アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

外に出るためのメンタルをととのえる

 

 前回、どうしたら外に出られるのかについて長々と書いたけど、今回はまたそのことについて書きたいと思います。どうして外に出たいかというと、定期的に人に会いたい、もしくは人に会えるような状態を保ちたい、とか、たまにはちゃんとしたデートらしいデートもしたいとか、今後の労働や学校のために、少なくとも週5で外に出ることを負担に思わないようになりたいとかが理由です。
 ぼくは精神状態が悪い時は本当に外に出るのがこわくなって引きこもる習性があるので、まずは精神状態を崩さずに一定に朗らかに保つということが最優先課題になります。精神状態を崩さないためには、最近わかってきたことですが、よく言われることが一番効果的です。つまりはよく食べて、適度な運動をして、しっかり眠ることです。僕の場合はそれに加えて、やらなきゃいけないことや宿題をこまめにやって時間的なゆとりを持つことと、定期的に人と話すことも必要です。時間に追われると、たちまちぼくは自分のことをウジ虫かなにかだとしか考えられなくなるし、窓から飛び降りたくなるからです。
 精神がちょっと危ないときのわかりやすい目印として、外に出るのがこわくなることのほかに、食事がとれなくなる、お風呂に入るのがめんどくさくなる、眠れなくなるなどがあります。
 食事がとれないとお腹が空いて眠れなくなるとか、体に力が入らなくて何もかも億劫になるとか、空腹にとらわれて気が散るとか、いろいろなことに悪影響を及ぼして全てが終わりになるので、どんな時でも食事はとる、ということを一番に気をつけています。そのために冷凍庫には常に小分けして冷凍したごはんとか、100円ローソンの餃子とか唐揚げを入れています。あとはシリコンスチーマーを使って電子レンジだけで簡単にできる料理のレパートリーを増やしたり、常備菜作りを研究したりして不測の事態(メンタルの不調)に備えています。そのへんは丸元淑生の『システム自炊法』などが参考になりそうです。毎日楽しく前向きに丁寧に料理に取り組めれば最高だけど、食事は毎日することで、疲れてる時もあれば気圧が低い日もあるし、たとえほとんど動けなくても何もやる気が起きなくてもとりあえず何かは食べられる、という仕組みを作っておかないとダメです。それと洗い物は普段からこまめにやっておくべきです。心がダメな時は洗い物なんてとてもとてもできません。そんな時にものを食べるためのお皿や箸がすぐに使えなかったらおしまいです。
 睡眠に関しては、寝坊して活動時間が短かったりずっと好きなことができていなかったり、何らかの不安やストレスを感じたり、次の日ちゃんと起きなきゃという強いプレッシャーがあったりすると一撃で寝られなくなってしまうので、かなり課題は多いです。あと目の前に楽しいことが多すぎて、ワクワクしすぎて寝られないこともあります。楽しみをとっておくこと、次の夜に繋ぐのもそんなに悪くないことを早くからだに叩き込みたいです。けどまあ睡眠に関しては、ちゃんと食べてちゃんと体を温めて、頭を空っぽにしてゆっくり呼吸して、それでも無理なら薬かお酒でも飲むしかない、それでも無理なら朝までアニメでも観ていろ、そんなふうに思います。一度生活リズムが狂ってしまうとどこかで無理をしないと戻らないのが本当にきついですね。寝不足だと外に出たり人に会ったりするのがつらいし、往来を走る車がかなりこわく感じたりします。人間生活が営なめません。ちなみに今も卒論のプレッシャーから昼夜逆転しかけていて不眠でこれを書いて意識を保っています。今日ちゃんと学校行けるかな…
 お風呂に関しては、ちゃんと入れとしか言いようがないですね。どうにかライフハック的なものを見つけようとしたら、こんな記事にたどり着きました。興味深いです。

(1)タモリ式入浴にする

 

しんどいけど、なんとか軽い入浴ならいける!という程度のときにおすすめなのがタモリ式。

タモリ式入浴、その名の通りタモリさんがやっているとテレビで紹介した入浴法です。その内容はというと

 

【髪・顔・脇・陰部・足だけを石鹸(シャンプー)で洗い、その他は湯船につかるだけ】

 

というものです。シャワーの場合は流すだけでOK。これだけでいくらか負担は軽減されますし、この5ヶ所がしっかり洗えていればだいぶサッパリします。

 

(2)蒸しタオルで体を拭く

 

風呂に入るのなんて絶対無理!でも外に出なければならない!そんなときは蒸しタオル。

タオルを濡らして固く絞って、電子レンジで1分チンして蒸しタオルを作りましょう。少し冷ますとちょうどいい温度になります。で、それで全身を顔から足の先まで拭きます。

 

これで体はけっこうサッパリしますし、体臭対策にもなります。ちなみに病院でもお風呂に入れない患者さんは体を拭くそうです。

「しんどいお風呂を工夫で乗り切ろう」http://menhera.jp/4036

 

 

 最後に、やらなきゃいけないことを余裕を持ってちゃんとやって時間的なゆとりを持つ、ですが、これが一番大事かもしれません。人生で一番自己嫌悪が激しくなったり死にたくなったり喉を掻き毟って叫びまくりたくなるのは間違い無く時間に追われている時です。やらなきゃいけないこと、今だったらたとえば卒論やバンドでやる曲のコピーですが、全く取りかかれないし全く進んでいません。ついつい他のことをして逃避してしまいます。ちなみに問題に直面した時に、逃避するくせがある人は、自殺するリスクがかなり高いそうです。データが言っていました。なので、しっかりと問題に取り組んで解決することができる人になることが、生存のために一番必要なことかもしれません。というかそれができれば生きる上で悩みなんてなくなるのでは、とすら思います。

 思えば、昔から宿題が全然できない子供でした。やりたくない気持ちも確かにあるのですが、やりたくてもできませんでした。ADHD的な傾向がかなりあるんだろうと思います。それは置いといて、22年間生きてきて、家で宿題が出来た試しがありません。なので、これからもできないんだろうなと思います。今までは場所を変えたり、隙間時間にチマチマやったりして、なんとか間に合わせてきました。最近は節約に凝っているので、宿題をやるためにいちいちファミレスや喫茶店に行ってちゃ大変だ、と思っていたのですが、生活に支障をきたしたり精神をぶっ壊したりすることはちっとも節約じゃありません。健全な精神状態でいるためには宿題をきっちりやることが必要で、家ではできないので場所を変えることが必要ならば、それにかかるお金は必要経費であって、節約とは区別して考えなければいけないことです。場所を変えたり、他のものに物理的に手が届かない環境を作ったり、人の目があったりしないと、まるっきり集中ができなくて、とにかく家で宿題が出来ないことはもう嫌というほどはっきりわかっています。

 本当に、生活を変えなければ宿題はできないと感じています。もっと生活にメリハリをつけたいというか、上手な時間の使い方というか、計画を立てたり見積もったり段取りをしてそれを実行する能力をつけなければこの先到底サバイブできなくてやばいです。

 やるべきことに集中できない、見通しが甘い、とりかかるのが遅い、計画的に物事を進められない、やる気が起きない、と問題は山積みですが、どうにか一つ一つ解決していきたいものです…

 今だって卒論を進めなきゃいけないのですが、こうやってブログに意味のわからない文章を書いてばかりいます。まことに、人間というのは不思議な生き物であることよ。

 

次回、「冬なのに外に出る」というタイトルで冬ならではの楽しみとかそういうことについてなるべく身近な範囲で考えていきたいと思いますが、その前に卒論をやりたいです。

どうしたら外に出れるのか

 立冬の日も過ぎて、暦の上でも体感的にもすっかり冬になり、もともと自分の中に巣食っている外に出たくない気持ちが日増しにすくすく育っているのを感じます。

 外に出たくなさすぎて学校に行けない日があったりとか、「せっかく天気がいいからお出かけしたい」と言う彼女に「外に出たくないよう」と泣きついてかなり情けない気持ちになったこととか、外に出ないせいで人間関係が希薄になりつつあることとか、いろいろなことが重なって、「外に出る」と言うことについて最近よく考える。
 将来について考えたとき、それがどのようなものであったとしても、外に出なくてもいい、ということはありえないことであって、そうなるとやっぱり外に出る、とかコミュニケーションとか、他者という技法、などなどは万人にとって永遠の課題ということになる。
 なので外に出ることについて真剣に考える。参考に、Instagramを開いて眺めてみる。人は、外に出たときや友達と集まって遊んだときしかほとんどInstagramを更新しないから、Instagramには「みんなが考える楽しいこと」や「行ってみたくなるスポット」や「外に出かける用事」が溢れかえっている。しばらく眺めてみてぼんやり思うことは、学校やバイトとかのほとんど義務みたいなものを除いて、自主的に外に出る機会というのは、買い物か、飲み食いするか、ライブとかのイベント、あるいはレジャー施設とか観光・旅行がほとんどだ。観測範囲が大学生に限られているせいもあるかもしれないけど、だいたいみんな似たようなことをしている。だいたいがお金を使って楽しむことだ。だいたいがいわゆるレジャーというものだ。
 レジャーというのはwikipediaによると「雇用経営、家事雑事、教育、食事、就寝などの拘束活動から開放されていること。生きていくために必須な活動以外のもの」のことで、要するに余暇、自由時間にすること全般で、僕がここで問題にしているのは拘束活動以外でどうやって外に出るかということなので、レジャーの内容、人々は余暇をどのように過ごしているのか、ということはたいへん重要なことだ。
 ということで、ためしに主要なレジャーについて調べてみる。

1972年の国民生活センター発行の『余暇活動における満足度調査結果報告書』では東京都23区内住民を対象にした調査として主要なレジャーを列挙している。テレビをみる、新聞を読む、家族との談話、読書をする、外食ショッピング映画観劇などをみる、一泊以上の国内旅行、友人知人と会話を楽しむ、海水浴日帰り行楽ラジオを聴く、スポーツ博物館美術館動植物園へ行く、音楽鑑賞ドライブ散歩公園で過ごす、スポーツ観戦手芸日曜大工園芸囲碁将棋麻雀カードゲーム楽器演奏絵画書道写真パチンコパチスロ茶道華道洋和裁登山ハイキングペットコンサートバーキャバレー体操美容キャッチボール資格取得のための学習地域活動釣りギャンブル社会奉仕活動海外旅行切手コイン等の収集、宗教活動。 

  色々ありすぎて手に負えない。けど色々あって面白いと思う。とりあえずみんな色々なことをしていて、おもしろい。ひとまずそういうことにしておく。今度またそれぞれ検討しよう。

 話を広げすぎるとわけが分からなくなってしまうので、ひとまず自分のことを省みてみる。僕は普段、学校へ行くか、バイトに行くか、スーパーに行くかタバコを買いに行くか、あとはたまに髪を切りに行ったり眼科に行ったり、友達の家に遊びに行ったり鳥貴族に飲みに行ったりする以外はあまり外に出ない。この前『ブレードランナー 2049』を観に映画館に行ったけど。電車に乗ってどこかに遊びに行くということをほとんどしない。

 なんでそんな体たらくなのかと自問してみると、大きく分けて二つか三つくらいの原因がある。一つ目は、外に出るとお金がかかるから。散歩とか、図書館とか、お金がかからない外出もあるにはあるけど、ついつい喫茶店に入ったり、自販機でジュースを買ったりするからなんだかんだお金は使う。別に悪いことじゃないんだけど。外でだらだらお金を使ってしまうより、そのお金で本とか買いたいと思ってしまうので、あんまり細々とした外出はしなくなる。二つ目は、自炊をしっかりやり始めたのとamazonが便利すぎること。外に出る用事の一つとして、昔の自分を振り返っても周りを見渡しても、誰かと飲み食いするということが多い。授業がある平日なんかは、実際外食くらいしか人と会うような用事が作れない。だけど一度の外食にかかるお金で(安いお店や大学の食堂を選んだとしても)、三日くらいの食費になると考えると、腰が重くなる。あともう一つ、買い物も外に出るためのかなり大きい動機だけど、僕が欲しいものは日用品とか食糧とか徒歩10分圏内で手に入るものを除けば、主に本なんだけど、読みたい本は結構絶版のものも多くて、絶版じゃないものでも町の小さな本屋さんには売っていないものが多いので、結局Amazonで買っちゃう。というかAmazonでしか買えない。飲み食いと買い物という外出のための二本の柱を失ってしまっているので、外に出る回数はめっきり減った。

 あとは単純に寒かったり天気が悪かったり、寝不足だったり精神のバランスを崩してる時は外に出たり人と話すのがこわくなる性格とか、すぐ人酔いして疲れ果ててしまうとかで、外に出たくなくなる。あとは部屋が楽しすぎる。無限に暇を潰せる。これは僕の特技といっていいかもしれない。

 だけど最初に書いたようにこのままではいけない状態になっているので、どうにか外に出る動機や意欲を増やしたい。現実的なところだと散歩とかになるんだけど、同じところに何年も住んでると散歩にも飽きてくるし、そういうことについて考えててもあんまり楽しくないのでやめる。散歩が一番手近な外出だとしたら、一番縁遠いというか、ハードルが高い外出は海外旅行だと思う。しかし海外旅行について想いを馳せてもそれはそれで現実的じゃなさすぎておもしろくないので、国内を旅行することについて考えてみたい。

 僕はあんまり旅行はしないんだけど、なぜといえば計画を立てられないというか、目的地が決められないから。僕の頭の中はかなり茫漠としていて、ところどころ抜け落ちているし、どこに何があるとか、ここは何で有名で何が美味しいとか、そういうことを一切知らない。この前、そういうことに詳しい人にどうやって詳しくなったのか聞いていたら、テレビかなあと言っていた。旅行する目的地を探すには、テレビはとてもいいのかもしれない。だけど僕にはテレビを観る習慣がほとんどないので、それ以外を考える。目的地を決めるためには、何らかのとっかかりがないといけない。そのとっかかりを、全国各地に点在している何かに定めれば、自ずと行きたいところができていくんじゃないかと思う。パワースポットでもお城でも山でも何でもいいと思うんだけど、個人的に気になるのは温泉と美術館とか記念館かなと思う。つげ義春がよく行っていたようなひなびた温泉宿を巡ってみたい気持ちもあるし、『HOSONO百景』で細野晴臣がフェイバリット硫黄系の温泉として挙げていた長野の白骨温泉も気になるし、『ひきこもらない』の中でphaが理想のサウナと言っているウェルビー栄店にも行ってみたい。プールのやつで有名な金沢21世紀美術館には一度は行ってみたいし、日本一入館料が高くて展示物は全てレプリカってことで話題になった徳島の大塚国際美術館も見てみたい。宮沢賢治の家にも行ってみたいし、小豆島で海や星を見るついでに尾崎放哉記念館にも寄りたい。あとは荒川修作が構想した岐阜県養老天命反転地にも行ってみたい。週末にでもいけるラインを攻めるとすれば、『ファイナルファイト』がバリバリ駆動しているらしい梅田のロイヤルゲームセンターにも行きたいし、シネマヴェーラ梅田で『パターソン』が観たいし、小島信夫の『別れる理由』が全巻売っているらしい古本屋にも寄りたい。あとは京都の、最寄駅から徒歩五分で一泊600円と手ごろな笠木キャンプ場でキャンプしたい。

 考えてみると結構いろいろ出てくるもので、嬉しくなった。まとまった時間は長期休みにならないととれないけど、長期休みならできることなので冬休みにでもどれか行ってみようかな。

 本当はもっと身近なことでいろいろ考えたかったんだけど、長くなってしまったのでまた次の機会にする。食事や買い物で外に出なくてお金がないなら、あとはフラッと寄れるたまり場くらいしか選択肢はないかなと思う。この人が書いている、「ニアハウス」という考え方はとてもおもしろい。

皆でだらだらと適当に過ごせる場所について(試案) - 表道具

 

最後に、外に出ることについて最近読んでおもしろかった文章をペタペタ貼って終わりにします。

 

後藤 「今までの坂口さんの著作では“家はいらない” 、“家を所有することでしばられてしまう” というような記述があったと思うんですが、実際、この場所で生活を営んだり、逃げてきた人を助けたりするに際して、家のような場所が必要なんだと思い直されたというところが、とても面白いと思っていて」

坂口 「家っていうよりも、僕は“プライベートパブリックだ”って言っているんです。公共施設とか公共機関って僕は信用できなくて。(中略)僕は“家が必要ない”って言っていたわけじゃなくて、何故あのおじさん達の家(※1)が小さくて安いもので済んだかって言う話をしてきていたわけです」

後藤 「なるほど」

坂口 「それは何故かといえば、町自体を家の一部として利用していたんだと。僕達はプライベートな持ち物を購入し、ここは壁でおおって見せないようにして、公共の道を歩きながら買い物をして暮らしている。でも、そういう家じゃなくて、隅田川の鈴木さんの家(※1)は小さくて、一間(いっけん)くらいなわけです。でも、彼にとっては街の図書館が自分の書庫、公園のトイレがプライベートなトイレ。お店から捨てられるものを少しずつ採集して、ガソリンスタンドからは電源をもらって利用する。そうすると、彼が実践していたのは“家がいらない”んじゃなくて、“ここもあそこもわたしの家である”ってことなんじゃないかと。そして、そういうのを僕達が見ていると、“ここは私の空間である”という考え方が少しだけ揺らいでくるんじゃないかなと」

後藤 「面白いですね」

坂口 「従来の考え方だと“大きな家を建てる”という方向に言ってしまうところを、家自体はすごく小さくてよくて、近所にすごくいいレストランがあればそこが自分のキッチンみたいな…。そういうふうに捉えはじめたら、レストランも“これいくらで出すよ”とかっていう、単なる売るためのものじゃなくなるかもしれない。もうちょっとお客さんと提供する側との人間同士の関係になるっていうか。ここでコーヒーを飲むとおいしいとか、もう少しその人のリビングに近づけるような。なんとなくこういうのは理想的すぎて飛躍した話だと思っていたんだけど、鈴木さんは既にそれをやっていた。だからびっくりしたんです。鈴木さんは僕のレイヤーで言えば “超豪邸に住んでいる”って僕は言っていたんですよ。しかも、彼らは“所有”をしている」

後藤 「はい」

 

坂口 「“所有”っていう概念を僕は消したいわけじゃなくて、“あそこの場所は俺のもの”って思っている限り、それは“所有している”ことになるということ。でも、その“所有”は奪われたときに“まあしょうがねえか”って思えるものなはずなんですよ。だって、その場所に対して、なんらかの契約をしているわけじゃないから。アルミ缶だって“このおばちゃんからもらう”って鈴木さんは決めていて、ある意味では所有しているんだけど、彼より早い時間に他の人が来てしまって奪われてしまうこともあるわけです。そういうときに“あ、失敗したな”っていう感じがある。僕はそれを見たあたりから“所有”って言葉を使うようになってきたんですね」

http://www.thefuturetimes.jp/archive/no02/0center2/

 

坂口 「寝ているときは中でいいけど、だいたいは外に出ようと。路上生活者の生活を見ていても、“外にでようよ”というのはひとつのテーマなんですね。外に出なきゃいけない。都市っていうのは、人が外に出て動きまわることによって動く。でも今、みんなすぐに中に戻って行っちゃうので、だから日本の町が面白くないんだなと。アフリカの町がなんで面白いかっていうと、人がずっと外に出ているんですよ。そうすると、人が表に出ている分だけ町っていうのはほつれていきますから。今の日本ではなかなか見えにくくなっているけれど、でもあるんですよ、日本にもね。これまでも僕は、そういうものだけを日本の中で見つけ出してきたつもりですけど。ここは、そういうものを伝えるための起動装置にしたいと思ってる」

http://www.thefuturetimes.jp/archive/no02/0center2/ 

 

生活のどこまでを家の中で済ませてどこからを家の外にアウトソーシングするかというのに絶対的な基準はなくて、ライフスタイルや文化によっていくらでも変わるものだ。日本は数十年前にサラリーマンと専業主婦の組み合わせという家族スタイルが一世を風靡したせいか、家事に要求する水準が高い上に、できるだけ外注せずに家の中でなんとかするべしという傾向が強い気がする。
 タイのバンコクでしばらく暮らしていたことがあるのだけど、そのとき一番驚いたのは「タイ人はほとんど家で自炊をしない」ということだ。なぜかというと屋台やレストランなど外にあるご飯屋さんが安くて美味しくて店の種類もいろいろあるので、自炊するよりも外で食べたり外で買ってきて食べたりする方がリーズナブルだからだ。家で料理をするのは外で食事を買うお金もない貧乏な人か、豪華なキッチンで趣味として料理をするお金持ちのどちらかだ、というくらいの感じだった。
 それまで人間は世界中どこでもみんな家で料理を作るのが普通だと思っていたのだけど、そうじゃない場合もあるんだというのをそのときに知った。僕が知らないだけで、世界には他にも「日本では家でするのが当たり前だと思っていることを外でする文化」や「日本では家の外でするのが普通なことを全部家の中でやる文化」などがあるのかもしれない。例えば、みんな家で洗濯しないので洗濯屋がたくさんある文化とか、みんな自宅で髪を切るので散髪屋が全くない文化とか。
  pha『ひきこもらない』「街を家として使ってみる」

 

「国境なきナベ団」という活動をやっている人たちがいて、何をするかというと駅前や公園などで突発的に鍋を始めて、興味を示した通りがかりの人たちなんかも巻き込みながら鍋を囲む、というものらしい。そういうのはよいなと思うんだけど、警察を呼ばれて「撤去しなさい」という警官とのこぜり合いになることもあるらしい。鍋くらい別にいいじゃないかと思うんだけど。
 もうちょっと穏当なものとしては、インターネット界隈で行なわれている、公園でブルーシートを敷いてお菓子やお茶を持ち寄ってだらだらするという「ブルーシートオフ」とか、ファミレスやカフェでもくもくと本を読んだり作業をしたりする「もくもく会」とか、そういった集まりがあった。僕はきっちりとしたイベントは苦手なのだけど、そういう行っても行かなくてもいいような集まりは好きだ。なんかそういう小さな集まりや小さな居場所が、街なかにもっとたくさん生まれればいいなと思う。

pha「街なかに居場所がもっとあればいい」

 

「外に出る」ということは、とても大事なことだ。いまは、インターネットがまだもの珍しいせいで、「あなたは、お部屋で、いながらにして」というようなご親切なセールストークばかりが流れてくる。しかしさぁ、これって極端なかたちで言えば、「幽閉」「監禁」「座敷牢」じゃないのか?だって、「自由」ってことがあるのはちがうけれど、やってることは、同じになってると思うんだよね。なんでもかんでも、メディアの端末から流れてきて、なんでもかんでも、その端末で返していく。これがインタラクティブの理想か?これが、便利で未来的な豊かさか?自分自身も、外に出る機会がとても少なくなってるけど、それをいいことだとは思えないぜ。「ほぼ日」も、インターネットメディアだけれど、これを読んでいると人に会いたくなったり、外に出かけたくなったり、現実の景色を見たくなったり、そういうインターネットにしたいなぁ。毎日熱心に読んでくれる人がいるのは、むろんうれしいんだけど、これさえあれば、なんてことあるわけないし、とにかく外に出たくなるような、いきいきしたリアルな世界を想像させるようなメディアに、どうやったらできるか、一生懸命に考えていきます。
—  糸井重里邱永漢『お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ』

 

言論の自由の考えの基盤には, 真実か虚偽かは一人の人間が決定できることでは なく,開かれた場でできるだけ様々な考えが提示 されることを通じて,最終的に社会が真実に接す ることができる可能性が高くなるというミルトン の考え方がある
—  平井正三「自由連想あるいは言論の自由について」

 

フィクションがウソくさくてたまらぬ、というのは、文学的思考から生じるウソくささではないでしょうか。一種のこもったようなものでしょう。どんな人間にも、内部の、こもった部分はあるにしても、それをもとにしたもの、いわゆる文学的なものは、ゴメン、ということもあり、ウソくさくも思える、というのでしょう。もし文学的思考によるものが、沢山だというだけではなくウソくさく思われるとしたら、そして、それがフィクションがウソくさいということへとつながって行くのだとしたら、それはとても面白いことですね。
—  小島信夫保坂和志『小説修業』

 

 

ところで、何も考えなくても何も行動することができなくても、人間は生きている。目に何かが見え、耳に何かが聞こえ、肌が何かを感じているだけで、人間は生きている。考えるということは、五官が世界を感知していることを起源として進化したことなのだから、考えるということは、内=<私>に向かわせるのではなくて、外=世界に向かわせるべきものだ。何よりも奇跡的なことは、私の自我があることなのではなくて、「私のこの肉体がある」ということで、それ以上の奇跡はない。この肉体があるから、私は世界を感じることができているのだ。
 ーーと、まあ、一年分の連載を要約すると、どうしても宗教家の言葉のようないかがわしいものになってしまうので、これに補足的な説明を加えますと、連載の中では<人間>と<言語というシステム>との関係についての考察がかなりの量を占めているのです。どうしてそういうことになったのかというと、「言葉があってはじめて人間になる」という人間観のせいで、人間を考えるときに言語が強調されすぎて、「ただ私がここにいる」ことが見失われてしまったからです。
 「私はただここにいる。それでじゅうぶんじゃないか」
 という人間観は、思えば私がデビュー作の『プレーンソング』以来、ずうっとこだわってきたことでした。
—  小島信夫保坂和志『小説修業』 

 

 …今回はいつもと比べてかなり長くなった。あと最近衣食住と、ラブとジョブについてよく考えているので、近々書くと思います。誰かに向かって書くというよりも、自分に言い聞かせる感じで。

寒いとカサカサした気分になる

寒い季節の日暮れ時、手も足もすぐ冷たくなって、食器洗うのが億劫になって、顔や唇がカサカサして、暗くなるのが早い。外も暗くなるのが早いし、僕も暗くなるのが早い。
針葉樹林が見たくなっている。針葉樹林なんて、見たことあったかしら。多分あるんだろうけど、いままで意識したことなんてないから覚えてない。カサカサしてて、じっと息を潜めてるような生命力のある木をたくさん見たい。小さい頃、リスが冬眠のために作る巣の図解を見るのが好きだった。枯葉をたくさん集めて穴の中に敷き詰めて、そこにどんぐりを蓄えたりくるまって寝たりするらしくて、それがなんだかとても良いことに思えた。
Twitterでフォローしてる漢方屋さんのアカウントが、冬は蓄える季節で、あまり活動的に動かずじっくりしていましょうみたいなこと書いていた。そんなものかと思った。冬でも活動的でたのしそうな人はたくさんいるけど、彼らは命を削ってはしゃいでいるのだろうか。
デビュー当時のハイロウズがテレビでしゃべってる映像を見たことがあって、インタビュアーに最近のマイブームを聞かれたときに、メンバーみんなで鍋をする。水炊き。って答えてて、なぜかそれをすごく眩しく思った。そのことを最近ふと思い出した。
最近、スーパーに行くたびに大根を買おうか迷う。大根おろしは好きだけど、大根ってあんまり好きじゃない。それなのに一本買って使いきれるかなとか、考える。考えるのはめんどくさいからやめて買わないことにする。もし買ったとして、ぱっと思いつく使い道はふた通りある。小松菜と油揚げと一緒に煮浸しにするか、大根おろしにしてご飯と一緒に食べたりサンマを焼いたりする。適当に鍋に入れても様になりそうだ。いざ買ったら使いそうな気もしてくるけど、やっぱり買わない。あんまり好きじゃないから。だけど時々食べたくなる。あんまり好きじゃないのに。
今期の大学の授業で、仏教美術の講義をとっていて、如来がトップで次は菩薩とか、如来になると体の32箇所が変化して、それぞれすべて現生との繋がりがないことを示すとか、菩薩の方が着ている服がゴージャスで運動感があるとか、いろいろな話を聞いてるうちに、仏像見るのもたのしそうだなと思い始めた。寒い季節にお出かけする理由として、仏像を見にいくっていうのは案外しっくりくるような気がした。如意輪観音弥勒菩薩がかっこよくて、見に行きたい。
寒い日も雨の日も、元気をなくさずに外に出るのが好きな感じになりたいから、寒い日や雨の日ならではの楽しみを探してる。今のところあんまり見つかってない。寺行こうかなってだけ。

ちなみにこれがぼくの推してる如意輪観音です。f:id:komo198198:20171024180645j:image

料理や栄養に関するおすすめ本

 自分にとって必要なものってなんだろうって、折に触れて考える。時間がたくさん余っている時は、もっとお金があったらなあと思うし、お金があっても時間がない時には、もっと時間をくれと思う。お金があんまりないから家で本読んだり映画観たり、ファミレスで誰かの家で友達としゃべったりしている時間と、忙しい合間にお金を使って外食をしたりコンビニでお菓子を買ったりなんかしてどうにか紛らわしている時とを比べると、どうしても前者の方が好きだと思ってしまう。でもこれは今稼げるお金がたかが知れていて、その分お金を使った楽しみがショボくなっているからそう感じるのかもしれない。忙しい合間にお金を使ってドライブしたり旅行に出かけたり、高いコンサートに行ったりなんかすごいもの食べたりふやけるようなマッサージを受けたりするようになったら、そっちのほうがいいと思うのかもしれない。思わないような気もするけど。

 ぼくはよく本を読む。部屋を見渡せばいろいろな本が積み重なっている。ぼくが本を読むのは、知りたいことがあるからとか、単純に暇だからとか、いろいろ理由はあるけど、今日とか明日をより楽しく、よりよくしたいという気持ちがあるからで、そういう意味でいうと意外と意識が高いと思う。いま、いくつかある興味関心の対象に関する本をいくつかちびちび読んでいるのだけど、料理とか栄養の本を読んでいて、面白いものが幾つかあった。

 一番面白かったのは、山崎寿人の『年収100万円の豊かな節約生活術』っていう本で、この本のいいところは、できる限り切り詰めて限界まで節約するっていうんじゃなくて、限られた予算の中で最大限に豊かで楽しい生活をする、っていうスタンスで描かれていること。節約術と言ってもほぼほぼ料理の話に終始しているのだけど、節約って結局料理に尽きると思う。この本はとにかくおいしいものを作る、ってことで一貫していて、そのために初期投資(調理器具や設備、各種調味料を買う)は惜しまないのがめずらしくて面白かった。あと、川上善郎の『おしゃべりで世界が変わる』って本に書いてあったんだけど、東京社会情報研究所が実施している情報行動センサス調査によると、人が誰かとおしゃべりをする時って仕事や学校の時か、飲食時が一番多くて、だから毎日家で自炊して一人で食べてると節約にはなるけど人と遊ぶ機会が減ってしまうのがネックなんだけど、山崎さんは日頃の料理研究の成果の発表会と称して、定期的にホームパーティを開催するらしくて、人に振る舞える程の料理が作れるってことが羨ましくなった。

 僕は昔からあんまり食に関心がなくて、いま料理について色々調べたり実践してみたりしているのも、単純に栄養はちゃんと取ったほうが調子がいいとか、食費をうまく管理できるようになって、自分にかかるお金が少なく済めば、それだけ必要なお金も減って生きやすくなるはずという生存戦略的な意味合いが大きくて、わりとズボラな和食ばっかり作ってるけど、おいしい料理を作れるようになったらそれはそれでいいこともありそうだなと思いました。

 あと魚柄仁之助『ひと月9000円の快適食生活』もすごい。ここまでくると真似しようとはとても思えないけど、料理の段取りとか、食材の保存方法、余った部位の有効利用法とか、部分的には参考になることもたくさん書いてある。

 あと役立ってるのが栄養関係の本で、『からだにおいしい キッチン栄養学』と、『疲れやすい人の食事には何が足りないのか』が面白かった。『キッチン栄養学』の方は、かぜ、ストレス、不眠、冷え性、肌荒れとか、たくさんのだるい症状に効く食材とかそれを使ったレシピがそれぞれ書いてあって、なんかだるいな、とかちょっと風邪気味だな、寝つきが悪いな、という時に対応するページをひらいて書いてあるものを作ってみたりする。『疲れやすい〜』の方は、疲れやすいとき、疲れがとれないとき、精神的な疲労、肉体的な疲労それぞれに効果的な栄養や、それが多く含まれる食材、より効果的な組み合わせなどが書かれていて、情報の羅列ではなくトピックごとに分かれていて身近な例なども豊富で読みやすい。あと、自炊するときに結構厄介なのが献立を考えることで、毎日毎日1日3回食べたいものがポンポン浮かんでくるわけもなくて、何を食べるかとか何を作るかというのを考えるのはかなりめんどくさいし労力がかかる。そこで、こういうときはこれを食べると良い、という知識があると、食べたいものをひねり出す以外の献立を考える引き出しが増えるのでとても便利だ。ちょっとのど痛いから、ビタミンAのある人参を使ったやつをなにか作ろうとか、筋肉痛だからクエン酸が含まれる酸っぱいもの食べようとか。

 今年に入ってから始めたことに筋トレと自炊があるんだけど、どちらもやってよかったと思ってる。お金の使い方もかなりマシになったし、ちゃんとご飯を食べて適度な運動をしていたらずっと悩まされていた低気圧も、少しぐらいなら乗り切れるようになったし、寝られなくなることが以前より少なくなったように思う。寝られなくなる時はストレスが原因のときが多いので、それはそれでどうにかしていかないといけないと思ってる。

 あと最近はいわゆるマイルドヤンキーとかファスト風土とか言われている郊外文化、ショッピングモールやレジャーについて気になっていて、いろいろ読んでる。熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』と、Wikipediaの「レジャー」の項目が面白かった。あと書名から気になっているのが、『なぜ人はショッピングモールが大好きなのか』って本。なんでだろう。僕はあんまりショッピングモールは行かないので、気になる。

 あと今期はうまるちゃんRとブレンドSとアニメガタリズを観ています。結構豊作だと思います。宝石の国も評判が良いので気になる。

しりあがり寿とリアルと死

 最近、しりあがり寿の漫画を読むのにはまっている。そもそものきっかけは、『真夜中の弥次さん喜多さん』(全2巻)をブックオフ的なお店で安く買って読んでとても良かったからだ。みんな名前は知っているけど読んだことある人はほとんどいないことで有名な十返舎一九東海道中膝栗毛』を下敷きにしたもので、と言っても弥次さんと喜多さんの二人が主人公で、江戸から出発してお伊勢さんを目指すという点が同じというだけで、弥次さんと喜多さんはゲイカップルだし、喜多さんはヤク中で目を離すとすぐにクスリをキメてブッ飛んでしまう。そんな喜多さんが麻薬をやめるために、二人でお伊勢さんを目指すというあらすじ。その道中で彼らは夢か現かわからない、様々な妙な場面に出くわす。虚実の境界が曖昧になり、時には主体と客体が混ざり合い、あの世とこの世を行き来して、時間の感覚もぼやけて、何がリアルで、何がリアルでないのかがはっきりしない、なんともトリッピーなお伊勢参りがつづく。大げさに言えば、生と死や、善と悪、夢と現、その他あらゆる二項対立をごた混ぜにした、リアルを巡る旅の漫画だ。90年代にサブカル系の社会学者たちが盛んに論じていた、「終わりなき日常」だとか「いったいリアルはどこにあるのか」と言った問題に関する文脈で語ることもできるかもしれない(宮台真司『終わりなき日常を生きろ』、中沢新一『リアルであること』など)。たびたび顔を出す悪夢のような、生よりもむしろ生々しい手触りを感じさせる幻の描写は、ひょっとしたら現実よりもはるかにリアルだ。「リアルよりリアリティ」と14才という曲の中でハイロウズが歌っていたけど、リアルとリアリティは別物なんだと思う。現実にいつもリアリティがあるとは限らない。真夜中の弥次さん喜多さんの一巻、「保土ヶ谷之宿」の章で、真夜中のベイブリッジで喜多さんが「すげえリアルだ すげえリアルだ」「う〜〜リアルだ……」とか言いながら冷たい鉄の柱をよじ登っているうちにアメリカのヤクの密売人と日本人との抗争に巻き込まれて落っこちて、ふと気づくと保土ヶ谷の茶店で団子を食べている、というシーンがあって、往来の人々がまるで意味のないやりとりを交わし合ってニコニコしているのを眺めながら「へへ なんだかちっともリアルじゃねえ…」とつぶやいて終わるのがすごく好き。たまにそういう風に、目の前の出来事がハリボテみたいによそよそしく感じることが確かにある。

 そんなこんなで『真夜中の弥次さん喜多さん』にどっぷりハマり、その続編である『弥次喜多 in DEEP』、99年から00年にかけてQuick Japanで連載された『方舟』、割と初期の作品集『夜明ケ』、ピンクの帯に白抜きの丸っこい文字で「でも人はいつか死ぬんですよ」と書いてある『オーイ♡メメントモリ』などを買ってみた。

 『弥次喜多 in DEEP』はより深化していて、全部で8巻あるんだけど、ディープなのであまり一気に読み進められず、1日1,2章ずつくらいちまちま読み進めてる。『方舟』はいかにも世紀末らしいテーマだけど設定がユニークで、ある日降り始めた雨がそのまま止まずに世界が終わる話で、隕石とかミサイルとか宇宙人とかと違ってはっきりとした敵もいないし、明確な盛り上がりどころというか節目もなく、ただじわじわと、静かに、淡々と終わりに向かっていく様はある種の静謐さというか、滅びの美学みたいなものを感じさせる。働き盛りのサラリーマンとか、うぶな高校生カップルとか、自分勝手なバンドマンとか、コメディアンや流行りのモデルとか、様々な人が出てきて、人によって自暴自棄になったり、昔のアルバムをひたすら見返したり、故郷に帰ったり、恋人と駆け落ちしたり、希望を捨てずに前向きに過ごそうとしたり、やまない雨の受け取り方やリアクションがみんな違って、読んでいるうちに、もしも世界が終わるとしたら、自分はどうするんだろうなんて小・中学生みたいなことを改めて考えてみたりした。それでふと思ったのが、「人はいつか死ぬ」ということはとても怖いけど、その怖さは「死ぬ」ということよりもむしろ「いつか」の部分にあるのではないかと思う。死を紛らわすためにこれまでずっと一役買ってきたのが宗教であって、その拠り所をすっかり失くした僕たちが持ちうる死生観というのは結局のところ、身も蓋もない言い方をすれば「あきらめる」以外にありえないのではないかと思う。ある日死神が目の前にあらわれてあんた来月死ぬよと告げられたら、泣いたりわめいたり暴れたり後悔したり恨んだりやたらお金を使ったりはするかもしれないけど、結局はあきらめて残りの日々を目一杯エンジョイする方向に落ち着くと思う。だから死ぬということに対しては怖いというよりもどうしようもないが先にくる。それよりもいつ死ぬかわからない、ということのほうがよっぽど怖い。余命一年のつもりで暮らしていたのに40年以上生きてしまったら悲惨だ。その逆もまた悲惨だ。まっとうに生きることはおそろしい。しかし、どうせ明日死ぬかもと思って、なにも頑張らないで過ごすことは、やはりそれはどうしようもない体たらくというほかはない。まっとうに生きるには、ある程度の見て見ぬ振りというか、先送り的な態度が不可欠ではないかと思います。資本主義って、そういうとこあるよね。とにかく、しりあがり寿の漫画は、等身大の哲学がちりばめられていて、とても面白いです。

たのしみを見つけたい

 川上弘美の小説、短編集の『溺レる』と『ざらざら』を読んで、とてもいいと思った。登場人物が酒を飲んでたらたらとしたり、大した用事も目的もなく夜を歩いたりしながら、何気ない会話やしぐさの中で、切なくなったりツボに入ったり、ときめいたり遠い気持ちになったりする話が多いんだけど、読んでいて飽きないし、気持ちの中にするりと染み込んできて、読みやすい。現実の生活の味わい方の、新しい切り口をさらりと広げてくれるように感じる。

 いわゆる文学って、その機能を考えると本当に色々あると思うんだけど、一つには時代の美意識を作るっていうのがあって、大仰な言葉で言えば人生観、みたいなものを醸し出すのが文学の一つの役割だと思ってるんだけど、川上弘美の小説はその点すごくよかったです。そういえば一時期、柴崎友香の小説みたいな生き方をしたいと強く思っていたことを今思い出しました。いろんなところに出かけて、いろんなものを見たりいろんな人に会ったりして、いろいろなことを感じたり考えたり話したりする、そんな暮らしぶりに憧れた。柴崎友香の小説では見ること、感じること、話すことの描かれ方がすごく魅力的で、独特の広がりがあって、本当に良い小説家だと思う。

 次々と楽しみを見つけてくるような人を尊敬する。食べたいものとか、行きたい場所とか、したい遊びとか、どこから見つけてくるのかそういうのが絶えない人がいる。僕は放っておくと同じことばかりを繰り返す。食べるものは食べたいものというよりも冷蔵庫の中にあるものだったり、スーパーで安く買えるものだったりして、結局同じものばかり食べている気がする。食べたいものを増やさないから、レパートリーがなかなか増えない。たまに出かけたいと思うときも、普段同じようなところにしか行かないから、行きたい場所も何も知らなくて、どこに出かければいいのか見当もつかない。だから友達に誘われたりしてどこかに行って、いざそういうことになるととても楽しくて、出かけるのが嫌いなわけじゃないと気付き、楽しみを見つけられる人はすごいと思う。今ふと思ったけど今までに何度もこういうこと書いている気がする。こわい。

 おしゃれなカフェとか、イベント情報とかたまに見るには見るんだけど、どれもなんだかよそよそしく見えて、あんまり行く気にならない。お酒が美味しいお店とか、星がよく見える場所とか、いろいろ詳しくなりたいと思いはするけど、なかなかならない。そんな思いを胸にポパイの京都特集をパラパラめくってみると、案外行ったことのあるお店が多くて、そして知らないお店はなんとなくとっかかりがない。友達とぶらぶらしている時には変なお店にヒョイっと入ったりもするので、やはりどこに行くかとか何をしにいくかというより、誰と行くかみたいな話になるのかもしれない。

 もともと一人で完結する趣味ばかり持っているので、趣味に関してはどこかに出かけたり、誰かを誘ったりする必要性が全くなくて、それがよくないように思う。今の趣味を誰かやどこかと結びつけて楽しめるように手を加えるか、まるっきり新しい趣味を始めてみたいと思ってる。どこかに出かけたり、誰かと会う必要がある趣味を見つけたい。ぱっと思いつくのはカメラかアウトドアだけど、たぶんカメラは向いてなくて、どちらにしろ初期投資が結構必要なので踏ん切りはついてない。もうすぐ冬で、冬はキャンプができないからなあ。

そういえば、サークルの夏合宿で、のんべんだらりとボードゲームで遊ぶのは楽しかった。地元の友達とキャンピングカーを借りて海に焚き火をしに行った時も、お楽しみの一つとして一人一個ボードゲームを買って行って遊んで、それも楽しかった。

いま行きたいところを考えてみると、服を買いに行きたいのと、梅田にあるロイヤルゲームセンターってところにファイナルファイトをやりに行きたい。あとこの前みなみ会館のオールナイト上映に行ったら凄く特別感があって楽しかったからまた行きたい。逃現郷で火曜日にやってるらしい映画の上映会にも行ってみたいし、なんかの読書会にも参加してみたい。こうしてみると案外欲まみれなのでよかった。欲望があった方が、毎日たのしいので。

反省文

最近、まとまった文章を書くことができなくなっている。論理立てて考えたり、それを筋道立てて記述することができにくくなっている。もともと、数学の証明問題を答えだけ書いて提出して0点をもらったりしていたから、そういう気が昔から自分にはあったのだろうけど、保坂和志の本を読むようになって、彼の粘り強い文体に触発されて、自分の頭の中を一本調子で垂れ流す術を身につけたんだけど、また書けなくなってきている。

考えられる原因は幾つかあって、集中力とか構成力とか、そういったものが衰えているのをひしひしと感じる。なんだかいつでも気が散っていて、まともに考え事を考えることがめっきり減った。なんで気が散っているかというと、たぶんスマートフォンのせいだ。音楽を聴くのも、インターネットを見るのも、誰かと連絡を取るのも、家計簿をつけるのも、映画や本の感想を書くのも、目覚まし時計も、全部スマートフォンでやっている。そうすると日常生活の中で、買い物をした時や、ふと調べ物をしたくなった時、スマートフォンを開くようになって、ついつい別のものをいじったりしてしまう。それまでやっていたことが中断されて、なんてことのないゲームをぽちぽちいじってるうちに30分ぐらい経ってしまったりする。あと、twitterでは一度のつぶやきに140文字の文字制限があって、それに慣れ親しんでいるうちに、自分の考え事を140以内に収めるクセが徐々についてきている気がする。twitterに限らず、本の感想を書くためのアプリで、読書メーターというのがあって、それにも文字制限があって、それがタチが悪くて、制限の文字数を超えると、投稿した時に超過した分の文章が丸ごと消えてしまう仕様で、それで書いた長い感想がごっそり消えることが度々あって、本の感想は一言二言で済ます習慣がついた。これはやっぱりよくなかったと思う。長い文章を書ける時は、長い文章を書いた方がいいと思う。そうしなかったら考えが矮小化していく。長く長く、飽きもせずこだわり続けることでようやく見えてきたり分かってきたりすることもあるわけで、すっきりとまとまって切れ味がいいものばかりがいいとは限らない。というかある程度の文章量を費やさないと伝えることができない事柄というのはたくさんある。YouTubeで気に入った曲だけを聴くよりもアルバムを買ってアルバム通して聴くほうがしっくりくるようなもので、要は、でっかく行こうぜという話です。とりあえず反省して、これはパソコンで書いています。