したいことリスト
八月も終わって、センチメンタルな気分になってしまいます。九月も、上を向いて歩きましょう。ということで、したいことリスト、考えてみました。100個を目指したけど、とりあえずは6個で終わりました。なんだか、現実的な数字ですね。
したいことリスト
1.満天の星空の下で野宿。冷たく光る星を見上げながら、毛布にくるまってカップヌードルをすすりたい。
2.車の免許を取る。もっと言えばバイクに乗りたい。天気がいいからって理由だけで知らない町までひとっ走りしたい。車なら、好きな音楽を聴きながら。ドライブインシアターがいまでも残ってたら良かったのに。『アウトサイダー』で観てから、ずっと憧れている。
3.おいしい紅茶を淹れられるようになりたい。お茶っていうのは美しい時間のことなのよって吉野朔実の漫画で読んだんだけど、スコーンかパウンドケーキでも焼いて丁寧に紅茶を淹れて心安らぐひと時を過ごしたい。家にはティーセットもオーブンもないし、舌がバカなので紅茶の良し悪しもわからない。
4.漫画を読みたい、映画が観たい。
読みたい漫画、観たい映画がまだまだ山のように、本当に山ほどある。それって幸せなことかもしれないとふと思う。岩館真理子と吉野朔実がいま気になっている人。『えんじぇる』と『瞳子』を読んでうっとり。特に『えんじぇる』は、女の子の不機嫌をいじらしく、不可思議に、激しく繊細に描いていてグッときます。
5.セガサターンかスーパーファミコンが欲しい。
欲しい。なんせ今ならすっかりソフトが安い。あとセガサターンくらいの時代のドット絵の美少女が好き。ギャルゲーやりたい。スーパーファミコンは、対戦したい。パネルでポンとかで。
6.体力をつける。
体力の無さを実感することが多い。気圧が下がれば寝込むし、階段を駆け上がると偏頭痛がする。偏見だけどテンション高い人って体力有り余ってるだけだと思う。ぼくもテンション上げたいので体力ほしい。
欲望は明日へのエネルギー、大事にしていきましょう。無気力が一番きついので、もしもハートに火がついたら、絶やさないように定期的に燃料を補給するべきだと思います。
疲れがたまって、変なこだわり
疲れがたまって、しばらくは使わないものを無理やり押入れに詰め込むように、心の片隅にしまいこんでいた変なこだわりが頭をもたげてきています。ぼくは本を読むのが好きなのですが、最近は実用書めいたものや軽い読み物、ネットライターが書いたまとめ記事やライフハック、ツイッターで流れてくる文字列などを読むことが多かったので、なにかがパンクした又はほつれてしまったのかもしれません。
誰かに興味を持ったり、何かに熱中して追求したり、フィクションにのめり込んだりすることが、こんなにも体力が必要で難しいことだったなんて、今までわかりませんでした。今まではごく自然にそれをやってのけていました。誰にも負けないくらいの熱量で。最近は、なんだか疲れてしまった。カロリーが足りていないのかもしれません。カロリーは熱量。あるいは、お金や時間が足りていないのかもしれませんが、そうだとしてもどうしようもないのでここらで切り上げたいと思います。
なんだか、最近はちっとも言葉にできていないと感じます。何を、かもわかりません。何も痛くないし、何も考えていないかもしれません。だけどチリっとした違和感をいつからか抱えているような気がします。不安と言い換えてもいいかもしれません。さみしくないのが、さみしいというか。何を言葉にできていないのか。当面の日々を動機づけるなにか、身につけたい習慣、勉強したいこと、欲しいもの、そういったものかもしれません。全然違うような気もします。いたずらに言葉にしてしまうことや、誰かに話しかけることが、無性に恥ずかしく思ってしまうことが多くなりました。見え見えの感傷や、子供じみたわがままを吐き出すことは、あまりにも、無防備すぎるんじゃないかと身が固くなります。そんな22歳の夏休みです。声をあげて騒ぐ楽しさよりも、さらりとした穏やかさの方が好ましく思うようになってきています。身体が疲れて、ただの気分かもしれませんが。楽しいことはいいことだとは思っています。
自分の中での語彙力の低下、感受性の磨耗、日本語の乱れ、そのようなものを感じています。安易にわかりやすい方向へ流され過ぎたというか、迂闊に言葉を選び過ぎたというか、言葉を探すことに時間や労力を費やすことが以前に比べてごっそりと減ったと自覚しましたので、便利な言葉や、流行り言葉に流されていてはいけないと思い直しています。横文字とか、学術用語などの便利な言葉は汎用性が高くて、カバーできる範囲が広くて、人にも伝わりやすいような気がするけど、そういう言葉ばかりを使っていると、身ぐるみを剥がされているような思いがします。そういう言葉は人に伝わりやすくて、つまり受け取ったときにわかったような気になりやすくて、だから意見を言うときや情報をまとめるときなんかはいいと思うんだけど、はっきりとした言いたいことがあるわけではない場合、ぼんやりとしたムードや気分なんかを手渡したいときに、うっかりそういったものを使ってしまうと、伝えたかったはずの生のニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまいます。ニュアンスというのも横文字で、本当は手ざわりとか匂いとか、そういった意味のことを言いたいんだけど、このような言い換えに意味はあるのでしょうか。こんな問いかけが、本当にしたいわけではなくて、兎にも角にもいまは眠れる気がしません。頭の中で文章が浮かんでは流れて散り散りになって、それを捕まえようとカタカタとキーボードを打つイメージが出来上がって、その音がうるさくて眠れなくなることが以前はよくありました。今もそんな感じで、苦々しくもなつかしくてうれしい心地がします。いつまでもこんなふうに、しているわけにはいかないのですが。たまには、いいでしょう。よくないとは思いつつ、嫌いではないのです。書き言葉に対する、変なこだわりです。その中身は、よくわかりません。なぜだか、鈍感が、ゆるせない。
ラストワルツの思い出
ニール・ヤングといえば思い出すのはジム・ジャームッシュの『デッドマン』の劇伴の即興演奏で、これがどんな意味も寄せ付けないようなザラザラと荒涼とした音色や無骨なメロディーがすごく良くて、彼岸からかき鳴らされている音楽といった趣があって、この映画のスピリチュアルな雰囲気とめちゃめちゃ合っていてすごく良かった。ちなみに『デッドマン』は1995年の映画で、今となってはめずらしいすっぴんのジョニーデップがたっぷり見られます。この映画は18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクと深い関連があるらしいんだけど、僕にはウィリアム・ブレイクは難しくて詳しくもないのでその辺はよくわかりませんが、彼岸と此岸の間を漂う静かでスピリチュアルなロードムービーとして楽しく鑑賞できました。
健全イコールつまらない、か?
最近、鵜呑みにすることの大切さについて考えている。とりあえず一旦は、よくわからないままに鵜呑みにすることなしには、なにかをわかるということはありえないのではないか。一度は飲み込んでみて、よく咀嚼して、身体化してみて、そこまでして初めて、変わるということも可能になるのではないか。わかるようになること、変わること、とりあえずやってみること、それが今の興味関心の一部分。
マーク・ザッカーバーグがボクたちに提示したのは「あの人は今」だ。ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、僕にはとても頑丈な幸せに映って眩しかった。燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』
二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい
現実的な関係性を離れて、ひとりひとりとしてとりとめのない話がしたいと思うときがある。それは個人的な話でも、そうでなくてもいい。深夜に二人で、ぽつりぽつりと話をしながら、長い長い散歩がしたい。そんなことを考えていたら、思い出したことがいくつかある。
真夜中のひとりごと
感情や気持ちというのは、複雑なもので、複雑というのは、原因-結果と単純に割り切ることができないことで、例えば気分が沈んでしまって、それでいて落ち着かないというのは、空が灰色だからとか、疲れがたまってるんだとか、もっともらしい理由をつけることもできるけれど、それはあくまで一要素でしかなくて、そういった説明からはこぼれ落ちてしまうなにかが常にある。そのなにかを無意識と言ってしまってもいいかもしれないけれど、シュルレアリスムは、とりわけ初期の、詩のシュルレアリスムは、無意識の言語化ということを盛んに叫んでいたものだけど、シュルレアリスムの詩を読んでも、なんだかはぐらかされているような感じがする。どうも腑に落ちないところがある。
わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。
だいたい、複雑な感情、複雑な気持というのはあっても、複雑な理屈はあるまい。感情や気持は、複雑という言葉がすでにおかしく、なにもかもいっしょくたになったものだ。
理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。
屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシキは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
これは匂いで、林檎そのものではありません。匂いは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩している林檎の方が好きです。尾崎翠「匂い」
俺はおとつい死んだから もう今日に何の意味もない おかげで意味じゃないものがよく分かる もっとしつこく触っておけばよかったなあ あのひとのふくらはぎに谷川俊太郎「ふくらはぎ」
「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」/早坂類
花の都は大東京です
火曜日に面接があったので、東京に行った。大学生になってからは、初めて行く東京だった。最後に行ったのはたしか、大学受験の頃だから、高校三年生の二月で、ニュースになるくらいの大雪が降った日だった。電車が遅れていつもより人が多いであろう車内で、疲れないために僕はしっかりイヤホンをしてナンバーガールを聴いていたことをよく覚えてる。車窓から流れる白い街とか、たよりない気分とか、泊めてくれた兄の部屋のダンボールで作った本棚とか、まったく手ごたえのなかったまま受験会場から帰る電車を待っている時に聞こえた鉄腕アトムのテーマの空々しい響きとか、今でも体感的に思い出せる。