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アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

天才と悪魔 <快ー不快>という尺度


Robert Johnson- Crossroad

ロバートジョンソンという伝説のブルースマンがいる。ローリングストーンズだとか、その後のたくさんの音楽に影響を与えた。僕にはイマイチぴんとこないが、ポップソングの祖だなんてことも囁かれている。

彼には一つ、おもしろい逸話がある。ある日、彼が歩いていると十字路に突き当たり、そこで悪魔と契約をして、誰もがアッと驚くような天才的なギターの腕前を手に入れて、それと引き換えに彼の魂を売り渡したのだ、と。

天才とは、すばらしいもの、新しいものを、次々にひょいひょいっと作り出してしまう人のことを言う。その常人離れした才能は、伝説を作る。たとえば、上に挙げたロバートジョンソンの話のように。

 

60年代のアメリカで、若者たちがエルヴィス・プレスリーや、ほかの生まれたてのロックンロールに熱狂していた頃、ロックンロールは悪魔の音楽だ、と、大人たちは眉をひそめていたという。それでも若者たちはそれを気にも留めずに踊り狂った。

芸術において、「悪魔のような」というのは褒め言葉だ。常人の感覚とはまったく違う、卓越した天才にしか使われない言葉だ。

 

ドイツの偉大な知性、ゲーテは、モーツァルトの音楽を、悪魔のような音楽だと言っているのも、おもしろい。

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。

小林秀雄『モオツァルト』

 映画評論家の淀川長治も、ゴダールの映画を評して、「悪魔のような映画だ」と言っていた。それまでの映画の枠組みから、あまりにも大きく、あまりにも平然とはみ出してしまっていたからだ。

 

悪魔とは、いろいろな解釈があるが、とにかく悪とされているものだ。その正体は、僕が思うに、キリスト教の戒律において、忌避すべきだとされているもの、すなわち快楽である。快楽は人を堕落させる。だから悪なのである。

 

神は死に、ニーチェも死んだ現代の芸術においては、もはや<善ー悪><真ー偽>といった単純な二項対立的な評価基準はふさわしくない。この世界は、唯一神によって七日間で作られたものだとは、大半の日本人は信じていないだろう。この世界の始まりは、ビッグバンと言う大きな混乱、カオス状態から始まった。一度散らかったものは、くっついたり離れたりを繰り返して、また散らかり続ける。そんな風に誕生して、今日まで続いてきたこの世界に、たった一つの真実があるわけではもちろんない。わかりきっていることだが、この世界はその根本から既に多様なのだ。それでは、そんな世界像が当たり前になった現代において、なにを基準に評価すればいいのだろうか。それは、気持ちが良いかどうか、ゾクゾクするような刺激があるかどうか、陶酔感があるかないか、つまり、<快ー不快>の尺度ではないだろうか。もちろんこの価値基準がすべてではない。これもまた一つの物差しでしかない。だけどとにかく、気持ちのよいことはいいことだ。二十一世紀の快楽主義者でありたい。

 


踊ってばかりの国 「ハロー」 live (神戸スタークラブ2010/3/7)

気持ちよくなれるなら 僕はゴミでも食えるよ

汚い食べカスも どんな臭い燃えカスも 

 そういう意味で、踊ってばかりの国は大好きだ。バンド名からして、最高だ。踊ってばかりいる国だなんて、なんてアホらしいんだろう。彼らは、気持ちよくなるための音楽を作り続けている。花に囲まれて生まれた子どもたちが、すくすく大人になって歌い出した音楽だ。大人たちがきっと嫌な顔をする、悪い子のための音楽だ。