老作家、書くことの極致、武者小路実篤の晩年
僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いい人間になりたい。いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。ますます利口になり、万事賢くなりたく思っている。我々はますます利巧になりたく思っている。益々かしこく。武者小路実篤『ますます賢く』
これはあの『友情』で有名な、武者小路実篤の晩年の文章である。一見、ボケ老人が書いたかのような、というより何度読んでも、耄碌しているのかと思えるような文章だが、僕はなぜか忘れることができない。
主語もコロコロ変わるし、同じようなこと、それも当たり前と思えるようなことばかり繰り返していて、結果としてなにが言いたいのかよくわからないが、なんとも言えぬ力強さと言うか、生命力と言うか、老作家の書くことへの意地のようなものを感じる。こんな文章、書こうと思って書けるものではない。八十九歳の武者小路実篤にしか書けないのではないかと思えるような迫力がある。強烈な人間主義に貫かれた老作家の人生や作品が透けて見えるかのようで、こんなありふれた、今更誰も取り立てて口にしないような正論めいたことを、堂々と、力強く、愚直なまでに真っ直ぐに書き連ねたこの文章には、僕はミケランジェロの描き出す生命力に満ち満ちた人間を連想してしまう。武者小路実篤は、『友情』よりもなによりも、この文章を書くために、この境地にたどり着くために、生まれて、書いたのではないかとすら思ってしまう。自分自身も、言葉もバラバラにしてしまうような熱量を持っていて、それを信じられない粘り強さで一つの線にまとめあげている。そんな老作家の気骨を感じる。何十年も言葉を書き続けてきて、とうとう言葉を突き抜けてしまった。そう思えるほどの、神業めいたなにかがこの老作家の文章にはある。こんな文章にはなかなかお目にかかれない。
僕が大好きな小島信夫の晩年の作品、たとえば『うるわしき日々』や、『残光』にも、同じような不思議な魅力がある。『残光』のラストシーンの文章などは、この上ないほど美しいと思う。
十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ」と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑を浮べて、「お久しぶり」といった。眼はあけていなかった。
上手に、精巧に、そつなく書くというだけが、名文というのではない。流れるような美しい文章というのは勿論魅力的ではあるが、この晩年の武者小路実篤や、小島信夫のような、後戻りをしたり、躓き躓きしながら、 じりじりと全身全霊で進んでいくような文章は、人間にしか書けない。益々利口になって、万事に賢くなって、その果てにたどり着いた書くことの極致。僕はそんな文章を読むと、とてもうれしくなる。歳を取るのも悪くはなさそうだと思える。いつかこうなりたいと強くあこがれる。