アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

わが草木とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。

萩原朔太郎「父の墓に詣でて」

 私の生涯は過失であつた、と晩年の萩原朔太郎は書いている。また別の散文詩で「父と子共」の中で、次のようなくだりがある。

「不幸つて何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ。」
「過失つて何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かつたの?」
「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」

萩原朔太郎「父と子供」(一部分) 

  晩年の朔太郎はこの過失ということや宿命という言葉を頻繁に使っている。彼の最後の散文詩集のタイトルは『宿命』であり、その中に過失というテーマが多く出てくる。捉えようによっては生涯は過失とその埋め合わせであるのかもしれず、しかしそう思えるのは俯瞰した場合、いわば簡単に考えた場合のような気もする。そのような大づかみの考え方というのは一見理知的でありながら多くのものを取りこぼしているものであって、そのこぼれていくものを丹念に拾い上げているのが僕の印象では滝口悠生だった。とはいえ滝口悠生の小説は地味というわけではなくそれどころかダイナミックなところも多分にある。まだあまり数を読んでいないので大したことは言えないが滝口悠生の嫌味のないしつこさ、本人の性向からくるというよりもしつこくしたくてしつこくしているような文章は面白い。逆に天性のしつこい文章を書く人ということで思い浮かぶのは室生犀星だ。室生はなんだか目の付け所がいやらしいというか僻みっぽいところがあってそれを包み隠さず執拗に書いていくところがあって、『我が愛する詩人の伝記』の釈迢空の章では彼の額にある痣のことに関して結構な長文を書いている。お洒落な彼が毎朝鏡を見るたびに痣をみとめてどんな気持ちになったことだろう、とか私に彼のような痣があったら痣に関する詩を書いて読者にいたたまれない気持ちを味あわせてみたかったとか、若い頃は周りがインクのようだと揶揄ったが彼が偉くなってからはそれが止んで却ってその深刻さが増したのではないか、とか、そういったことをくどくど書いている。その拘りようは尋常ではない。しかしそのこだわりということにこそ文章の面白さは出るのではないかと思う。こだわりのない文章はつまらない。どうしてこの人はそんなことにこんなにこだわっているのだろうと思わせるようなものは面白い。一概には言えないが傾向としてそう言えると思う。ここ1ヶ月くらいはずっと小島信夫の『私の作家遍歴』を読んでいて、小島信夫の引っ掛かり方、面白がり方がおもしろくて夢中で読んでいる。小島信夫がこれはこれと似ている、というとき両者がどう似ているのかよくわからないときが少なくない。よくわからないがそういわれると確かに何か通じる部分があるのかもしれないと思うがよくわからない。そういった微妙な響きを生み出すことにかけては小島信夫は天才で、その微妙な引っ掛かり、持続するかすかな響きがあるからこそ後のなんでもない描写が妙に感動的になったりもする。時にその興奮はずっと後の作品に持ち越されたりもする。小島信夫の晩年の作品は自身の過去の作品とかなり響きあうところがあるということになっているが、80年代以降の彼の作品のほとんどはそれが書かれた時点ですでに晩年の作品へ移るための何かしらが潜んでいる。

 鶏頭、鶏頭、俺はもう気が狂ひさうだ。という文章が北原白秋の歌集『桐の花』の中の散文「ふさぎの虫」に出てくる。これは白秋が人妻との姦通罪で拘置所にぶち込まれて世間的な評判も失墜してやぶれかぶれになっている頃に書かれた文章で、暑い夏の日に縁側で裸に近い格好で汗をかきながら、己の身の上を嘆くといった内容であるが、転んでもただでは起きぬところがあるというか、極端にナルシスティックなところのある白秋の手にかかってはそれは悔恨という言葉には収まりのつかない激しさがのたうつものになっている。暑くて長い夏の日に俺のような天才がなぜこんな目に、といったようなことをグダグダ考えながら庭に目をやると鶏頭のグロテスクなほどに真っ赤な花がいやに目につく。傍らには剃刀が置いてありそれが時折不気味な光を放ったり、赤錆びた顔を写したりする、というような調子だったと思う。剃刀は当然血を連想させたりもする。赤色がやけにぎらぎらしているのが読んでいて目につく。白秋の作品には時折顔を覗かせる暗闇のようなものがあって、それが妙に冷ややかな印象を与えたりする。

 こんなことを思い出すのはさっき商店街を歩いていたら花屋の店先に鶏頭の切り花が並んでいたからで、北原白秋はかつては国民詩人なんて担がれていたが、今の目で見るとどうしたって近代の詩人で、現代詩の人々からは軽視されている。しかし白秋がいなければ朔太郎もいなかったかもしれず、そうなると現代詩は今とはまるで違ったものになっていただろうと思われる。飯島耕一が著書『萩原朔太郎 I』の中で、白秋の立ち位置はブルトンらから見たアポリネールのようなものだ、と言っていて嬉しくなった。アポリネール自身は今振り返って特別新しいとか見るべきところのある存在だとみなされることは少ないが、アポリネール無くしてはシュルレアリスムは生まれなかった。

 また白秋の詩には、時期によって作風が変わるので一概には言えないが、『邪宗門』などの比較的初期の詩には色濃く高原英理の言うゴシック的なところがあり、それがいま読むと僕なんかには新鮮に思える。ゴシック的なところがあるのは白秋の下から出てきた大手拓次なんかもそうで、あとは日夏耿之介なんかもそういうところがある。当時の流行りの一つだったのかもしれない。これは関係あるかないかわからないがブルトンにも古城とか幽霊とかを好むゴシック趣味があった。

 

 最近本を買うとき梅田まで出てジュンク堂で買い物をすることが多いんだけど、でかすぎる本屋というのはあまり楽しくない。本屋は棚を隅から隅までじっくり眺めることができるくらいの大きさの方が楽しい。その店独自のフィルターというか、どうしてこの本が置いてあるのか、わかるような棚作りになっているとなお良い。そのような本屋が近くに一つでもあると、この本を読んだから次はこの本、というような興味がうまい具合に持続していく。そのような本屋がないと自前でそういうものを当たりをつけて見つけ出していかなければならないので、大変ということもないが、それがまた楽しみの一つでないこともないが、いい感じの本屋がフラッと寄れる近所にあればなあと思うこともある。そこに行けばちょうど今読みたかった本が見つかるといったような本屋があればいい。もっとも最近は小島信夫ばかり読んでいてそれが面白すぎて他のものはあまり読めない状態なので向こう2ヶ月くらいはひたすら小島信夫を読むだろう。

 Apple Musicは楽しい。最近は夏なのでディック・デイルとかキング・タビーとかを聴いているのとあとはマック・デマルコの『2』をヘビロテしている。マック・デマルコのギターのトーンに病みつきで、あのへろへろのチューニング、安いアンプから鳴っている感じのスカスカの浮ついているようなコーラスのエフェクト、良いけどどれも特別良いわけではない絶妙なソング・ライティング、どれを取っても素晴らしい。ヘタウマというのとも違う、これはこれで計算尽くという感を匂わせる、これが音楽の才能というものかと唸らされる、何回聴いても良いアルバムだと思う。

 ディック・デイルはやっぱり『Suffer's Choice』が良い。サーフロック特有のリバーブとか、シンプルなベースラインとか、雑な歪みのかけ方とか、どこかで聴いたことのあるようなフレーズが延々続いていくところとか、そういう上滑りしていくような、さざ波の列のような音像が心地よい。キング・タビーでのお気に入りは『In a Revival Dub』で、ダブと言ってもいろいろあるけど結局この一番の有名どころのキング・タビーが一番良い。とりあえずツマミをいじってみて自分が聴いていて一番気持ちが良いところを探っていくようなところがあってキング・タビーは好きだ。ダブは一人でお酒を飲むときによく聴く。アルコールが回っている状態でダブを聴いていると何もかもがどうでもよくなってくるので良い。

 

 今日は休みだったので梅田のでかい本屋さんに行って、小島信夫の『書簡文学論』と、ドストエフスキーの『貧しき人びと』を買ってきた。小島信夫の影響で手紙というものに興味が湧いていて、書簡体小説とかどんどん読みたい気持ちになっている。手紙を書くときというのは相手は常に不在で、不在の人に向かって語りかける、文章をしたためるというのは面白いことと思う。ある手紙が書かれてから次の手紙が書かれるまで、そして出されるまで、相手に読まれるまでには時間が空く。リアルタイムで逐一その日あったことをラインで送るような感じとはそこが違う。可愛い野良猫を見つけたとか変な看板を見つけた、とか言って写真と一緒にポンと送りつけるようなその感じも悪いことはないが、一週間なら一週間、それ以上ならそれ以上、前の手紙から新たに手紙を書くその時までに流れた時間、その時間を手紙を一つの区切りとして振り返って相手に伝える、そこに飾り気が混じったりもする。随時報告するでもなく、一日の終わりにその日を振り返るというのでもなく、手紙の往来のその不規則なリズムによって自身の日々や考え事とか感じたことが区切られていくその感じ、相手の文面や内容によってこちらの書くことも変わっていくその感じがなんだか無性に面白いと思う。これはツイッターとブログの違いとも似ているかもしれない。ツイッターはやっぱり幾分か反射的につぶやくようなところがあって、ブログである程度まとまった文章を書くとなると書いている途中に考えが膨らんだり逸れていったりする、そういう書きながら考えるということはある程度の文章の長さがないと起こらない。一息の長さが違うそのことで内容が変わったりもする。

この世からいちばん小さくなる形選んで眠る猫とわたくし

蒼井杏『瀬戸際レモン』「多肉少女と雨」 

 

 1K六畳のワンルームマンションに住んでいる。場所をとらないで生きている、と思う。電車でも縮こまって座る。喫茶店に入っても隅っこの席を選んで座る。肩らへんの骨が内側にめり込んでいるような姿勢、そういう癖が骨格についているように思う。もっと胸をひらいたほうがいい、と母に何度か言われたことがある。

 東京の空は狭い、と人は言う。たぶん大阪だって名古屋だって似たようなものだろう。街に住んでいても空が狭いと思ったことはない。狭い空に慣れきってしまっているのだろう。いま住んでいる家は通行量の多い道路の近くで、窓を開けているとトラックのエンジン音やら救急車のサイレンやらがひっきりなしに聞こえる。意識すると気が散るには散るが、やはりそれにも慣れてきている。

ろあろあと深夜のエンジンこの部屋に聞こえいてねむるまえのろあろあ

野口あや子『眠れる海』 

 小さい部屋に慣れきっていて、空間への感覚というのか、自分の持つ縮尺自体がみみっちくなっていることに気がつく。縮こまっていると、緊縮していると血が滞る感じがする。だから僕は冬が嫌いで夏が好きだ。夏になって日差しをむき出しの手に足に浴びながら汗をかいている、汗をかいているそれだけでなんとなく血が全身を駆け巡るような感じがする。サウナにいる気持ちよさと同じかもしれない。前の家は空調設備が壊れていた。今の家はきちんとエアコンが使える。寝苦しいときに二、三時間のタイマーをセットしてつけているが月々の電気代は1500円もいかないくらいで新しいエアコンは燃費がいいんだと感心している。エアコンが使えると、その気になれば涼しい部屋をいつでも実現できると思うと、よりいっそう夏が好きになる気がした。去年の夏はひどかった。四十度に近い日が続いて、そこから逃れる術もお金もなかった去年はいつでも熱中症すれすれでよろめきながら重いものを運んだり運ばなかったりした。命の危険を感じない夏はひたすらに気分が良い。今日は久しぶりに休みの日によく晴れて、早起きして洗濯を済ますとうどんを茹でてゆで卵と軽く茹でてあった小松菜とえのきを載せて腹ごしらえをすると自転車にまたがって行ったことのなかった近所の川へ向かった。目指してみれば自転車で10分くらいで川につき、工場とか倉庫とかが立ち並びコンビニはおろか自販機もあまりない川沿いの、間隔が広くて人のためではなく大型車のために作られているような道や橋を見ていると退屈な風景だけどなんとなくすっきりしてきた。堤防を下ると少しは人や自転車が通ることが念頭に置かれている感じになり、ベンチや切り株がぽつぽつと置かれている。しかしその間隔がまた広い。その広々とした場所に座って、鳥のはばたきや阪急電車の走る音を聞きながら本を読んだ。家で読んでもいいのだが僕は本が読みたくて、しかし外に出たくて、外に出ていると基本的に本が読めない、しかし一日家でまんじりともせず読書にふけっていると体がだるく頭が重く痛くなってくる。そこで僕は外で本を読めばいいというシンプルな解法にたどり着き、気候が良い時にはそうしている。以前は舟岡山にのぼってそれをしていた。今は近所に山がないので川に来た。広いところに来るとすっきりする。広いところに行くのと銭湯に行くのが今のマイブームだ。

 あと最近気になっているのが詩人の富永太郎で、飯島耕一が『萩原朔太郎』の中でいうには、「衰弱と解体の果てに、かえって生への転換を夢想した詩人である」と言っている。衰弱と解体といえば今の僕の生活にしっくりきて、昼夜の別もなく切れ切れの時間をなんとか生き延ばして貯金残高をせっせと増やしているだけの暮らしをしていて、自意識が高まったような霧散したようなどちらとも言えるような状況の中で、なんとか楽しく、というか生の実感を得て生きていきたいという自我が再び芽生え始めた僕にとって、とてもタイムリーな評言で富永太郎は一気に気になる存在に躍り出た。

 

ありがたい静かなこの夕べ
 何とて我がこころは波うつ
 
 いざ今宵一夜は
 われととり出でた
 この心の臓を
 窓ぎはの白き皿にのせ
 心静かに眺めあかさう
 月も間もなく出るだらう
—  富永太郎「無題」

 

 コンビニで発泡酒を買うためだけに家を出て、自転車が多い割に狭い歩道を、引越したての頃は落ち着かなかったがもう大して危機感を抱くこともなく歩いた。予定通りコンビニで発泡酒だけを買った。こういうとき他の商品は一切見ない。コンビニの棚をじろじろ見て回って、どれも欲しくないけどPOSシステムが導入されているからにはこれらの商品にはすべてそれなりの数のリピーターがいるのだなどと感慨に耽ることも最近はあまりしなくなった。コンビニ以外では見ない小さいサイズの袋に発泡酒を入れてもらい5分もかからない道を帰る。帰り道は行きとは違う道を通って、行き帰りの道をつなぐと一つの円になるような道順で、常連以外は入りにくいような小さな飲食店の裏道を通ると魚の頭が落ちていた。日が長いことにもう何にも思わなくなったが、雲のちぎれ方がいい感じだった。

 

 リー・ペリーを聴きながら発泡酒を飲む。買ったはいいけど食べていなかったポテトチップス枝豆味を開けた。ダブは僕が一番気楽に聴ける音楽ジャンルの一つで、リラックスできるというより、ひたすら怠けることに積極的な意味が付与される気がしていて好きだ。特にリー・ペリーは酔っ払ってつまみを回しているとしか思えないくらい過剰なリバーブやディレイのかけ方をするので、何にもしたくない時、頭をぼんやりさせていたいときに聴くには最高の音楽だった。

 

 シリーズケアをひらくの『技法以前』、『居るのはつらいよ』を立て続けに読み終えた。どちらも素晴らしい本で、まだ消化しきれていないのであまり書くことは浮かばないけど、居るということは風景のように描かれるしかない、居るということの価値は説明的に記述することは難しい、というようなことが書いてあって、確かに人のいる風景をぼんやり眺めること、そこに溶け込んでみること、それをふと思い出すこと、などにはなんとも言えない気持ちよさがある。記憶の中の風景、思い出す音楽。大学時代の何気ない日常のワンシーンがふと頭をよぎる時がある。過ぎてしまうまでそのかけがえのなさがわからなかったわけではない。僕は高校生の頃にはすでに小沢健二を聴いていた。だから二度と戻らない美しい日にいるという自覚をその頃から持っていた。とはいえ過ぎた日々は懐かしい。ところでデイケアとはなんだかサークルのような場所なのかもしれないと今思った。人の入れ替わりはあれど構造自体は変わらず、ずっと続いていくような円環的な時間が僕がいなくなった後も僕がいたサークルでは流れている。そのことをSNSごしに度々目にする。

 

 最近滝口悠生の小説がぽつぽつ文庫化されだした。文庫になったら読みたいとかねてから思っていたので『死んでいない者』を買ってきて発泡酒を飲みながら読んでいる。散文の面白さというのか、小説の面白さというのか、そういうものがぎっしり詰まっていると感じる。それは細部へのまなざしであったり、突飛な連想だったり、時間感覚であったりするが、小説は面白いということを改めて思い出した。細部というのか、どうでもいいことというのか、意味のないもの、結論の出ないもの、そういったものへの関心はずっとあって、最近は特にそういうことをぼんやり考えているので滝口悠生の小説はしっくりきている。残らない記憶とか時間とか、思い出せない会話とか、すぐに忘れてしまう出来事とか、そういったものをすくい上げていくようなこの小説に安心感のようなものを覚えている。こんな小説を書いてくれる人がいるうちは大丈夫だという気がしてくる。何がどう大丈夫なのかはわからないが、この小説を面白く読めている自分もまた大丈夫だと思える。まだ半分も読んでいないので的外れなことを書いているかもしれない。

 昨日から珍しく土日が休みだったが、二日間休みがあることをすでに二連休と呼ぶようになっているくらいシフト制の勤務形態に頭が支配されてきている。シフト制で働いているとシフト制なりの時間感覚が身についてくる。三日行ったら一日休みがあるというのは例え睡眠をミスってもすぐに休みが来るので取り返しが効くという点は良い。また早番の日の翌日が遅番だったりすると半日休みくらいの時間が空くので得した気分になる。悪い点としてはとにかく休みがすぐに終わる。それと派手に遊ぶことができない。毎日の流れの外にはみ出すような遊び方をしてしまうとそれを立て直すだけの時間がないのでごたごたしてしまう。とにかく時間が細切れで認識される。曜日感覚だとか、一ヶ月の長さとか、そういった時間感覚が鈍くなってくる。最近買ったつもりの牛乳が四日前に買ったものだったりするし来週と言われてもピンとこない。浅い息継ぎを繰り返してずっと泳いでいる。ここがどこだかよくわかっていない。

 そのように継ぎ接ぎした毎日の内部で、なるべくはみ出さないように楽しく暮らすということをとりあえず試みてみている。料理をしたり白黒映画を観たり本を読んだりしながら日を送っている。あとは近所に友達が住んでいたらいいのにと思う。平日休みの時に電車に乗らずにちょっと一杯ひっかけられたらいい。時間がないから本の回転速度が遅くなって節約になっている。就職してから今まで買った本はすべて萩原朔太郎関係のものだ。それは彼にまつわる問いの深さ、彼が生きた場の広さ・複雑さによるものでもあるけれど、たとえば那珂太郎などは長期間にわたってしばしば朔太郎についての評論を書いている。その間の那珂太郎のなかでの朔太郎の詩の評価の推移もおもしろい。あるいは彼の内部で朔太郎の詩がより深まったさまを見るのもおもしろい。また大正三年ごろの朔太郎、『月に吠える』に収録されることになる作品が書かれ始めるその頃、何が朔太郎の詩を決定したか、という問いがある。それに対しては菅谷規矩雄『萩原朔太郎1914』や北川透の著作が詳しい。前者は主に時代的影響について述べ、後者は彼の描いていた詩論が彼自身に与えた効果について述べている。『月に吠える』前夜に、朔太郎の身に何が起こったか、という問いはそのまま、日本の現代詩は、口語自由詩はどのようにして始まったか、また定型を離れて詩を詩たらしめるものは何か(「詩と散文の違いは何か?」)という現代においても解決はされていない難題に直結している。それは論者によってリズムであったりイメエジや喩の強度であったりして、それが各者の立場をそのまま反映しているように思える。また、朔太郎が生きた時代と比較的近い時期に書かれた評論、伊藤信吉や三好達治によるものを読むと、そういう成立過程だとか時代情況への視点というものは当然欠けていて、その分朔太郎の実人生と照らし合わせて読んだり彼の残したテキストを愚直なまでに読み込んで彼なりの読みを打ち出したりと、後世のものにはない泥臭いアプローチをしていておもしろい。萩原朔太郎の伝記としてもその詩業の概略としても伊藤信吉の二巻本『萩原朔太郎 I 浪漫的に』『萩原朔太郎 II 虚無的に』は滅法おもしろい。萩原朔太郎についてはまだまだ語りたいことがたくさんあるのでまた書く。

 大森静佳の『カミーユ』を買った。少しずつ読んで、あまりの良さにくらくらして、これは体調がいい時に、十全に味わいつくせる状態で余すところなく読みたいと思っていて、なかなか進まない。タイトルになっているカミーユという名前には、二人の女性の影がこびりついている。クロード・モネの妻、その死の床の姿を描かれた作品で美術史にも名を残しているカミーユ・モネと、ロダンの愛弟子であり、文筆家のポール・クローデルの姉であり、自身も彫刻家であったカミーユ・クローデル

 この歌集はあまり読み進めることができていないのに、その芳香に誘われるままにアンヌ・デルペの『カミーユ・クローデル』を買ってしまった。500ページ以上ある分厚い本で、読み切れるだろうか。僕は長い本を読みきったことがない。表紙のカミーユ・クローデルの憂いを帯びた眼差しに捉えられてつい買ってしまった。
 彫刻のことも、彫刻家のこともよく知らないけれど、彫刻家というものは、手や石や粘土で考えているのだろうか。世界の手触りを、どれだけ知っているのだろうか。彫刻というのは、それを手渡すということなのだろうか。よくわからない。冬になるとよく聴くブランキーの”二人の旅”という曲の一節、「お前が俺のすべてだと 手触りで言ってみせるよ」というフレーズを何となく思い出す。
 大森静佳の『カミーユ』もアンヌ・デルペの『カミーユ・クローデル』も印象的な装丁というか強烈な存在感を放っていて、手元にないときでもついその本のことを考えてしまう。そういう気分は自分の興味の範囲がこれまでと少しずれ出す兆候なのでこれからどうなっていくのか楽しみだ。
 
 この前旅行をして、泊まるはずだったホテルが火事になって鳥羽の旅館に振り替えになった。そのフロントに置いてあったチラシのうちの一つ、マコンデ美術館の木彫りの彫刻の造形がダイナミックにデフォルメされていて面白くて、見てみたいと思った。マコンデというのは高原の名前で、タンザニアにあるそうだ。そこでは食べ物も豊かで、飢餓もなく、農作業のない時期には彫刻を彫ったりして暮らしていたらしい。20世紀になって、自分たちが作る彫刻が西洋諸国等に良い値で売れるということで、マコンデでは彫刻がよく作られるようになり、独自の深化を遂げた。黒檀の一木造りの彫刻で、出来上がりの形は、木を見て、その木目やうろの形を吟味して、木の声を聞きながら決めるらしい。だから片手が妙に大きくせり出していることもあれば、鼻がバカにでかかったり、足が不自然に折り曲げられたりしている。そういう風に、対象を思い通りの形に作り変えるのではなくて、そこにあるものにじっと取り組んで、それにふさわしい形を与えてやるという作業は、さぞかし楽しいだろうと思った。僕が彫刻家になるならそういうスタイルで作りたい。僕の両の手は全部親指なので手を使った仕事はできないんだけど。
 
 タンザニアにはマコンデ彫刻の他にも、ティンガティンガ絵画という絵の一派が世界的に有名で、エナメルで描かれていて、てらてら光る躍動的な動物たちが評判らしい。その素朴さというのか、コミカルな感じ、ヘタウマ的なおおらかさが、好きな人は好き、ということなのだろうか、僕にはよくわからないが、この前家の近くをぶらぶらしていると、ティンガティンガ絵画専門のギャラリーを見つけた。こんなところで、またもやタンザニアと思って興味をそそられたが、不定休でその日は休みだった。
 
 手触りとかカミーユとかタンザニアのことをぼんやり考えながら、関連するものを見つけると素通りできない、という生活を続けている。この前はアフリカの石遊び、マンカラをやって楽しかった。手の中で小石が転がるときの感触やぶつかり合って立てる気味の良い音が好きだった。YouTubeでマリのブルース奏者の動画を見つけて格好良かった。それとは別に近頃はロシア文学小島信夫をよく読んでいる。チェーホフゴーゴリが好きで、特に今はゴーゴリを読むのにハマっている。ゴーゴリの、作家的な特徴、というのはまだあまり数を読んでいないのでわからないが、とにかく文章がおもしろい。ある対象を説明するときに突然露骨に文章量が多くなる、距離感のいびつな描写が読んでいて楽しい。筆が乗っている瞬間やその高揚感が読み手にわかる。まだ寒さの残るうちにロシア文学をもっと読んでおいたい。