アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

『論理哲学論考』に関する覚書き

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考(以下、『論考』と略記する)』を読んでいる。初めからじっと読んでいってもあまりしっくりこない。全体との関係においてそれぞれの命題が意味を持つものであるので、読み進めてみて初めて意味がわかるという箇所が多い。とりあえず初めから終わりまで目を通してみて、どのようなことが書かれているかをざっと把握し、もう一度はじめから読んでみて、書いてあることに対する解像度を徐々に上げていく、という読み方でしか読めない本であると感じる。
 『論考』が何についての話をしているのか、を理解するためには、普通の本でもそうであるが、序文をしっかり読むことがその助けになる。先取りして言ってしまえば、『論考』の目的は哲学的な諸問題の根本的な解決である。論考の序文にはこうある。

 本書は哲学の諸問題を扱っており、そして──私の信ずるところでは──それらの問題が我々の言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体として持つ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
L・ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳『論理哲学論考岩波文庫

 


 また序文の終わりの方で、「問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」と表明している。つまり哲学の諸問題について、それらの問題が言語に対する誤解によって生じており、その誤解を問いたならば、その諸問題はもはや問題ではなくなる(=解決される)ということを言っているのである。それは、どのような手続きによるのか。

かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことに対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
 したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。

同書

 


 ここで言う哲学の諸問題を解決するとは、それらの諸問題が根本的にナンセンスであることを示すこと、言い換えれば、それらが語り得ぬことについて語ることを要請する問いであること、我々の思考の限界を超えた答えられない問いであることを示すことである。我々の言語の限界を定めることによって、思考の限界を画定し、哲学の諸問題がその限界の向こう側に属するものであることを示すことで、それらの諸問題がナンセンスな問いであることを示す。そのことによって哲学的な諸問題を解決ないしは解消させるのが『論考』の目的であると思われる。
 言語の限界について述べるために、ウィトゲンシュタインは、まず世界とはどのようなものであるか、という記述から始める。上で述べた論理の流れだけを単純化して本文の中から該当箇所を抜き出せば、次のようになる。

「1 世界は成立していることがらの総体である
 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。」

「2 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」

「4.023 命題とは事態の記述にほかならない。」

「5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」

 世界とは事実の総体であり、事実とは、成立した事態のことであり、命題とは、事態の記述である。事実は事態の成立したもの、つまり事態の一部であり、事実の総体が世界である。つまり世界は成立した事態の総体である。そして事態を記述したものが命題である。つまり成立した事態の総体とは、真である命題の総体である。つまり真である命題の総体が世界である。よって、言語の限界(=命題として意味を持つもの)が私の世界の限界となる。
 そして、命題の性質を明らかにし、さらに命題の一般形式、つまりあらゆる命題を作ることができる形を見定めることによって、すべての命題が記述されうる。そしてまた、それらの命題が意味するところのものが示されうる。そのようにして言語の限界=思考の限界=私の世界の限界を画定することができ、それによって哲学の諸問題がその外側にあることを示せば、それらの諸問題は解決される。
 命題についての議論や、なぜ哲学の諸問題がそれらの外側にあるといえるのか、事実や事態などのウィトゲンシュタインに特有の語の用法などについては複雑な話になるため、個人的な忘備録である本記事では詳述しない。

 人間とは何であるか。ここ数年間ずっとこの漠然とした問いが頭にこびりついている。人間の定義がもしも可能だとして、一度それを定義してしまったら、それは人間の条件として地上の人間をふるいにかける。どのように定義してみたところで、そこからこぼれ落ちる人間が必ずいる。人間の条件などといったものは存在してはならない。もしもそんなものが存在するのだとしたら、それは或る種の人間を排除するための口実にしかならないだろう。在りし日の奴隷制度の話を聞くと、どうして同じ人間にそんな非道い仕打ちができたのか、と驚くばかりだが、それは相手を同じ人間だとは思っていなかったからに他ならない。人間とは何であるか、という問いを立てることがそもそも不適切であり、答えがあってはならない問いなのだ。
 とはいえ、人間という概念を、たっぷりと幅を持った大味な概念だと捉えるのはよいとして、人間に対して、全く定義を与えないとしたら、それはそれで困ったことにはならないだろうか。よりよい人間を目指す、とか人間らしく生きる、といった言葉が一切の意味を失ってしまう。人はどうあるべきか、などという理想の人間像もたちまちかき消えてしまう。

 脳死状態の患者の臓器移植問題やあるいは中絶問題というのも、要するにどこからどこまでを人間とみなすか、どこに境界線を引くべきか、という点が問われている。ヒトの胚はすでに人間なのか、二度と意識を取り戻さないであろう人間は人間なのか。ここでは意識が存在するか否か、というのが人間であるかどうかと大きく関わっていることが示唆される。意識が存在するのであれば、当人の意思に関わらず命を絶つことは殺人である。あるいはそこに苦痛が存在するかどうか、ということを争点とするならば、動物倫理や反出生主義の提起する諸問題とも関連してくる。簡単に答えの出せる問題でもなく、一つの正解があるとも到底思えないことでもあるから、ここで答えを出そうとはしない。

 人間的という言葉がある。あるいはあいつは人間じゃないという言い回しがある。人間的であるとはどういうときに使われる言葉だろうか。矛盾した感情を同時に抱え込むだとか、欲望に振り回されるさまだとか、不合理な行動、あるいは他者への共感や理性的な行動などが、人間的であると評されるものの例として挙げられる。一方で、人間とは思えぬと言われる際には、良心や共感能力の欠如であるとか、冷徹で計算高い人間性などを指す。機械的に行動することは非人間的であるとされ、動物のように本能に盲従する場合にはむしろ人間的であるとされるのだろうか。不合理であるのが人間であるとして、人間的であろうと固く心に決め、常に不合理な方を選んでいくとしたら、それは人間的であるどころか、一貫して機械的に規律に従っていることにはならないだろうか。どうもここから何かが得られるという感じがしない。人間的であるとか動物的であるとか機械的であるとかという対比は、特に意味のあるものではないのかもしれない。

 目の前で呻き声をあげている人間が、もはや人間であると思えなくなったと感じたとき、僕は仕事をやめた。人間は生まれながらにしてすべて人権を持っている、と思いたい。そしてそれは外から奪われていいものではない。考えることができなくなっても、体が動かなくなっても、いかなるコミュニケーションがとれなくなっても、人間は死ぬまで、いや死してなお人間であると僕は考えたいと思っている。そういう意味では自分はヒューマニストであると思うと同時に世は地獄、人間は悲惨、手遅れになる前に早く死にたいとも思っている。

 

 なんだか少しもうまく書けなかったな。ホラー映画やゾンビ映画に見られる優生学的思想や根強いルッキズムや差別感情、あるいはユマニチュード等の相手を人間であるとみなしていると伝えるための技術の存在、生ける屍のようである、や犬のようであるとか豚のようであるとか、そういった比喩が形成するイメージの悪影響などとも関連付けて色々考えているつもり。もともと答えなどあろうはずもないことを問うことをやめられないのはどうしてなんだろうな。

ウィトゲンシュタイン『青色本』を読もうとする・1

・なぜ青色本を読むか

 近頃ウィトゲンシュタインを読んでいる。ウィトゲンシュタインは哲学者だが、彼の哲学は一風変わっている。哲学書というのは一般に、ドイツ観念論などに顕著だが、その思想的な背景や前後の歴史を踏まえていなければわからないことが多い。難解な専門用語や日常言語とは意味の異なった用法が飛び交い、同じ哲学用語でも人が違えば解釈が微妙に違っていたりする。つまり哲学書を読むためには広く深い前提知識と、文脈に合わせた適用が必要になる。一方で、ウィトゲンシュタインは自身の哲学を治療であるという風に考えていたらしく、多くの人々を困惑させてきた難解な問いの数々を、その問いの問われ方に着目することで、問いを鮮やかに解決ないしは解消させてきた。このスタンス自体は初期から後期まで一貫しているように思える。ウィトゲンシュタインを読むと、どのように取り組めばよいのか皆目わからない問いに対して、ここから手をつければよいという取っ掛かりを得ることができる。問いの立て方を検証し、様々な角度から眺め回してつっついているうちに、問いそれ自体が知恵の輪のようにほどけていく。中期以降のウィトゲンシュタインの哲学は、読み手に体系的な知識や思想を与えるような性質のものではなく、どのように問いに取り組むか、いかに哲学をするか、というその方法についてのヒントを与えてくれる。様々な場合にそのまま使えるマニュアル本というわけでは勿論ないが、実際にどのように考えていくか、それは自分でじっくり考えるべきことなのだ。

 

青色本の位置づけ

 青色本は1933年から1934年にかけてケンブリッジで行われたウィトゲンシュタインの講義を記録したノートである。そのコピーが広く読まれ、青色の表紙がつけられていたことから一般に『青色本』と呼ばれている。

 ウィトゲンシュタインの活動は大きく初期・中期・後期の3つに分けられることが多く、初期が生前唯一出版された哲学書である『論理哲学論考』期を指し、死後出版された後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』を執筆し始める1936年以降が後期、その中間が中期であるとされている。『論理哲学論考』を書き終えたのち彼は哲学から身を引き、小学校の教員や修道院の庭師や建築物の設計などの仕事を経て、1929年に再び哲学に復帰するまで、前期と中期との間には数年間の空白がある。

 『青色本』の講義が行われたのはウィトゲンシュタインの思想が中期から後期へと移り変わっていく過渡期であり、のちに『哲学探究』に結実していく思想的アイデアの片鱗が各所に散りばめられている。

 

青色本を読みはじめる

 『青色本』は前述の通り講義録であるため、話が前後したり、いくつもの話題が入り組んでいたりするため、ときに読みにくいことがある。よっていくつかの段落ごとに区切って読み、その言わんとするところを慎重につかもうと努力してみることにする。一度通して読んでみたけれど途中で迷子になってしまった気がするので今回は、いまどのような問いが立てられているのか、何の話をしているのか、見失わないようにゆっくりゆっくり読んでいくつもりだ。また、僕は外国語ができないためちくま学芸文庫から出ている大森荘蔵訳のものを読んでいきます。以後特に断りがない場合、ページ数や引用などはちくま学芸文庫からのものです。僕って書くと途端にですます調になってしまいますね。

 

・語の意味とはなにか(p.7)

 語の意味とは何か。

 この問題に迫るためにはまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものかを問うてみよう。

 こう問うことは、「長さはどうして測るのか」を問うことが「長さとは何か」という問題に役に立つのと同じ仕方で役立つ。

 『長さとは何か」「意味とは何か」「数1とは何か」等々、こういった問は我々に知的けいれんを起させる。それに答えて何かを指ざさねばならないのに、何も指ざすことができないと感じるのだ。(哲学的困惑の大きな源の一つ、名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考えに迫られるのだ。) 

  「語の意味とは何か」。青色本はこの問いかけから始まる。そしてこの問いはこの本の通奏低音となっている。語の意味とは何か、という難しい問いに対して、ウィトゲンシュタインはまず問いをより考えやすい形にしようと試みている。ところで、「語の意味の説明とは何であるか」と、「語の説明とはどのようなものか」という二通りの問いは、同じものだろうか。縮めてみると、何であるかと、どのようなものか、は同じことを問いかけているのだろうか。僕には微妙に異なったものであると思える。一見よく似た問いであるけれども、その答え方は大きく変わってくる。

 何であるか、という問いに対しては、これであるという実物を差し出してやるのが最も簡単で確実である。勿論そのような直示定義であればどのような場合でも間違いなく伝えることができると考えるのは適切ではないが、たとえばみかんとは何であるかと尋ねられたらみかんを手渡して、実際に見て触って食べてもらうのが一番良いだろう。しかし、現実世界に対応するものが実在しない抽象概念等の場合、話は複雑になってくる。これといって指し示してやることができないのだから、言葉による定義が必要になってくるが、抽象概念を定義しようと思った場合、また別の抽象概念を持ち出さなければならず、しばしば循環定義に陥ってしまう。

 一方で、どのようなものか、という問いは、そのものの定義というよりもその性質やその語が使われる状況などを尋ねていると感じられる。このような問いであれば、みかんが手元になくとも、柑橘系の食べ物で、冬にこたつの中で食べるとおいしい、などと説明することができる。同じように、長さとは何か、を言葉で説明するのは難しいが、どうして長さを測るのか、と聞かれれば、長さによって距離や大きさや面積などについて、定量化が可能になり、異なる種類のものや遠く離れたもの同士での比較や、計算などの操作が便利になる、などと答えることができる。

 このように、「名詞があればそれに対応する何かのものを見付けねばこまるという考え」に囚われずに、何であるかという答えることのできない問いを、どのようなものかという答えやすい問いへと変形してみること、そのように問い直すことで、止まってしまった手をとにかくまた動かし始めることが可能になる。これがウィトゲンシュタインの治療のやり方の一つである。引用部分の「語の意味の説明」と「語の説明」を、今回ははっきりとは区別しなかったが、それは次回以降に持ち越しとする。前置きを書くので消耗してしまったので今回はここまで。

なぐり書き

 シュルレアリスムはその運動のはじめから、徹頭徹尾共産主義主義的である。それは絶えざる階級闘争であり、シュルレアリストたちは、イメージの領域で価値の転覆、階級の解消を目論んだのである。一見何の変哲のないもの、取るに足らないとされる卑近なことがら、それらを本来あるべき文脈から剥ぎ取り、不自然な文脈のもとへと移し替えることによって、用途や意味などといったものに付随する性質を剥ぎ取ることによって、そのものは純粋なオブジェ(客観物)として眼差され、そのもの自身の存在感を新たにしていく。シュルレアリスムは自然発生したものではなくブルトンによる宣言に基づいて、確固たる明文化された理念に基づいて増殖していく芸術運動であった。シュルレアリスムは目的ではなく方法であった。それは常に革命を志していた。シュルレアリスムの技法や方法論を掠め取っただけの表象は本来シュルレアリスムとは似ても似つかぬものである。

 自分にとって明らかであることについて書くことに対して強烈な恥ずかしさを覚えるのはなぜだろう。わかりきっていることを書くことは無益なことだという気持ちがある。しかしわかっているというのは本当だろうか?書いてみて初めて自分の考えの至らない点に気がつくこともある。だから自分ではすでに整理がついていると思っている事柄について何かを書くことは決して無駄なことではないと言えるかもしれないが、それでいてやはり既知の事柄について長々と書き連ねることを恥ずかしく感じてしまう。この恥ずかしさはどこからくるのか。また、わかっていることについて書けないとしたら、一体なにが書けるのだろうか。書くということが何らかの記録ではなく、書くことによって考えるようなものであるとして、そのようなやり方で書くことになるものは、どんなものだろうか。それはこのような文章になる。空しい問いと調子外れな答えの連続。

 答えの出ない問いについて、その問いが適切なものであるかを点検してみること。定規とコンパスのみで角の三等分線を作図せよ、というような解決不可能な問いがある。丸い三角形を思い浮かべよ、という命令はナンセンスである。解決不可能な問いや、ナンセンスな命題にかかずらわうのをやめること。大きすぎる問いは実は何も問うてはいない。問いを手の出せる範囲にまで引き下ろすこと。最近はウィトゲンシュタインを読んでいる。論考から哲学探求まで、一貫して彼のスタンスは、問いを真正面から解決しようとするというより、前提となっているものを点検し、そこに潜んだ偏見や誤解を解きほぐすことによって一突きで問いを解消させるというようなもので、彼の哲学が哲学に対する処方箋であると言われるのも頷ける。我々が問いであると思っていたものがその実問いと呼べるようなものではなかったことを鮮やかに指し示す。後期ウィトゲンシュタイン言語ゲームという考え方がとても興味深い。まだ全然理解したといえる状態にないので何も言えないけれど。語の意味とはその使用である。例えば新語や流行語が発生することや、時が経つと辞書が新しく編纂されること、版によって同じ語でも語釈が異なることはこの意味使用説によって説明できるように思われる。語の意味を知りたければ、その定義を探すよりもそれがどのように使われているかを見ること。

自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのでないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわち、わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然として書こうとするのである。無知を埋め合わせてしまえば、それは書くこと(エクリチュール)を明日に延ばすことになる。いやむしろ、それは書くことを不可能にすることだ。おそらく、そこには、書くことが死とのあいだに、沈黙とのあいだに維持していると言われている関係よりも、はるかに威嚇的な関係がある。
ジル・ドゥルーズ著、財津理訳、『差異と反復』

  知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがある、とはどういうことか。この文章はわかるようでわからない。共感はできるような気がするけれど理解ができない。そのようなことがあるだろうか。

雨の日は本が読めない。

 雨の日は本が読めない。いくら本を読もうと思っても目線がページの上を滑るばかりで、一向に意味がつかめない。文意が追えないというよりも、そもそも文字を読めていないように感じる。文字がこれまで親しみのない、何らの意味をも為さない模様のように見える。これでは、壁の染みを眺めているのと変わりはない。
 しかし、文字が読めないというのはどういうことか。目の前の文字を、日本語という既知の記号と同定することができていないのか。本に「あ」と書いてあって、それを見ても「ここに書いてあるのは『あ』である」と認識することができていないのか。そんなことはない。僕の場合「あ」が「あ」であることは雨が降っていても識別できる。ということは、文字が読めないということは、文字を識別することができずにいるというのではない。文字を認識することができても、その意味するところがつかめないということだろうか。とはいえ、意味とはなにかと問うことは、僕の粗末な頭ではとても手に負えない難問だという予感があるのでここでは踏み込まない。

 雨の日に本を読んでいてよく起こるのが、気がつくと何の話をしているのかわからなくなってしまうということだ。これはおそらく文章の構造が見えていないということで、注意力が散漫なまま、ただ文字の上を視線が動いていく、そうしてふと、この文章は一体何を話題にしているのかを見失っていることに気がつく。なぜ話題を見失うのか、それはつまりその前の文章を見ていても読んでいないからだ。それでいて読んだ気になっているからだ。読んでいないとは頭に入っていないということで、頭に入っていないということは、文章を読み飛ばしているのと同じことだ。例えば、AはBであり、BはCである。ゆえに、AはCである。という旨の文章を読むとき、気が散っていてAはBであるという箇所を読み飛ばしてしまったとする。そしてBはCである。ゆえにAはCである、と言われても、なぜBの話がAの話に当てはまるのか。Aはどこから出てきたのか、ということがわからない。文章を理解するためには、その文章に適した速度で読む必要があり、晦渋な哲学書や数学の参考書を、naverまとめを読む速度で読んでも理解できないだろう。読み飛ばさず、使われている語の意味を慎重に検討しつつ、頭の中でこれまでの論理の流れ、文章の構造を整理しながら少しずつ読みすすめることができたなら、それはおそらく文章が読めていることになる。
 雨の日に本が読めないのは、その本を読むのに適切なペースを維持できていないということだ。気持ちが先走ったり、苛立っていたり、気が散っていたりして、理解を超えた速度で文章を読み飛ばしてしまっているのだと思われる。一日のうちで読むことができるページ数というのは、自分で思っているよりもはるかに少ないのかもしれない。本を読んでいると、どうしても先に進めたくなってしまう。一度先に進んだら、後戻りをすること、すでに読んだ(と思い込んでいる)ページをもう一度読み直すことは、いかにも鈍臭く、無駄なことであるように思えて仕方がない。しかし、そのような過程を踏まないと、おそらく自分は本を読むことなどできないのだろう。自分の頭の出来を過信しないこと。分をわきまえること。卑屈になる必要もないが、時間がかかることは時間がかかるのだということを理解すること。

 雨の日に読み飛ばしがよく起こるのは、おそらく、体調が悪いからだ。雨の日には頭が痛く、肩や首が凝り、頭皮が緊張する。それらの不調に気を取られ、本から注意が逸れてしまう。痛みという刺激によって、一つのものの上に注意を集中することが中断されてしまう。間断なく中断されることによって、どこまで文章を読んだのかわからなくなる。同じところを何度も読む羽目になる。それでいて何度読んでも理解することができない。文章全体の流れの中で捉えないと理解できない文章もあるからだ。

 なぜこんな文章を書いているのか。雨の日でも本が読みたいからだ。僕は本を読むことが好きで、本をきちんと読むことができると喜びを感じる。有意義な一日を過ごせたと感じることができる。一方でろくに本も読めずに日々を漫然とやり過ごしていると、時間を無駄にしていると感じる。それは悪い気分だ。雨を降らせないということはできない。どうしたって雨は降るし、きょうは都合が悪いから明日にしてもらう、ということもできない。雨でも本が読めなければ、雨の日に本を読むことはできないのだ。雨の日でも本を読むためにはどうすればいいのか。そのためにはは文章を読み飛ばしてしまったときに読み飛ばしてしまっているという自覚をもつこと、それを自覚したとききちんと然るべきところまで戻って読み直すことができること、わからないまま進みすぎないこと。焦らないこと。自分が一日に読めるページ数は限られているということを認識すること。一度にたくさんのことをしようとしないこと。一度に取り組むことができるのは一つの問題だけであること。とにかく焦らないこと。数学の教科書は一年がかりで読み通されることを思い出すこと。時間がかかることは時間がかかる。焦らないこと。どれほど遅い歩みであっても、少しでも進んでいるなら進歩だし、たとえ進まなくても、その場で足踏みをしているだけでも、結果的には後退りであっても歩いたことには変わりがない。一日中歩いていた。そんな一日であれば悪くないと思えるはずだ。

カラヴァッジォ展に行きました。

ぐずついた天気で濁った頭を抱えながら耳を塞いで、1時間近く電車を乗り継いだ果てにガラス張りのエレベーターに乗り込んだ。14階でチケットを買った。カラヴァッジォの絵を見に来た。

 


1600年前後から活躍を始めたカラヴァッジォの特徴としては何よりもまずスポットライトのような一点からの強い光で、それによって強烈に浮かび上がる造形の力強さ、迫力、生々しさは当時の人々に衝撃を与え、多くの追随者を生んだ。カラヴァッジォと聞いてまず浮かぶのが中期以降のくっきりとした明暗のコントラスト、ドラマチックな画面構成だが、初期の静物、特に果物や花々、を描くときの精細なタッチや明るくくっきりとした線の感触もぼくは好きで、今回来ていた《リュートを弾く若者》は凄く良かった。住み込みをしていたパトロンの館に居たカストラート(去勢された歌手)をモデルとしたとされる中性的な顔立ちの若者が、誘いかけるような目つきでこちらを見ている。その口は半開きになっていて、今まさに歌いだそうとしているようだ。そして画面の手前部分のこちらが手に取れそうな位置にヴァイオリンが置かれている。画面に克明に描かれている楽譜は当時実際に愛唱されていたラブソングのものらしく、私があなたを慕っているのは知っているでしょう、でも私があなたの為なら死ねるということは知らないでしょう、というような情熱的な歌詞だったらしい。澄ました顔で、静かだが確かな眼差しをこちらに向けている若者のこの絵は、この上なく甘美なムードが漂っていた。カストラートは20世紀の始めに教皇によって禁止されたが、最後のカストラートと呼ばれる人物の歌声は録音されて残っているらしい。

 


展覧会の構成としてはカラヴァッジォの初期の絵や影響を与えたとされる人物の絵画が控えめに展示されていて、その後カラヴァッジォの全盛期の絵画と、それをはるかに凌ぐ点数のカラヴァッジォの追随者たちの絵が並んでいる。それらを順を追って見ていくと、カラヴァッジォが編み出した強烈な明暗の対比がいかに人々の心を捉えたか、またそれ以降大した発展を見せずに新古典主義へとつながるような明るい画面にいかにして移り変わっていくか、ということが朧げながらわかるようになっている。また、当時の流行りのモチーフというのもなんとなくわかってくるのが面白い。女性の中ではユディトやサロメ、聖人の中では聖ヨハネや聖ヒエロニムスや聖セバスティアヌスが人気だったようだ。またダヴィデとゴリアテ、ユディトや聖ヨハネの生首など、斬首のシーンを描いたものが多く描かれているのが目についた。

 


聖書のラテン語訳を手がけたとされる聖ヒエロニムスを描いた絵画が数点展示されていて、カラヴァッジォのものと彼のフォロワーのものとがあったが、どう見てもカラヴァッジォのものが一番良かった。カラヴァッジォの描く聖ヒエロニムスからは高度な知性、精神性、静謐さが伝わってきた。突然だが電話がかかってきたので終わります。

 


iPhoneから送信。

病気と診断されて仕事を休むことにした。すっかりお馴染みとなった疲労感や憂愁、虚無感や不安に囲まれながら、一種の落ち着きを持って暮らしている。皮算用とトランプ遊びとホラー映画で時間をやり過ごしている。元気な時には外に出かけてボードゲームをしに行く。たまに友達が家に遊びに来る。

寒かったり天気が悪かったり、病気が流行りそうだったりで、あんまり外に出る気が起きない。最近観たホラー映画の中では死霊館シリーズが一番面白かった。手垢にまみれた悪魔憑きというジャンルでストーリーとしては目新しいものは無いにも関わらず、抜群に面白い。つまらないホラー映画はまず感情移入のさせ方や怖がらせ方が下手で、突然でかい音が鳴り怖い顔が出てくる、所謂ジャンプスケアを多用してばかりで、びっくりはするもののその安直なやり方に不快感が募る。一方で死霊館の演出はとても丁寧で、段々と事態が悪化していき、徐々に緊張感を高めていく。また登場人物たちもこの人たちには幸せになってほしい…と思わせるような人たちばかりなのも良い。最近のホラー映画のトレンドとして、前日譚やら後日談やらをやたらと作る、というのがあるが、その悪しき影響として、殺人鬼ものの理不尽系B級ホラーに対して、犯人の動機がわからない、などと言って低評価をつける人が散見される。そのわからなさこそがホラーなんじゃないのと僕は思うが、ホラーを謎解きものの一種のようにして楽しんでいる人たちもどうやらいるらしいということがわかってきた。レザーフェイスの生い立ちとか、呪いの人形の由来とか、どうでもいいし知りたくないと僕は思うが、それが明かされることによるすっきり感を求めている人も一定数いるのだ。とはいえ死霊館シリーズは好きなので続編のアナベルとか死霊館のシスターとかも観るつもりなのでもう何を言っているのかわからない。

 


最近人に勧められたもので気に入っているものは中村佳穂とハコオンナで、中村佳穂は歌手で細分化されたリズムに乗る楽器のような声がとても好きだ。vtuberの花譜とかもそうだけどちょっと震えているような歌声っていいなと思う。

ハコオンナはホラーものの和製ボードゲームで、ホラーものというとテーマが先行し過ぎてゲーム性がお粗末なことも少なくないが、これはとても面白かったししっかり怖い。バランスゲームの要素もあり、探検要素もあり、心理戦や知能戦の様相も呈する。ハコオンナと訪問者たちに別れて遊ぶ非対称な協力ゲームで、探索を進めて情報を集めるにつれて訪問者が優勢になると思いきや、ハコオンナの力もどんどん強化されていく、その力関係の微妙な揺らぎのバランスが絶妙で、触れてはいけないものに触れてしまった、という雰囲気が常にある。物音トークンを積む瞬間や物陰を覗き込む瞬間の緊張感もいいし、ハコオンナが近くにいることがわかっている状態での手に汗握る攻防戦もいい。ただルールがちょっと複雑で、しっかり把握していた方が駆け引きが楽しめるという点で敷居が高く、実際僕が初めてやった時もちょくちょくプレイミスがあったので、またルールを読み込んでからもう一度やりたい。