二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい
現実的な関係性を離れて、ひとりひとりとしてとりとめのない話がしたいと思うときがある。それは個人的な話でも、そうでなくてもいい。深夜に二人で、ぽつりぽつりと話をしながら、長い長い散歩がしたい。そんなことを考えていたら、思い出したことがいくつかある。
真夜中のひとりごと
感情や気持ちというのは、複雑なもので、複雑というのは、原因-結果と単純に割り切ることができないことで、例えば気分が沈んでしまって、それでいて落ち着かないというのは、空が灰色だからとか、疲れがたまってるんだとか、もっともらしい理由をつけることもできるけれど、それはあくまで一要素でしかなくて、そういった説明からはこぼれ落ちてしまうなにかが常にある。そのなにかを無意識と言ってしまってもいいかもしれないけれど、シュルレアリスムは、とりわけ初期の、詩のシュルレアリスムは、無意識の言語化ということを盛んに叫んでいたものだけど、シュルレアリスムの詩を読んでも、なんだかはぐらかされているような感じがする。どうも腑に落ちないところがある。
わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。
だいたい、複雑な感情、複雑な気持というのはあっても、複雑な理屈はあるまい。感情や気持は、複雑という言葉がすでにおかしく、なにもかもいっしょくたになったものだ。
理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。
屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシキは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
これは匂いで、林檎そのものではありません。匂いは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩している林檎の方が好きです。尾崎翠「匂い」
俺はおとつい死んだから もう今日に何の意味もない おかげで意味じゃないものがよく分かる もっとしつこく触っておけばよかったなあ あのひとのふくらはぎに谷川俊太郎「ふくらはぎ」
「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」/早坂類
花の都は大東京です
火曜日に面接があったので、東京に行った。大学生になってからは、初めて行く東京だった。最後に行ったのはたしか、大学受験の頃だから、高校三年生の二月で、ニュースになるくらいの大雪が降った日だった。電車が遅れていつもより人が多いであろう車内で、疲れないために僕はしっかりイヤホンをしてナンバーガールを聴いていたことをよく覚えてる。車窓から流れる白い街とか、たよりない気分とか、泊めてくれた兄の部屋のダンボールで作った本棚とか、まったく手ごたえのなかったまま受験会場から帰る電車を待っている時に聞こえた鉄腕アトムのテーマの空々しい響きとか、今でも体感的に思い出せる。
僕らが文を書く理由
最近、なにかを書くのが楽しくて、人からどうして書くのとか聞かれたりもして、書くってどういうことなんだろうということをよく考えてる。
「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確実にする」と書いたのはイギリス経験論の先駆けとして有名なフランシス・ベーコンで、違う翻訳だと「読書は充実した人間を作り、会話は気がきく人間を、書くことは正確な人間を作る」になってるらしいんだけど、自分を確実にするために書く、という気持ちはすごくよくわかる。
僕にとっての書くという行為は、自己確認の意味合いが強くて、自分が見たものや考えたこと、感じたこと、好きなものをベタベタ触ってその形を確かめるということだと思う。ぼんやりとしていてぐちゃぐちゃな自分っていうものの一部を言葉に変えて文章にして、ある程度まとまった形で外に出すことで初めてそれについてのまとまった認識が得られるというか。そういう風に今の自分や、これまでの自分を確かめてるんだけど、それと同時に未来の自分を少しずつ形作っているとも言えるかもしれない。少し大げさな言い方になっちゃうけど、僕は書くことによって未来の自分を少しずつ選んでいる、というような気がする。
どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩をするかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。村上春樹『村上朝日堂』
どんな風に書くかということと、どんな風に生きるかということ。どこに行ったか、行きたい場所はどんなところか、何を見たのか、何をしたのか、あるいはなにもしなかったのか。誰と話したか、どんなことを話したか。いま一番話したいことはどんなことか。どう感じたか、なにを考えたか。好きなものはあるか。どんな時に楽しいか。嫌いなものは。欲しいものはあるか。知りたいことはあるか。どんな人が好きか。次の休みにはなにがしたいか。
そのようなことについて語るときには、自然とどんな風に生きるかという問いがついて回る。どんな風に書くかというのは文体やスタイルの問題もあるけど、要は何を見て、何を見ないかって話になると思う。それには多くの場合、生きていく上での価値観や選択基準がそのまま適用される。今日は一日街を歩きました、みたいな文章を書くときにも、ある人は新しくできたクラブとか、おしゃれなバーを見つけたぜと書くかもしれないし、ある人は行き交う人々がみんな早歩きで怖かったという話に終始するかもしれないし、またある人は最近の若者はスマホばかり眺めて云々という話に流れていくかもしれない。
もしも書くという行為が少し先の生き方を選ぶことにつながっているとするならば、僕はこれまで具体性に欠ける生き方をしてきたのでこれからはなるべく意識して具体的なことを書いていきたいと思う。
あと最近ちょっと日本語ラップにハマりかけてるんだけど、彼らがリズムにゆられて吐き出す言葉、リリックからは、彼らのライフスタイルが透けて見えてすごく面白い。そして何より具体的だ。「海か、山か、プールか!?いやまずは本屋」といった具合に。俺はこういう人間なんだって言うことをラップすることを通じて表明して、確認して、肯定している。そのちょっと安易に思える自己肯定は賛否両論あるだろうけど、僕は格好良いと思います。考えないなら考えないなりに、考えないという選択をしているように思えるから。それに音楽は聴いてていい気分になれたらそれでいいと思うから。正しさとかはどうでもいい。ヒップホップは昔からファッションやらライフスタイルや遊びなんかと密接に結びついてて、ちょっと齧るとすぐに多方面に味が広がるからおもしろい。
いま一番好きなのがS.L.A.C.Kで、単純にトラックが格好良いのとテキトーでゆるい感じのラップがオラつき過ぎてないのと、D'angeloとかに似たリズムの崩し方が心地良くて最高。日常的に聴いてても違和感のないヒップホップって貴重だと思う。あと僕は暇な人が好きだから、彼のしたたかに暇してる感じのスタンスが好き。amazonでCDポチった。
ドライカレーをぐちゃぐちゃにして
コーヒーのまずい喫茶店で相撲中継を見ていたことなど
日記を書きます。日記なので、ですます調でいきたいと思います。一週間くらい前の、僕の一日。
この前、若者のすべて、ここにあります。と言いたくなるような、思わず14才の頃の笑顔になってしまうような夜を過ごしました。その日はお昼から地元の友達が遊びに来ていて、慣れないスパイスカレーなど食べました。メニューにスパイシーなので辛いの苦手な人は気をつけて!と書いてあった猪のカレーを注文して、本当に辛くて全身の、主に頭の毛穴を全開放しながら食べました。猪の肉は、歯応えはあるけど固くはなくて、僕は今肉を噛み、ちぎり、味わい、食べているという満足感がとっても得られて良かったです。あと理科の教科書以外で初めて紫キャベツを見て、食べました。店主さんはサボテンを買いに名古屋に行っていて留守だと、奥さんらしき人が話してくれました。僕は生まれてから高校を卒業するまで、名古屋で育ったのだけど、名古屋がサボテンの街だなんて、初めて聞きました。それからあんまりにも汗を垂れ流しながらカレーを食べる僕を見かねて、その人はグァバジュースをご馳走してくれました。僕はあんまり南国チックなフルーティな飲み物は好きじゃないけれど、スパイシーなカレーと一緒に飲むグァバジュースはおいしかったので、ありがとうという感謝の気持ち以外浮かびませんでした。
カレーを食べ終わったあと、夜の予定まで数時間ひまがあったので、近くにあった喫茶店に入りました。コーヒーでも飲みながら時間を潰そうと思ったのだけど、京都の昔からやっている、低体温な感じの喫茶店は、入った時に結構な確率でな、何しに来たの?みたいな顔をされます。しかし僕は京都に住んでもう四年目になるのでへっちゃらです。コーヒーを飲みに来たんだよ、オラオラと頭の中で啖呵を切りながらズケズケと店内に入り、一番奥の隅っこのテーブルにそっと腰を下ろすと、お年玉をもらうときの孫のような謙虚な態度でコーヒーを注文しました。出てきたコーヒーは麦茶と黒豆とコーヒーのキメラのような変な味がしました。健康に良さそうで、まずかったです。友達はミルクとシロップをたっぷり使って豪快な味変更をしたあと、半分くらい飲んで残していました。男らしいなあと思いました。店員なのか常連客なのか判別がつかないおじいさんおばあさんが、ボーッとテレビを見ていました。相撲の試合と野球中継を、20分おきくらいの間隔で行ったり来たりしていました。僕は昔からあまりテレビは見ないから、そのチャンネルを変えるタイミング、ないしはそれを支える法則性のようなものがさっぱりわかりませんでした。面白い番組やってないねえとおじいさんは呟いていましたが、全然不満そうじゃなくておもしろかったです。面白くても面白くなくても、どっちでもいいけどテレビを見る。それは僕らの世代以前にしかない習性だと思うのです。
初めてしっかりと見る相撲の試合は、意外とテンポが良くて、おもしろかったです。大きくて強そうな力士と、大きくて強そうな力士とがぶつかり合って、あっという間に勝負が決まる。大きくて強くて格好良くて、必殺技みたいな名前がついた男たちが恐い顔でしばき合う様を、僕はロボットアニメを見るような気分で眺めていました。野球も相撲も、見所とそうでもないところがハッキリと分かれていて、あんまりルールを知らなくても楽しめるいいスポーツだと思いました。僕にはいつか野球ファンになるという夢があって、応援するなら横浜ベイスターズと決めています。名前が好きだからです。だけど選手の名前とか成績とか、往年の名試合とかドラフトとか巨人が嫌いとか、その辺のことがよくわからないし覚えるのもめんどくさいのでまだ野球ファンになれずにいます。応援したチームが試合に勝った負けたとかで、嬉しくなったり不機嫌になったりしてみたいものです。
夜は、僕に銀杏BOYZと何軒かの美味しいお店と、男子中学生みたいに女の子に対して憧れを抱くことは恥ずかしいことじゃないぜということを教えてくれた先輩の誕生日ライブで、本当最高だったのですが、長くなってしまったので詳しくは書きません。お誕生日おめでとうございます。生まれてきて、よかったねと心の底から思えるピースフルな夜でした。グッドミュージックイズグッド。
以上、iPhoneから送信。
自分の好きは自分で決める?
岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。著者なりのオタク観や、世間から見たオタクのイメージの変遷、オタクの定義や特徴の移り変わり、オタクの世代論なんかが盛り込まれていて、面白かった。
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める/兵庫ユカすきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る/兵庫ユカ
世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。
川上未映子『オモロマンティック・ボム!』「2月、飛躍するチョコレート」