アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

滞りなく

  ぼくがいちばん好きな幸福の定義はゼノンによる、「生に滞りがないこと」なんだけど、滞りなく、心地良く、適当なタイミングで適切な変化をしていくためには、どうしたらいいのか、頭で考えていても仕方がなさそうな事柄ではあるけど、そのことについてよく考えている。はっきりとした方向付けはまだできてないけど、なんとなく、これは関係あるかもなと思った文章を覚え書きしておく。

臨機応変之事は思量を以て転化するにはあらず、自然之理を以て思わずとも変じ、量らずとも応ずる者也。
— 

古藤田俊定『一刀斎先生剣法書』

私は動きの柔らかさを一応次のように定義している。
  「からだの一部に生じた状態の変化が’、次から次へと順々に伝わってゆく、その伝わり方のなめらかさを柔軟性という。」
 しかし、これではまだどうにも本質的なものがとらえられないので、次のように情報理論的な考え方をしてみる。
  「内部環境あるいは外部環境からある情報(力・刺激)があたえられたとき、それを高い感度で正確に受けとり、それを伝えるべきところへなめらかに速やかに伝え、その間に適当に選択・濾過・制御して、適切に反応(適応)する能力を柔軟性という。」
 柔軟性を意識のうえで、それも分析の論理でとらえる姿勢になってしまうと、このようにむずかしくなってくるが、素朴な総合的直感によれば、現実の問題として、誰にとっても特別むずかしいものでないところにおもしろさがある。結局は、柔軟心の柔軟・融通無礙・変幻自在・透明平静・無・空の概念にいたる東洋の直感的思考でとらえる他はないと思っている。
—  野口三千三『原初生命体としての人間』

 

辰巳 なぜキリストは自分の形見として、パンとぶどう酒をお選びになったのでしょう。
竹内 その背景にはいろいろありますが、素朴なレベルで、当時の人々にとって、パンとぶどう酒は、最も基本的で身近な食物でした。食といのちとは、切っても切れない関係にあります。それは、例外なく、すべての人に共通したことです。人々全体に共通する最大公約数は「食べること」なんですね。
 生命をいのちたらしめるのは、食事です。人間は、何を食べるかによって、どういう人間になるかが決まってくるのではないか、と思います。この場合の「何」とは、ただ単に食物だけではなく、人間が人間として人間らしく生きるために必要なものすべてを含んでいます。ですから、もし誰かが、「わたしを食べなさい」と言われたイエスを食べるなら、その人は、おのずからイエスに似た者へと変わらざるをえないのではないでしょうか。イエスは、「わたしはいのちである」と語り、「わたしを食べなさい」と私たちを招きます。「いのちを伝える」ということと、「食」とが直結しているのは、明らかですね。
—  辰巳芳子『食といのち』
 

 スタイルはすでに思想である。ある思想を学ぶというのは、まずはある思想が世界を見る、世界に触れるそのスタイルに感応するということである。もうそういう見方しかできなくなるということである。その意味で、哲学はその語り口、その文体をないがしろにしてはいけないと、つよくおもう。

鷲田清一『「聴く」ことの力』

 

世の中とおんなじで、映画でも、おもおもしさとか、感動の深さとかなんてことがいい作品の尺度みたいにされている。しかしおもおもしさなんてバカでもできることなのよ。また、バカはしつこいから、しつこくおもくする。それをまた、世間ではほめてくれる。おもおもしくするのは、外部から重しをつければいい。ストーリイをおもくしたり、あれこれ、重しをつける方法はいくらでもある。 だけど、かるさは、外部からではなく内部から、かるくならなくちゃいけない。これは、なかなかできない。ただ、知的であることによって、精神的な自由を得、かるくなることもある。バカには見えかったものが、スカッと知的だと、すんなり見えてきて、どうってことはなくなるのだ。
—  田中小実昌『ぼくのシネマ・グラフィティ』

  

 それはそれとして、気温が上がって天気が良いと信じられないくらい元気になって、気温が下がったり、空が曇ったり気圧が下がったりすると信じられないくらい調子が悪くなることを最近とても実感している。ある意味健康なのかもしれないけどたびたび生活に支障をきたすので、できることなら改善したい。

 

 自立、地に足をつける、倚りかからない、そんな単語を頭の片隅に転がしつつ日々を送るようになって、だいたい一年になる。自立するとはどういうことなのか、どうすればそれが可能になるのか、ということを時には熱心に考え、時にはすっかり忘れて過ごした。毎日自炊をしてみたり、日常的に運動をしてみたり、家計簿をつけて節約に励んだり、禁煙を試みたりもした。

 自炊と節約生活から得たものが特に大きかった。自分がある程度健全に生命を維持するためにかかる必要最低限のコストを身を以て知ることができたことは、精神衛生上とてもよかったように思う。詳しく内訳を書くことはしないけれど、どんな職業・働き方をしてもなんとか賄えるくらいの金額だった。

 また、お金に頼りすぎないように意識して暮らしていると、足るを知ると同時に不足を知ることもできた。お金をなるべく使わないようにして暮らすことも意義のあることだと思うのと同時に、お金を使っていいものを買ったり遊んだりするのも楽しいという当たり前のような実感を得た。お金は飯の種であると同時に誰が使ってもだいたい同じような効力をもつとても質の良いコミュニケーション・ツールだ。お金のことをたくさん真面目に考え続けてお金のいろんな側面を微見ることができた。拝金主義やマテリアルビッチじゃこの先きつそうとは思うけれど、必要以上に嫌悪することも、ミニマリズムもできそうにない。ミニマリズム原理主義的に実践しようとすると、そもそも生きている必要があるのかと疑問に思ってしまう。「動的平衡」で有名な福岡伸一が料理研究家の辰井芳子との対談の中で、次なようなことを言っていた。

辰巳 出発点の「気づき」から、それが確固とした「認識」に到達するまでの過程については、どういうことが大事なのでしょう?
福岡 私は「振り幅」が大きいということが大事だと思います。貯金通帳の残高を見るのが大好きという人もいるようですが、人生は残高じゃなくて振り幅だ、と私は思うんです。なるべく総収入が大きくて総支出も大きいのがいい。どうせ残高を棺桶に入れて持っていくわけにはいかないんですからね。やっぱり大事なのは振り幅で、それが大きいほど豊かな確固たる認識に到達すると思います。
—  辰巳芳子『食といのち』

 安定ということ、主に精神的な安定についていつも思いを巡らしているけれど、これまでは安定というと、振れ幅が少ない、お金で言えば支出が少ないような状態こそが安定であると、心が揺さぶられることがなるべくないことが安定なのではないかと思っていたけれど、求道的な節約生活に片足を突っ込んでみて、勘違いだったように思い始めている。振り幅が大きくても、極端に大きく振り切ってしまった場合にも上手に揺り戻しが効いていれば、それも安定の一つの形なんじゃないか。独楽のように回り続けることではじめて得られる安定もあるんじゃないか。長い目で自分の来し方を振り返ってみると、とてもとても振り幅が大きい。そしてそれがとても楽しかった。これからも一つのところに長くとどまることはきっとなくて、それでいいんだと思う。フロイトが、人間には生への意志(エロス)と一緒に死への欲動(タナトス)も備わっていることを発見したけれど、それぞれ無理に力を加えて抑え込もうとしても無駄に消耗してジリ貧になるだけなので、適度に、問題にならないうちにこまめに発散していった方がきっと良い。これまた手垢にまみれた用語だけど、ハレとケのバランスというか。何にせよ一辺倒というのは健全じゃない。

 

 地に足をつけるとはどういうことかを考えたときに、まだまだ途中ではあるけれど、そしてありふれた結論ではあるけれど、毎日きちんと食べるということとの関わりは根深いように思う。生きることは食べることという、人はパンのみにて生きるにあらずともいう、そのどちらも正しいけれど、個人のささやかな実感として、慌ただしく日々を飛ばして間に合わせの食事を詰め込んで摂取したカロリーでなんとか体を動かす日々が続くと、浮き足立っていると感じる。落ち着かないと感じる。食事をする時間が乱れがちになるとうまく眠れなくなる。飽きてきた。終わります。

 地に足をつけるとか、浮き足立つとか、落ち着かないとか、そういう語源に身体感覚が根ざしているような言葉に最近とても面白味を感じる。言葉の中に先人たちの知恵や実感がぎっしり詰まっている。前にも書いたような気がするけど、みんなと一緒が安心なら死者たちの真似をするのが数が多いしいちばん手っ取り早いと思う。高橋睦郎の「この家は」という詩がそのあたりとんでもなくすごい。


死者より(From The Dead) / 坂本慎太郎(zelone records official)

 ここ数日は、また本を読むのが楽しくてしょうがなくなって、とても調子がいい。

冬に埋まる

朝の5時に起きた。ノートパソコンがキンキンに冷えている。寒波がきて急激に冷え込んで、全国で連日雪が降っているらしい。昨日も外に出たら耳がちぎれそうなくらい寒くて、嘲笑うかのように細かい雪がちらちら舞っていた。
寒いとたいへんだ。体に変な力が入りっぱなしになって肩がこるし、外に出たくなくなるしそれに伴って気分も塞ぎがちになる。夜空は澄んで、事物の解像度が上がって見える。輪郭がはっきりと鋭くなって、それぞれがヒリヒリと孤立しているように感じる。息を深く吸い込んだ時に鼻の奥がツンとする。冬はつらい。
数日前まで春みたいな陽気だったけど、思わせぶりなことはやめて欲しい。行きつ戻りつしながら進んでいく季節がうっとおしい。もっとキビキビ動け。だけど近ごろすこし日が長くなってきたのでうれしい。あと、寒いときは背中で息をするイメージをするとすこしぽかぽかしてくる気がする。
禁煙は10日を過ぎました。なにがしたかったんだっけ。最近したいことないな。ワカサギ釣りくらいしかしたいことない。なんかズブズブだ。冬に埋められる気がする。外は寒いよ。

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四日目

 禁煙4日目。この頃には、体内のニコチンが完全に抜けるらしい。だからあとは、習慣的な吸いたい気持ちとの戦いになりそう。禁煙をして、どのくらいでどんな効果があるのかがわかるとちょっと励みになる。

健康と禁煙の情報 - 禁煙マラソン

 まだまだめっちゃたばこ吸いたくなる。禁煙中にきっと一番考えちゃいけないことは、「このままもう一生たばこ吸えないのかなあ…」ってことで、たばこに限らず、カツカレーでも、マカロンでも、うなぎでもなんでもいいけど、一生食べられないのか…!?って思うと無性に食べたくなる。あくまで「今日は我慢しよう」の積み重ねで、その結果我慢してたことも忘れるくらいどうでもよくなる日が来るのかもしれない。

 たばこをやめるとごはんがおいしくなるというけど、タバコの代わりにコーヒーをがぶ飲みするようになったのでよく分からない。タバコの代わりの何かに依存してしまったらあんまり変わらないんじゃないかという気がするけど。生活習慣全体の見直し・改変が必要なのかもしれない。イライラするたびに筋トレをしていたら全身が筋肉痛になったのでプロテインを買った。プロテインを飲むと筋肉痛がマシになる気がする。

 たばこを買わなくなってから、お金を使わない日が増えた。今までは毎日たばこを買っていたから、日数が経っても財布の中身が減らないのが不思議。世の中のたばこを吸わない人たちはこんなにお金を使わないものなのかと驚いた。

 生活習慣を変えるために部屋の大掃除をした。あらゆるものを目につかないところに押しやって、何もない空間で生活してみることにした。そこから必要に応じて、必需品を少しずつ出していく、というやり方で、ほとんど元通りになった。散らかった服とテレビとテーブルと椅子をなくしただけでだいぶ部屋が広くなった。最近はなんかもう本を読んで生活や人生観を変えるのにも疲れて、毎日の楽しみといえば料理とアニメくらいしかない。今期はずば抜けておもしろいやつはないけど観るもの多くて豊作だと思う。

 本気でお金を使わないようにしようとしたら、きっとこれからもしばらく我慢し続けられると思うけど、問題は、我慢し続けられてしまうことだと思う。ないものねだりはやめて、今あるものに目を向けましょう、みたいな話が美談みたいに語られたりするけど、そういう生き方ってあんまり社会にそぐわないんじゃないかと思う。あれがしたいから、これが欲しいから今月も働くぞ!みたいな方がテンション高くていいと思う。抽象的な話になるけど、節約志向で過ごしてるとどんどんセンスにこだわりがなくなってくる。センスって張りのある生活を維持する上でとても大事だと思う。単なる見栄なのかもしれないけど。いま、欲しいものが玄米とティッシュしかなくてさみしい。いっそ投資信託でも始めたらウケるかな。

 

 禁煙してるとマジで頭の中がタバコで埋まるのがきつい。すごいモテなさそう。たばこと無縁な生活に作り変えたい。スカッシュで汗を流して、プールで泳いで、スタバのコーヒー持ち歩いて、『アメリカン・サイコ』みたいな感じになろうかな。

 いままでは、タバコ、コーヒー、音楽、本、映画、みたいな感じの毎日だったけど、コーヒー飲んでも音楽聴いてもタバコが吸いたくなってつらい。映画は見たらひとたまりもなさそうだから我慢してる。昔のフランス映画とかみんなスパスパ煙草吸うから絶対我慢できなくなる。

 きららアニメとヘヴィメタルと果物とプロテインを励みにやっていきます…暗中模索。感情ベースの生きがいなら早いとこ捨てちゃった方が楽そう。

禁煙はじめました

 
 禁煙始めました。なぜかというと、寒くてタバコを買いに行くのがめんどくさくて、もういっそやめちまおうと思ったからです。毎月食費よりタバコ代の方が多いし。今三日目くらいです。頑張ります。
 ニコチンの依存性はコカインやヘロインと同じくらいだとかいう話もあるそうです。もしそれが本当で、僕が禁煙できたとしたら、将来コカインやヘロインをやってもへっちゃらな強靭な精神を持っていることになります。楽しみです。
 ニコチンの依存に関しては、初日が、禁煙するぞと決めてから2時間から12時間くらいがいちばんやばかったような気がします。冗談抜きでタバコのことしか考えられなかった。けど丸二日経つ頃にはあんまり気にならなくなってきたかも。それよりも習慣的なものがきつい。朝起きた時とか、食後とか。音楽聴いてる時とか。格好良い音楽聴いてると反射的にタバコ吸いたくなるから、禁煙始めてからメタルしか聴けなくなってしまった。禁煙してから48時間経つと味覚が正常に戻るらしんだけど、その前からすでに口さみしいやらいらいらするやらやることないやらで、食べる頻度と量がかなり増えた。けど毎日タバコ買うよりは安い範囲だからいいかな。
 タバコやめてから、一日の中に区切りがなくなって、ひと続きの時間が漠として存在するようになった。今までタバコ吸ってる時間が浮いたわけだから、一本5分だとしても1日で100分。急に100分渡されても持て余す。一日がとても長く感じる。仕方がないので筋トレすることにした。タバコをやめて浮いた金でプロテイン買おうかな…
 あとすごくむしゃくしゃするからランニングを始めた。とりあえず2キロ走った。週3くらいで、30分で5キロくらい走れるようになったらいいかな。前まで走ろうと思っても5分で肺がきつすぎてダメだったんだけど、その頃と比べたら、2キロ走ってもまだ余裕があった。
 タバコやめたらなんだかたくさん食べられるような気がしてきた。胃が小さくて食べられないと思ってたけど。今ならいける気がする。めっちゃ食欲湧いてくる。というか口がさみしい。たくさん食べて、体を大きくしたい。どうせ禁煙するなら逆方向に振り切った方がやりがいありそう。
 タバコを我慢するのがしんどいうちは、1日につき420円分好きなもの買っていいことにしようかな。10日我慢したら4200円の好きなもの買っていい、みたいな。

いい映画は二度ベルを鳴らす

 読書の楽しみの原体験は、「自分の中のもやもやがピタリと言い当てられている文章を見つけること」だった。映画の楽しみはあこがれや、「欲望を真似すること」だった。スクリーンの向こうのジェームスディーンにあこがれて、赤いジャケットが欲しくなる、そういう瞬間がとても楽しかった(DVDで観たんだけどね)。ちなみに僕はマイケル・J・フォックスに憧れてギターを始めて赤いセミアコを買った。もちろん最初にコピーしようとしたのはチャックベリーだった。

 映画は人々の欲望をスクリーンに投射したもの、的なことをアンドレ・バザンがどっかで書いてたけど、今でもやっぱり映画の楽しみの根本にはあこがれがある気がする。B級ホラーに関しては、そうじゃないけど。
 そういう意味でユニークな映画に、スタンド・バイ・ミーがある。誰もが知ってる名作だけど、これはきっと人生で二度観る映画なんだと思う。一度めは、主人公たちと同じぐらいの年頃、12歳前後の時。二度めは、もっと大人になった時。僕は多分4回くらい観てるけど、初めてみた時は「僕もこんな風に友達と冒険してみたいなあ」と純粋にわくわくした。二度めからは、もっとノスタルジックな、切ない気持ちが強くなった。一度めはあこがれ、二度めはノスタルジー。そんなふうに受け手の年齢によって印象をガラリと変えてしまうこの映画は、やっぱり懐が深くて名作だなあと思う。
 同じように、きっと人生で二度観るべき映画に、去年『20センチュリーウーマン』が加わった。一度めは自分が「息子(もしくは娘)」であるとき。そしてきっと二度めは、自分が親になったとき。三回めがあるとしたら、自分の息子か娘が大人になったときに、一緒に観てあれこれ語り合いたい。何度も言っているけどそんなふうに思わせられるくらい素晴らしい映画だった。減点方式で評価した場合、100点とは言えないかもしれないけど、加点方式で考えると280点、そんないい映画。
 リチャード・リンクレイターの映画も二度観るタイプじゃないかと思う。というか、観るたびに印象に残る場面や、感情移入する人物が変わっていきそうな感じ。淀川長治さんが、観た本数は問題じゃなくて、何度も見返したくなるような映画にどれだけ出会えるかが大事で、そんな映画に出会うための本数を観るんだって言ってた、みたいな話をツイッターで見て、大好きな映画を見返すのってやっぱりいいよなあと思った。あこがれの話からだいぶ飛んじゃったけど。観る側の変化によって、映画の方も変わっていく。だから映画を観ることはやめたくないなと思う。今までで一番見返した映画は多分『ブルースブラザーズ』だけど、あれはいつ見ても変わらない、楽しい気分にさせてくれるから大好き。最近映画観てないからさみしい。

気分を金で買え

 好きなものや興味関心、思っていることを言語化することそれ自体が好きというか、一種の気晴らしになっているんだけど、言語化することによってそれまで抱いていた熱が自分の中でストンと落っこちてしまうというか、一段階落ち着いてしまうというか、トカトントンがやってきてしまう、という手ごたえがある。

 頭の中をうまいこと言語化できたときというのはなんだか快感だけれども、それで満足してしまうというか、言葉にできたしこの件はもういいかな、はい、次の方どうぞ、というような気分になってしまう。
 言語化することによって意識的に興味を継続させることができるようになる、という側面もあるにはあるけれど、トカトントンを引き寄せてしまうという面も持ち合わせているように思う。
 自分の気の持ち方とか日々の楽しみ方とか、出かける場所とか一日の過ごし方とか、ある程度は変わり続けていかないと風通しが悪くなって徐々に気持ちが塞いでくるけれど、気分の変え方それ自体も変え続けなければだめなのかもしれない。「これさえやっておけば大丈夫」というのは幻想か薬物でしかないのかもしれない。「リハマタワープ ロンロンパルコ センターオーバー バックバック」は大島弓子の漫画の中に出てくる、怒りを鎮めるためのおまじない。
 関係ないんだけど一時期、80年代的というか、バブルの頃の青春小説とか若者文化に興味があって色々漁っていた時期があったんだけど、80年代というのは、「気分」にお金を払う時代だったんじゃないかと思う。ある時期のコカ・コーラのキャッチコピーが”I feel coke"だったけれど、コカ・コーラの気持ちを感じるためにコカ・コーラを飲む、というか、そういった感じだったんじゃないかとふと思った。
 最近、あんまり気分をお金で買うことをしなくなって、それで代謝が悪くなっているのかもしれない。お金の使い道を限定していると、忙しい日々が続いて落ち着いた頃にふっと風邪をひくみたいに、ある日急に関心の糸が切れて退屈してしまう。まあ、きっとすぐにまた新しく何かを見つけることでしょう。次の休みには、「いい気分」を買いに行こう。
 

マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股(もも)で鳴らして /加藤治郎