アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

彼女は今日

 映画の20センチュリーウーマンで主人公の母親が、主人公をいろいろなところに連れ出してくれる下宿人のお姉さんが撮ってきた息子の写真を見て、「あなたは外でのあの子を見ることができるのね。うらやましいわ。」みたいなことを言うシーンがあって、それがずっと忘れられなくて何度も思い返してる。

 母と息子の関係にそれは顕著だけど、それだけに限らずに僕が関わってきた人みんなの、僕と一緒にいるときのその人しか僕には見ることができなくて、そんな当たり前でどうしようもないことを時々寂しく思ったりする。恋人に対しても思うし、友達にだって思う。両親に対してだってそう思う。今よりもずっと幼い頃から思っていた。

 関係性が深まっていくほどに、話せることが増えていくのと同時に、話せないことも増えていく。打ち解ければ打ち解けるほど、距離感や緊張感をもって会話をすることがむずかしくなる。だけど友達に対してはやっぱりあんまりそういうことはない気がする。

 あんまり関係ないかもしれないけど、似たような話として、十代の頃、自分以外の男たちはどういう風に女の子を口説くのか、ということが気になっていた。デートに誘ったり手をつないだりキスをしたりするときに、どんな風にそれをするのか、それは友達に聞いてもわからない。そいつに口説かれた女の子にしかわからない。今はそんなことどうでもいいと思うようになったけど、当時は結構気になっていた。

 そういう感覚をピロウズが「彼女は今日」という歌にしていて、よくそれを聴きながらたまらなくなって頭を抱えたりしていた。


the pillows - Kanojo wa Kyou (Live)

 

 最近よく読んでいるカーヴァーにもその感覚を連想させる短編がちらほらあって、特に短編集の『頼むから静かにしてくれ』に入っている「隣人」「人の考えつくこと」「ダイエット騒動」「あなたお医者さま?」「自転車と筋肉と煙草」などがそのあたりを刺激してきていい。こういうのって一種の覗き症なのかな。

映画でも観ようかと思って

 今日は1日ゆっくりする日だと決めて朝からぼーっとしてるけどすることがない。することもないしお金もない。本を読む気が起きない。本が読めないほど疲れてるというわけじゃないけど読む気が起きないということが時々ある。そういう時は映画を観ることにしていたことを思い出した。本がなければ映画を観ればいいじゃない、ということに気がつくのに一週間かかった。最近すっかり映画を観なくなっていたので。

 近所のレンタルビデオ屋さんに行ってもいいけど、これを機になんらかのVODサービスに契約してみようかと思って、いくつかのサービスのラインナップを眺めてたんだけどめちゃくちゃ疲れた。というのも、表示順がおすすめ順(人気順?)と新着順しかないから。年代とか、ジャンルとかで絞り込んで検索することもできるけど、どんな絞り込み方をしても最初の3ページくらいは金曜ロードショーの常連みたいな映画しか出てこないので、ひたすら無心でページ送りする時間がいちいちあってめんどい。何回ワイルドスピードやミッションインポッシブルを見せる気なんだ。毎回バックトゥザフューチャーを観るわけないだろ。説教くさいヒューマン映画やインスタグラム的な恋愛映画をミュートしたい。そういうのが無性に観たくなる時もあるけど…ローマの休日があるだけで白黒映画もあります!みたいな雰囲気を出すな。

 あと、ラインナップ的にも、各ジャンル、各監督の代表作が2、3本あるだけということが多くて、ジャンルや年代や監督で掘り進めたい時にどうにもならない。ゾンビ映画で言ったらロメロの三部作だけ、みたいな。死霊のえじきはないことが多いけど…。キューブリックがシャイニングの一発屋みたいになってる。レオンとアメリとショーシャンクを入れといたらミニシアター系もカバーできてますみたいな顔をするのをやめろ。男はつらいよ釣りバカ日誌などでカサ増しするのをやめろ。年代で絞り込んで眺めてる時に寅さんの顔が延々と続くとうんざりしてくる。

 すべての棚の目立つところにダークナイトが置いてあるレンタルビデオ屋さんがあったらびっくりするけど、VODサービスではそういうことが多々ある。どのジャンルを見ても同じようなラインナップが出てくるだけの状況がしばらく続く。マッチョなアクション映画が観たいわけでもとろけるような恋愛映画が観たいわけでもない時にはイライラする。邦題に「人生」が付くタイプの映画ばっかりオススメしてくるな。今は別に人生観を変えたいわけじゃないんだよ。あいうえお順で表示できるようにしろ。観たい映画が全然出てこなくて、だんだんイオンに入ってる映画館に来た時みたいな寂しい気持ちになる。

 何を観ようかなと思いながらレンタルビデオ屋さんをウロウロするのは楽しい。知らなかったけどタイトルやジャケットがきになる映画を見つけたり、観たいリストに入れたまますっかり忘れてた映画とか好きな監督の観てない作品とかがほいほい見つかる。というか棚が違えば置いてある作品が違うのが今となっては嬉しい。あいうえお順で並んでるのも。観たい映画が明確に決まってるわけではないけど、なんか映画観ようって気分の時にはVODサービスは不便だ。アバウト・タイムもきみに読む物語最強のふたりもセッションももうオススメしなくていい。別にそういうのが嫌いなわけじゃないけど、しつこいので。やっぱりレンタルビデオ屋さんをウロウロした方が短時間でたくさんの収穫がある。フランス映画やB級ホラーや古いフィルムノワールなんかが充実してるサービスがあったら教えて欲しい。マーベル系やらヤクザ映画や時代劇やアカデミー賞受賞作大好きマンだったらよかったのにな。最近マーベルに対する追い風がすごい。完全に乗り遅れてしまった。

 

 素直にビデオインアメリカに行きます。

 本を読んだら忘備録として読書メーターに感想を書く。最近はたまに詩集を読む。詩に感想をつけるなんて、ナンセンスだと思う。すべて詩の中に書いてある。そこに付け加えるべき言葉なんて何一つさえないと感じる。詩を読み解くなんてくだらない。詩は切り刻まれるために提出されたはずじゃないはずだ。詩は持ち運べばいい。詩は抱いて眠ったらいい。詩は何度も読み返したらいい。ものによるけど、声に出して読んでみたらいい。詩によって心の風向きが変わったなら、わからないことが増えたなら、安らぎを感じたなら、不安でたまらなくなったなら、それでいいじゃないか。現代詩はよくわからない。それはズタズタに引き裂いてみても、力任せにひん曲げてみても、上からベタベタと野暮な言葉を塗りたくっても変わらないはずだ。詩は読み返すしかないんだと思う。だけどこれはあくまでお客さんの立場での意見で、詩の未来?を思えば批評も論壇も必要なんだと思う。ぼくは詩を読むのはたのしい。

 
 話は変わるけど、最近自分の敵は自分だと感じることが多い。ストイックな意味ではなくて、自分の中に他人の声が多く流れ込んできて、その声が自分を裁き出すということがよくある。それで身動きが取れなくなったり、回りくどい文章を書いてしまったり、何も言えなくなったりすることもある。思慮深いとも自意識過剰ともいう。こういう時に自意識過剰という言葉を選んだ方が冷静に自分のことを見ることができている感じがするけど、シビアな方を選ぼうとするのはそれはそれで認知の歪みではないかと近頃は思う。
 誰だって多少はそうだと思うけど、自分を見つめるメタ的な自分というのがいて、そいつによる抑圧というか茶々入れみたいなのがだるくなってきた。そういうのダサくない?とか寒くない?とかまだそんなことについて真剣に考えてるの?それちょっと倫理的にヤバくない?今すごい飛躍したよね?などといちいち突っ込んでくる自分がいるけど、そういうのってなんていうか背伸びなんじゃないかと思う。年相応もしくは不相応に若いとか甘いとかダサいとか思われる(誰に?)ことに対してなぜだか異常にビビってるようなところがある。そういうところからもう一人の僕は出てきてるような気がする。人からの目線にこだわるのはうんざりするしダサいと思いつつも絶えず自分の中に外側からの視線を生み出してしまうのは、それはやっぱり若いということなんだろうか。なんかとぐろを巻く感じのこわい文章書いちゃったな。
 ぼくの一番大好きな本のひとつである、谷川俊太郎の『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』から、心あたたまる詩をひとつ紹介して終わります。
 
 8 飯島耕一
にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっていうけど
ぼくはウツ病でまだ起きてる
何をしていいか分らないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

 

中也

 僕は中原中也が好きだ。学校の教科書に載っていた「汚れちまった悲しみに」が初めて読んだ彼の詩だった。中也の詩は今でもときどき読み返す。その度にあらためて好きだと思う。

 中也は理由のない悲しみをよくうたうから好きだ。理由のある悲しみも僕たちの生活にはありふれているけれど、理由のない悲しみだって当たり前に存在する。この前文庫になっている中也の詩集を読み返してみるまで、僕はそのことを忘れていた。中也を読むのは、好きだと思うのは、青臭くて恥ずかしいという意識がいつからか芽生えていた。太宰治はよくはしかに例えられるけど、中也もはしかだと思っていた。わけもなく悲しくなってしまうなんて、子供っぽいことだと思っていた。
 というのも、悲しい気持ちになるのは単純に体が疲れているからだとか、睡眠が足りてないからだとか、お腹が減っているからだとか、そういう風に割り切って対処することが物分かりのいい大人の対応というものだと、そういうようなことは大人になるまでわからなかったという但し書きをつけて主張する人をよく見ていたからだ。だけどこういう○歳になるまでわからなかったこと論法はずるい。ずるいというか抑圧的だと思う。抑圧的だと思うからずるいと感じる。まず単純にその歳に達していないひとがそれは違うんじゃないのと言ってみたところで「君はまだ若いからわからないんだよ」と言われるのがオチで、物分かりのいい風を装いつつも結局のところ一方通行で言いたいことを言いっぱなしてるだけで、たとえその中身が本当のことや有益なアドバイスだとしても、そういう一方的な物言いには反感を覚えてしまう。また仮想敵と闘ってしまった。そんなことはどうでもよかった。
 話が逸れてしまったけど、そういう言説に触れているうち、そしてそれらに素直にふむふむと頷いているうちに、いつしか悲しみには理由があって、そしてそれは大した理由ではない、という認識が内面化されていった。たっぷりご飯を食べてゆっくりお風呂に入ってぐっすり眠れば、悲しいことなんてないんじゃないかと。そうすると悲しい気持ちになるのはこちらに何らかの手落ちがあったからで、そのことでぎゃあぎゃあ騒ぐのは幼稚なんじゃないか、悲しみを高尚なものとしたり、アイデンティティの拠り所とすることはガキくさい愚行なんじゃないかと思うようになってきた。ここまで書いてきて思ったけど、自分の読みが変な方向に過剰だっただけで、自分の生活実感を無邪気に書き綴って手と手をとって明日からも頑張ろうとしているだけの人たちにはやっぱり罪はない。
 それはそれとして、中也の詩には理由のない悲しみがよく出てくる。それを読むととても心が安らぐ。別に悲しみを高尚なものとしているわけでもなく、それを拠り所とするのでもなく、言い訳にするのでもなく、ただ悲しいから悲しいという、そういう描かれ方をする。その悲しみには理由もなく、意味もなく、因果関係もない。ただ悲しいだけだ。そのような悲しみを前にして、「なすところもなく日は暮れる」。それでいいじゃないか、仕方がないじゃないかと、僕は久しぶりに中也を読み返して、自分のわけのない悲しみを受け入れることができた。僕は中原中也が好きだ。

 

カーヴァーを読んだりしている

 今住んでいる部屋の近所に、自分の一部のように思えてならない場所がある。月が綺麗な夜とか、陽の光を浴びたいときとか、パン屋さんでパンを買った時なんかによく行った。一人で行くこともあったし、誰かを連れて行ったことも何回かある。よく行ったと書いたけど、本当はそんなに頻繁に通ったわけじゃないし、ここ1年では2、3回しか行ってないかもしれない。だけどなぜか僕の中ではよく行く場所という認識だし、近く感じている。ちょっとした山のような場所の頂上で、木に囲まれているけどそこは開けていて、座れるところがいくつかある。そこで座ってパンを食べたりパックの牛乳を飲んだりイヤホンで音楽を聴いたりしていると、太陽をたっぷり浴びることができるし、とても退屈で、いい気分だった。あんまり人はいないけど、たまに他にも同じように暇を持て余しているような感じのカップルや老人がいることもあった。ちょっとだけ星が見えやすいので、流星群や満月の日にはちょっとだけ人が集まることもある。そういうのがちょっと好きだった。

 引っ越すことになったら急にそういう場所とか記憶が懐かしくなって、ふとした時にいろいろなことを思い出してたんだけど、退去の手続きをミスってなんだかんだ夏の初め頃まで今の家に残ることになった。それまでの家賃や生活費を稼がなきゃいけなくて、日雇いのバイトを始めた。初めての肉体労働をして、爪が割れて血が出たし腕が棒になるくらいくたびれて泣きそうにもなったけどなんとかやり遂げて、うれしかった。今までそういう体を使う仕事をすることなんて考えもしなかったけど、数ヶ月後に引っ越すようわからん輩を雇ってくれるバイト先もないだろうし、体力作りにもなると思って重い物を運ぶバイトをした。くたくたになるまで体を動かして小銭を稼ぐのは、煩わしい人間関係もないし、責任の伴う選択もないし、すごくシンプルでまっとうな達成感があって、めちゃめちゃしんどかったけど悪くないなと思った。冷やかしテンションでやっているからそういう風にお気楽に思えるだけかもしれないけど。だけど自分が曲がりなりにも働ける体を持っているということが確認できて、それはやっぱりうれしいことだった。少し心が軽くなった。

 最近はカーヴァーの小説をよく読んでいる。カーヴァーの小説を読むのは好きだと思う。『必要になったら電話をかけて』という彼の未発表短編集を買って読んだ。その中の「薪割り」という短編が好き。アル中の療養施設に入っている間に妻に逃げられてしまった男が、新しく移り住んだ独り身用の下宿先で、これをやりきったら自分は変われると自分の中で約束をして、一心不乱に薪割りをする、というだけの話なんだけど、ついつい感情移入して読んでしまった。僕もいま、僕なりの薪割りの最中だ。

 カーヴァーの描くささやかな回復の物語が好きだ。ほんの少しの兆しを見せるところで終わってしまうし、元どおりにはならないし、増えてしまった皺は消えないけど、それでもともかくまた再び日々を生活を人生を自分の手に取り戻そうとしはじめるストーリーに救われる思いがする。カーヴァーの小説にはどれも、簡潔な文体の裏に、いくら掃除をしても気がついたらまた積もっている埃のような哀しみがこびりついていて、変な話だけどそれで気が楽になるようなことがある。心強い、素敵な友達みたいな親しみを感じる。

 カーヴァーの小説には、彼の作品のタイトルにもなっているけど、たくさんの「ささやかだけれど、役にたつこと(A Small Good Thing)」が含まれている。声にならない声に溢れていて、風が吹いたらかき消えてしまいそうないい気分があり、転がり続けた果てにたどりついたどうしようもない別離があり、何度も繰り返されたやりとりの焼き直しのうんざりするようないざこざがあり、大きな声にはならないし思い出というにはちゃちな忘れられないいくつかの場面がある。

 『必要になったら電話をかけて』に入っている「夢」という短編も良くて、毎朝妻を起こしに行くと、その日見た夢について話してくれる。彼自身は夢を見ず、「書き留めておけば?」とあまり気の利かない返ししかできないが、それなりに楽しく聞いている。隣家からは、料理中の奥さんのハミングが聞こえてきたり、眠らない夜に窓の外を見やるとまだ電気がついていたりして、自然な親しみを感じている。ある日隣家に不慮の事故が起こり、慰めたいと思うが力になれない。彼の親愛の情はあまりに一方的なものだったから。自分の妻の見る夢や、隣家からの灯り、聞こえてくるハミング、そういったささやかな励みに囲まれながらも、彼はそのどちらとも関係を持つことはできない。手は届かないけど、いつだってそばにある。その距離感が素晴らしいと思った。カーヴァーの代表作の一つである「大聖堂」もそうだけど、カーヴァーの作品は一見無愛想にも感じるけど、思いもよらなかった関係性のあり方やつながりを不意に感じさせるときがある。それが彼の作品の素晴らしいところだと思う。カーヴァーの描く、ささやかだけれど役に立つものの数々がたまらなく好き。

 この前大きいことについて考えると疲れてしまうということを書いたけど、大きいことというよりも正しさについて、と言い換えた方が実感に近いかもしれない。正しさなんてものは一人で決められるものでもなくて、かといって多数決で決めていいものでもなくて、正しさについての合意形成はどのように行われるのか、ぼくには全然わからないけど、とにかく正しさについて考えようと思っても、そもそも足場からあやふやで、範囲も曖昧でよるべなく、誰か偉い人、賢い人が唱えた説を取り込んで自分の考えのように振舞うしかできない気がしている。かといって考えることをやめて自分の外から流れ込んでくる正しさを盲目的に信じていればいいわけでもなくて、自分なりの正しさをどうにか捕まえようという視線自体は持っていなくてはいけないと思うけど、正しさを求めることに汲々としていてもたぶん得るものはそんなにない。正しさはいつだって配慮しなければいけないもので、正しさに対する意識は時代とともに移り変わっていくので、各人が日々更新していかなければいけないものではあるけれども、正しさをひたすら追求することが良い結果をもたらすとは限らないというか、正しさにこだわり続けるとそれがいつの間にやら手枷足枷になっているということがあると思う。

 この前大きな図書館に行って、大きな図書館に行くといつも感じることだけど、ここにある本のうちぼくが読めるのは本当に一握りしかないんだなという感慨を覚えた。読書メーターで読んだ本を記録しているからわかるんだけど、ぼくは頑張ってもせいぜい年に200冊くらいしか本を読めない。そう思うと、どんな本を選んで読むのかということにもっと意識的にならないといけないのではという気になってくる。ある本を読んで引用されていたり言及されていたりアマゾンの関連商品に出たりしている本をまた買って読み進めるというやり方で本を読むことが多いんだけど、これは気持ちとしてはソシャゲのガチャを回すのに近い気がする。知識欲とか好奇心とかのもつ中毒性に突き動かされて反射的に次々と手を伸ばしてしまっているだけだという風に思えてならない。そういうジャンキー的な読み方をたぶんここ半年くらいはずっとしていて、自分の頭で考えるということをすっかりやめていたということに数日前に思い当たった。僕は書きながらかしゃべりながら考えるタイプだから、とりあえず何かを書いてみないことには自分がいま何を考えているのかわからない。だからいまもこの文章を、なんかモヤモヤするけど自分はいま一体何を考えてるんだろうということを知りたくて書いてる。

 どんな本が読みたいのか、本とどのような関係を持っていたいのか、今一度じっくり考えてみたい。けどいまはあんまり時間がないのでまた今度。最近はジェンダーや福祉についての本が多かった。気持ちはなんとなく詩の方に向いている気がする。川口晴美高橋睦郎など。

23歳の夏休み

 23歳になったけど、毎日が夏休みです。5、6年前の、まだ高校生だった頃から、神聖かまってちゃんの23歳の夏休みを聴いていて、いつか23歳になった時にもこの曲を聴くのかなと当時から思っていたのですが、やっぱり聴きました。17、18歳の頃の僕には23歳の僕のことは全く想像できなかったのですが、ある面ではあの頃から別に何も変わっていないとも言えるし、ある面では予想もしなかったような変化を遂げました。三つ子の魂百までというか、自分のあり方は十代の頃からそんなに変わっていない、と言って憚らない大人がいますけど、僕はそんなことはないと思います。十代の頃と比べたら、と言ってもまだ四半世紀も生きてない若造ですが、頭の中身も生活実感も周りの環境も見えている世界も信じることもまるっきり変わっていて、十代の頃と何も変わらないとはちょっと言えないです。もちろん、十代の頃に夢中になったもの、たとえば往年のロックミュージックを聴いたりすると、今でも血湧き肉躍りますが、それは変わっていない証拠ではなくて、いくら変わったからといって過去の自分が消えるわけではないので(変化の途上で過去の否定が伴うこともありますが)、昔好きだったものは今も好きというのはあります。

 年齢を重ねて変わっていくと言っても、変幻自在にくるくる別人になり続けていくわけではなくて、内面が変化していくというよりも、自分という枠組みの輪郭が変わっていくというか、意識のあり方、認識の仕方それ自体が変わっていくように思います。内面の変化もそれなりにありますが。僕はロックンロール原理主義者からだんだん懐疑主義者になりました。

 それにしても、僕は人生を語ることに憧れを持っていたのですが、いくつになっても人生論なんて語れるようにならなさそうだなと最近は思います。人生っていうのはな、と偉そうに断定的に持論をぶちまける風には、これからなれそうにありません。日々わからないことが増えていって、はっきりと言えないことばかりだということだけがはっきりとしてきました。そもそも人生という括りは雑すぎる。

 あと、第二次性徴期の頃も思っていたのですが、いつだって心よりも先に身体の方が歳をとりますね。身体の変化に引っ張られるようにして心は歳をとる、という感じがします。