アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

グザヴィエ・ドラン『胸騒ぎの恋人(2010)』

 

胸騒ぎの恋人(字幕版)
 

  時間とはいったいどのようなものであろうか。僕達の存在はこの時間というなにやら得体の知れない物と密接な関わりを持ちながらも、時間についてきちんと考えてみたことのある人というのは案外少ないように思う。僕達のうちのほとんどは、時間についてよく知っているとは言い難い。しかし、僕達は皆、時間の中に生きている。

「時間」というものは、断じて時計が刻む均質な時間とイコールではなくて、時計の時間は、早い話が労働のための時間である。労働のための時間であって、僕達が生きるための「時間」ではない。僕達の生きている「時間」というものは、チクタクと針が進む音に合わせて未来から過去へ一直線に、無機質に、均等に過ぎ去ってしまうといった性質の物ではない。小学生の頃の、夏休みの何もすることがない一日のことを思い出してみて欲しい。やるべきことから遠く離れて、気の赴くままに過ごす時間と言うのは、なにかこう膨れ上がって、静止しているようには思われなかっただろうか。そしてその頃の時間は、決して過ぎ去ってしまって二度と帰ってこないものではなく、今でも身体のどこかに残ってはいないだろうか。時間と言うのは、伸縮性があり、一様に流れるものではなく、降り積もるようなもので、ある一人の個人と言うのは、それまでに堆積した時間の集合体である、とすら言えるかもしれない。時間と言うのは万人に共通してつれなく通り過ぎてしまうものではなく、一人一人が一つの時間なのである、と。

 グザヴィエ・ドラン監督『胸騒ぎの恋人』は、いわゆる男女の三角関係の物語であるが、その内訳は男・男・女であり、親友同士である男女(フランシスとマリー)が、一人の男(ニコラ)に同時に惚れてしまうのである。この時点で巷に星の数ほど溢れているメロドラマとはちょっとわけが違うことが伺えるが、この映画の魅力は奇抜な設定などではない。DVDのパッケージにもすでに仄見える小洒落た色彩感覚が全編を通して漲っており、よく晴れた休日の昼下がりにボーッと観るお洒落映画としても気楽に観ることができる。また、国や時代を越えて様々な歌手によって歌われている味わい深い名曲"Bang Bang"が全編を通して繰り返し流れるのだが、その時々のシチュエーションや、役者たちの表情によって、曲の聴こえ方が少しずつ変わっていくのがおもしろい。ちなみにこの曲は、タランティーノの『キル・ビル』でも使われていた。


Dalida - Bang Bang

また、この映画の、というかグザヴィエ・ドランの大きな特徴の一つに、スローモーション撮影がある。この作品でもお得意のスローモーション撮影が随所で効果的に使われている。スローモーション撮影というと、大げさで邪魔臭く感じるかも知れないが、この映画ではまったく気にならないどころか、大きな魅力となっている。ある日ある時ふと、目の前の景色をこれからの人生できっと何度も思い出すことになるだろう、とわかってしまう瞬間があるだろう。その刹那、時間は流れるのをやめてしまう。その一瞬は、その後の全人生に匹敵してしまうほどの密度を持って充足している。これは、安い感傷に過ぎないのかもしれないが、そのような瞬間は、誰もが身に覚えがあるものではないだろうか。この映画の主人公であるフランシスとマリーも、恋のもたらす歓びや悲しみの中で、そのような瞬間を経験する。そしてその時、スローモーションが使われるのである。この映画の中のいくつかのスローモーションのシーン、それは僕にとって忘れ難く感動的な映画体験である。今回、長々と時間についての前書きを書いたのはこのスローモーションの魅力を伝えたかったからだ。

 また、フランシスとマリーの二人に惚れられる美青年ニコラの魅力はそのままこの映画の魅力の一つになっている。明るく、屈託がなく、無邪気で社交的な美青年ニコラ。フランシスもマリーも彼と居るときはいつも楽しく、見るものすべてが意味を持ち、この瞬間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。ニコラとの交流を通して、フランシスとマリーの世界は輝き出す。そして仲が深まるにつれ、離れたくないと願うようになる。すると歓びにあふれていたはずの世界が途端にその色を失う。それまでの溢れんばかりの喜びにかえて、それと同量の不安や嫉妬、切なさが身を裂こうとする。しかし、一度ニコラと会うと、世界はまたまた色彩を取り戻す。”恐るべき子ども”ニコラは、フランシスとマリーにとって、「胸騒ぎの恋人」などである。いま、ニコラを”恐るべき子ども”と表現してみたが、この映画の不思議なところは、主人公の一人がゲイの男であるにも関わらず、社会的な問題提起といった様相はまったく感じられず、そしてまったく不自然でもない。というか、そもそもこの映画にはあまり”男”や”女”といった性別が感じられない。ニコラは美青年であるが、中性的な顔立ちであり、彼が人を惹き付けるのは、その無邪気な楽しさ、彼といるといつも楽しいからであり、男らしさなどは問題となっていない。この映画で描かれる”恋”は、人間がまだ男と女に分けられていない時代、男が女を好きになり、女が男を好きになるのではなく、人が人を好きになる、惹き付けられるといった、子ども時代のそれなのではないだろうかと観ていて思った。そしてそれは僕にジャン・コクトーの小説『恐るべき子どもたち』を思い出させた。活字アレルギーの方は萩尾望都の漫画版もおすすめである。興味のある方は是非この映画と合わせて見てみて欲しい。

 

恐るべき子供たち (岩波文庫)

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恐るべき子どもたち (小学館文庫)

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