アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

読む・書く・考える

考えたことを言葉にするのはむずかしい。考えるように読むことも、読むように考えることもむずかしい。書くように考えることもむずかしい。書くように読むことだってむずかしい。読んだことを考えて、言葉にして語ること、すごくむずかしい。

 

読むことと書くことはちがう。読むことと考えることはちがう。考えることと語ることは同じようですごくちがう。言葉にはそれぞれ意味がある。言葉にするということは、切り取ることだ。限定することだ。ほかの意味を、すべて捨て去ることだ。

 

言葉はいつでも遅れてやってくる。たった今考えていることや感じていること、目の前に起こっていることに、言葉は追いつくことができない。しかし言葉によってしか、ぼくたちは、考えていることや、感じたことを他人にわかってもらうことができない。ゴッホの絵画の美しさを表現する言葉はなかなか見つからなかったから、ゴッホの絵はみんなにわかってもらえなくて、彼は生前まったく評価されなかった。

 

考えたことは、語らなければ、それは自分の外側に出ることはない。ほかの誰にもわからない。せっかく考えたのだったら、誰かにわかってもらいたい。「喜びをほかの誰かとわかり合う それだけがこの世の中を熱くする!」と小沢健二は歌っていた。たとえ限りない喜びを感じても、綺麗な景色を見ても、自由で充実した気分になったとしても、それを誰にも伝えられなければ、やっぱり空しい。ここまで書いた時に、何年か前に観た映画『イントゥ・ザ・ワイルド』が頭に浮かんだ。いい映画なのでひまがあったら一度は観て欲しい。いつか改めてくわしく書くかもしれない。

僕は、ここにとりとめのない文章を書き連ねることを通じて、自分の考えたことを、自分の考えたように、自分の考えただけ言葉にする術を少しずつでも身につけていけたら、と思う。

 

古代ローマの雄弁家キケロは、「哲学と弁論の一致」を生涯探し求めて、立派に体現した。僕の敬愛する小説家・保坂和志は、小島信夫の『私の作家遍歴』を評して、「(この本が)すごいのは、『読む』と『書く』と『考える』が完全に一体化しているところだ。」と言っている。僕が考えるすばらしい文章とは、この読む・書く・考えるが一体化しているものだ。考えなしに書かれた文章はつまらない。読むことなしに、一人きりでうんうん考えて書かれた文章もあんまりおもしろくない。あたりまえの範疇から飛び出すことができていないことが多いからだ。

読む・書く・考える文章にあこがれるのは、それがおもしろいからだ。そういう文章は、人類が言葉を話すようになって以来、たくさんの言葉によって形作られてきた現在の世界像・感性・人生観に、ちょいと一筆描き足すようなもので、そういったものを読むと、大げさに言えば、自分の見える世界が少し変わったような気持ちになる。

 

先日、ゴダールの「表現と感化のちがい」に関する文章を読んで、これは素敵な文章を書く手がかりになりそうだ、と思った。少し長いけど引用して、今回はおしまいにします。

私はいつも他人の言葉をコピーしてきました。私が最初にコピーしなければならなかったのは、すべての人の場合と同様、パパとママの言葉です。それに私は、複写と印刷の歴史に興味をひかれます。また私は今、人々とは違って、<感化すること>と<自分を表現すること>を区別して考えはじめています。

(中略)

私が思うに、<なかから外に出すこと>である<表現>と<外からなかに入れること>である<感化>の間には、ある違いがあります。また、ひとつの関係があります。コミュニケーションが可能になるのは、なかに入れられたなにかがもう一度外に出されるときなのです。そしてこのことこそ、私が今、より意識的でより明確なやり方でしようとしていることです。

ジャン=リュック・ゴダールゴダール映画史』p.66-67 

 

 

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