宇宙の外でぽっかりと横たわっている空洞から、引っ張り出してきたような言葉の数々。

後来のもので誰かこの孤生のふかみをはかり識ることがあろうとうたったひとがいた 孤独を理解されたときに もう孤独でないことを言いたかったのであろう それぞれの孤独を語り得ないことを哲学したかったのであろう ろうそくのように一匹でぢりぢりともえてゆけ 知り得ぬことのほかは偽りである 藤井貞和「てがみ・かがみ」 

 よく言葉には霊感が宿るという。言霊というやつである。言葉は自分の運命を決定づけるという。マザーテレサだったかな。僕はこれまでずっと強い願い事があって、それを脇目も振らずに方々で吹聴していた。そんなことを繰り返していていつの間にやらハタチも越えて、望んでいたものはすっかり叶って、今度は死ぬほど安らかな毎日が欲しくなって、ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって、欲しいものはもうないだなんて大口を叩いていたら、なんだか風通しが悪くなってきた。

 

人は言葉を通じて世界を認識している。国によって語彙が違うのはそのためである。植物を栽培したり草花を愛でたりする習慣がある国には、緑を表す語彙が多かったりする。言葉を知らない人には全ての植物が雑草に見えるはずだ。

自分の言葉が、自分を作るというのは本当だと思う。求めよ、さらば与えられん。という言葉が本当かどうかはわからないけれど、求めなければ何も与えられないということは本当だと思う。ある物事について自分なりに言葉を尽くすことは、自分の将来の関心の方向づけをする。語らなければ、関心も薄れていくように思う。

芸術は、語り続けるものだと大学の授業で聞いた。千夜一夜物語の語り部、シャハラザードのように。きっと何でもそうなのだと思う。あきらめたくないのなら、語り続けなければいけないのだろう。

詩人は時々詩によって言葉を揺るがす。意味を揺るがす。認識を揺るがす。そして、世界を揺るがす、かもしれない。だから未来に向かって、過去でも今でもいいのだけれど、何かを願い続けること、思い続けること、語り続けることは、決して単なる慰めや綺麗事とは言い切れないものだと思う。コトバを連呼すると、たいへんなことが起こるのだ。

「あたしたちの坊やを

 枯葉の下にかくしたの」

遠いテレビから聞える 

「あたしたちの坊やを

 枯葉の下にかくしたの」

遠いテレビから聞える 

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

たいへんなことが起こる

藤井貞和「枯れ葉剤」