アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい

現実的な関係性を離れて、ひとりひとりとしてとりとめのない話がしたいと思うときがある。それは個人的な話でも、そうでなくてもいい。深夜に二人で、ぽつりぽつりと話をしながら、長い長い散歩がしたい。そんなことを考えていたら、思い出したことがいくつかある。

 
一つは、クラブメトロのオールナイトイベントに、当時仲良くしてもらっていた女の人と出かけて、深夜三時くらいに抜け出して、シャッターの下りたいつもより格段に情報量の少ない商店街を、二人で言葉少なに歩いて帰ったこと。自販機って意外とうるさいんだなとか、普通の乗用車とトラックのエンジンの音って違うんだな、なんてことを思いながら、特に急ぐこともないからゆっくり歩いてた。その時の僕はもうすぐ二十歳で、その人はすっかり二十歳だった。だから二十歳になるってどんな感じですか、なにか変わりますかみたいなことを聞いて、その人は少し考えてから、ちょっとしっかりしなきゃって思うだけで何も変わらないかなって言った。そのあと僕は無事に二十歳の誕生日を迎えたわけだけど、ちょっとしっかりしなきゃなって思うだけで、特に何も変わらなかった。
 
二つ目は、僕が違う大学のサークルに遊びに行った時に知り合った女の子と梅田のミニシアター系の映画館に『ザ・トライブ』を観に行った時のこと。この映画のセリフは全編を通じて手話になっていて、字幕も音楽もない。かと言って24時間テレビ的なハートウォーミングな内容じゃなくて、登場人物は基本的に喧嘩かセックスをしている。むき出しの人間関係というか、単純化された上下関係とわかりあえなさが描かれていて、観客は台詞がない分研ぎ澄まされた視覚と聴覚でもってそれを観る。なかなかショッキングな映画体験だった。それで映画が終わった後すぐには上手に声が出なくて、二人とも身振り手振りで感想を伝え合った。映画館を出たあとの梅田の街がいつもよりうるさく思えたのをよく覚えてる。その子は全くお酒を飲まない人で、名前の由来と映画の趣味が素敵だったけど、当時の僕は飲みに行く以外の遊びに行く口実をあんまり知らなかったので疎遠になった。そういえばオススメされた映画もまだ観てないままだ。『夏の嵐』、『バッド・エデュケーション』、クローネンバーグの『クラッシュ』。
 
三つ目は、京阪沿線にある山に登った時のことで、山の麓には300円で荷物を預かってくれるらしいお店があって、麓の駅から山の頂上までを往復する1両編成の電車が出ていた。Suicaとかの電子マネーは使えなかったから小銭で切符を買った。山道をゆっくり走る電車とロープウェーの中間みたいな乗り物はかわいかった。そこまで向かう途中の駅で買った抹茶の団子を頂上で食べた。そこには百万ドルの夜景と書かれた看板が立っていたけど、まだ明るかったのでその真偽はわからなかった。頂上付近のひらけたあたりを一回りして、閉まったままで開く気配のない休憩所や、エジソンの記念碑を見た。天才とは99パーセントの努力と〜という例の名言が刻まれていて、なんでこんなところにエジソンが、と思ってそのあたりをよく散策したけどその山とエジソンの関連性は結局分からなかったからバカにして笑った。豊かな自然に囲まれながらちょっと不似合いな音楽とか映画とか、昔観て印象的だったテレビ番組の話などをした。下山する最終便が18時とかで、僕は自称百万ドルの夜景がいかほどのものか気になったからそれを見てから帰りは歩いて下山しようよと提案したら、夜の山をナメてはいかんと結構本気で怒られたので大人しく最終便に乗った。行きも帰りも他に乗客はいなかった。帰りにチラッと見えた夜景は20ドル分くらいの値打ちしか感じられなかった。駅に着いた頃にはもう荷物を預かってくれるお店は閉まっていた。降りたことのない駅だったのでしばらく近くをぶらぶらすることにして、子供の頃の話とか、テレビにまつわる家のルールとか、育った町とか、宇宙について考えると眠れなくなっていたこととか、最近共感した曲の歌詞とかについて話し合って楽しかった。
 
僕は付き合いが悪いので、誰かと話す機会は、大勢が集まる飲み会になることが一番多いんだけど、飲み会の場合は個人がどうこうというよりも「場」の空気が最優先されるから、あんまりゆっくり話すことには向いてない。僕は協調性がまったくないので、場の空気なんてどうでもいい、あなたの話を聞かせてくれと思うんだけど、大抵は思うだけで終わる。なんて言うか、二回目のデートで話すようなことをだらだらと喋りたい。そんな気持ち。自分で言っといてなんだけど、二回目のデートで話すようなことってすごくいいな。お互いのプロフィール的な情報はもう一通りわかってて、だけど知らないこともたくさんあって、いつもよりもちょっと個人的な、誰にでもするわけじゃない話をするあの感じ。個人的には二回目のデートは長い長い散歩のようなものがオススメです。なので履き慣れた靴、汚れてもいい服装で臨みましょう。もちろんおやつは300円までね。

真夜中のひとりごと

感情や気持ちというのは、複雑なもので、複雑というのは、原因-結果と単純に割り切ることができないことで、例えば気分が沈んでしまって、それでいて落ち着かないというのは、空が灰色だからとか、疲れがたまってるんだとか、もっともらしい理由をつけることもできるけれど、それはあくまで一要素でしかなくて、そういった説明からはこぼれ落ちてしまうなにかが常にある。そのなにかを無意識と言ってしまってもいいかもしれないけれど、シュルレアリスムは、とりわけ初期の、詩のシュルレアリスムは、無意識の言語化ということを盛んに叫んでいたものだけど、シュルレアリスムの詩を読んでも、なんだかはぐらかされているような感じがする。どうも腑に落ちないところがある。

最近読んでいる本、田中小実昌の『カント節』には、そういう辻褄の合わないようなことが、辻褄の合わないままでべたべたと並べ立てられていておもしろい。ロジカルにピントがずれていく感じがお気に入り。
田中小実昌の『カント節』の中の「ジョーシキ」という最初の一編を読んでいたら、ぼくは本の中に好きな文章を見つけるとそれをメモするのだけど、ほとんどの文章をメモすることになってしまった。中でもお気に入りなのが、次の文章。
 
わかりきったことだが、小説はストーリイやプロットもたのしいが、その書きっぷり、かたりかけかたをたのしんで読むものらしい。ところが、どうしたことか、小説の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを、さっぱり感じなくなった。まえには、感じて、それをたのしんでたのだから、むこうさまの小説のほうのにおいがなくなったのではなく、こちらの感覚、目か鼻か耳がおかしくなったのか。
ところが、哲学の本はそれこそストーリイ(理屈)だけだとおもったら、逆に、哲学の本の各行のほうが、あれこれ、おかしなにおいがするんだなあ。これは、いわゆる哲学書に書いてある理屈が、なかなか理解できなくても、けっして複雑なものではないことに気がついたあたりから、哲学の本の文字がにおいだしたようだ。
だいたい、複雑な感情、複雑な気持というのはあっても、複雑な理屈はあるまい。感情や気持は、複雑という言葉がすでにおかしく、なにもかもいっしょくたになったものだ。
理屈は、そのなにもかもいっしょくたになったものを、むりに単純にしようとする。そのむりかげんを、ぼくはたのしみだしたのではないか。
 
理屈はけっして複雑なものではないというのは、哲学は「こうとしか考えられない」を積み上げていくものだから、考えてみればその通りで、納得した。それが理解できないのは、大抵は前提となっているコンテクストを知らないか、使われている語の定義を履き違えているからじゃないかと思う。まあそんなことはどうでもよくて、ぼくはこの人の書く文章のリズムがとても好きになってしまった。音楽が好きだから、というのが関係しているのかわからないけど、好きな文章というのは、その文章のリズムが好きであることが多い。上の引用の言い方を借りれば、その文章の各行のしゃべりかた、息づかい、生あたたかいにおいなんかを好きになる。お気に入りの音楽を探すみたいに、お気に入りのリズムを求めて文章を読む、のかもしれないな。それで、気分によって聴きたい音楽が変わるように、しっくりくる文章のリズムもときどき変わる。ちょっと前まではハードボイルド的な、すっきりしていて意味がはっきりしている文章が好きだったけれど、なんとなく今は、もっとごちゃごちゃした、ポリリズム的な、蛇行してのろのろと進む文章が好きになっている。
 
屁理屈だ、とジョーシキは言いそうだが、ジョーシキは毎日をすごしていくためのもので、毎日をすごしていくために、本を読むのではない。だったら、なんのために本を読むのか、とジョーシキはたずねるかもしれないけど、本を読みたいから読む、なんのためなんてカンケイない。しかし、どうして、本が読みたいのか?
 

 

どうして、本が読みたいのか?と言われても、どうして、音楽を聴きたいのか?と同じように、読みたいからとか聴きたいからといった風な、同語反復的な答え方になってしまう。リズムが、リズムがいいんだ。音楽を聴いて体を揺らすのが気持ち良いように、文章を読んで頭の中を揺らすのが気持ち良いんだ。最近、ジャズをたまに聴くんだけど、ジャズの演奏の、テーマやコードやリズムの中でいかに遊ぶか、みたいなところに気をつけて聴くのがすごくおもしろい。頭の中でテーマを反芻しながら、アドリブ部分を聴くと、たまにすごくスリリングな瞬間があって、それがわかる。ジャズってスポーティなジャンルだなって、最近思う。今までの話に関係がありそうで、ない話。今日はなんだか、涙が出そうなほどイライラしてつかれたけど、家に帰ってごろごろしながら本を読んで、こうやってだらしのない文章を書いているうちに回復してきました。最後に、今日目にして心地よかった文章を貼って終わります。
 
これは匂いで、林檎そのものではありません。匂いは林檎が舌を縛るほど鼻を縛りません。だから私の舌の上の林檎より、鼻孔のあたりを散歩している林檎の方が好きです。
尾崎翠「匂い」

 

俺はおとつい死んだから もう今日に何の意味もない おかげで意味じゃないものがよく分かる もっとしつこく触っておけばよかったなあ あのひとのふくらはぎに
谷川俊太郎「ふくらはぎ」
 

 

「どうでも良いことって僕は好きだよ、そういったもので回復したいな」/早坂類
 
早坂類については、心底好きな歌人なので、いつかまとまったものを書きたいと思う。おやすみなさい。
ああ、そうだ。最近すごく思うことがあって、人の話が聞ける人って、えらいと思うんだ。この前、兄に会って話したんだけど、ぼくの兄は人の話をちゃんと聞ける、えらい人で、見習おうと思いました。あんな風に、人の話が聞ける人はあんまりいないから。自分とは違う考え方や、わからないこと、腑に落ちないことに対して、むやみに同調したり、あるいは否定したり、無視したりせずに、そのままにしておくこと。考えずにほうっておくという意味ではなくて、そのままにして、適切な時間をかけて、消化したりしなかったりすること。そのあたりがきっと人の話を聞くということのコツなんだろうと、ぼくはこっそり睨んでいます。コミュニケーションって、わかり合うって、そういうものなのかもなって。でもまだよくわからないので、そのままにしておきます。

花の都は大東京です

火曜日に面接があったので、東京に行った。大学生になってからは、初めて行く東京だった。最後に行ったのはたしか、大学受験の頃だから、高校三年生の二月で、ニュースになるくらいの大雪が降った日だった。電車が遅れていつもより人が多いであろう車内で、疲れないために僕はしっかりイヤホンをしてナンバーガールを聴いていたことをよく覚えてる。車窓から流れる白い街とか、たよりない気分とか、泊めてくれた兄の部屋のダンボールで作った本棚とか、まったく手ごたえのなかったまま受験会場から帰る電車を待っている時に聞こえた鉄腕アトムのテーマの空々しい響きとか、今でも体感的に思い出せる。

面接会場は六本木で、慣れない場所だし迷ったら困ると思って、3時間半前に着いた。会場までの道のりを3往復してしっかり確かめても余った3時間を持て余し、バーガーキングで時間を潰した。レジを打って接客をするアルバイトが、全員たぶん東南アジア系の外国人だった。どこから来て、どこに住んでいるんだろうと気になった。彼らも長く東京で暮らしていれば、そのうち下北沢で古着を買ったりするようになるのだろうか。深夜アニメを観たりするのだろうか。ブランド品を装備して青山通りを闊歩するのだろうか。
バーガーキングの喫煙席は静かだった。みんな一人で腹にバーガーを詰め込むためだけに来ていて、会話を交わす人はいない。タバコに火をつける音だけが時折響く。「我々は連帯しながら断絶している」なんて長嶋有の小説の一節が頭に浮かんだ。最高の離婚の中で出てきた「二人でする食事はご飯だけど、一人でする食事はエサだよ」みたいな台詞も思い出す。知らない喋らない人たちと同じ空間で、僕も黙々とバーガーの国の王様が考えたであろうバーガーを食べた。
食べ終わったバーガーの包み紙を綺麗に折りたたんでしまって、心ゆくまでタバコを吸った後はやることがなくなってしまったのでその辺をブラブラしてみることにした。電話なんかやめてさァ六本木で会おうよォ〜の歌で有名な街。六本木で会おうよォって言われた場合、待ち合わせはどこなんだろう、みんなの中で六本木のイメージはそんなに共通しているのか。あのなんかでっかい蜘蛛のオブジェがあるところかな。そういえば面接会場の目印として、ツタヤの近くだよって書いてあったんだけど、僕は六本木ヒルズ周辺をブラブラするうちにツタヤを三軒見つけた。目印のツタヤはその中で一番目立たないツタヤだった。
 
その日は夜に兄とその奥さんと双子の姉と四人で新宿のブレードランナーみたいな店で飲む約束をしていた。楽しみだったから僕はその二日前くらいにブレードランナーを借りて観た。ゴテゴテとして無国籍な未来都市という心躍るヴィジュアルとは裏腹に、テーマは結構重かった。一言で言うならば、生まれつき平等でない命についてかな。とにかく、痛みを感じる映画だった。ハリソン・フォードの痛がる演技は迫真のもので、僕の知る限りいたそうな演技ベスト3には入るだろう。それと登場人物たちの心の痛み。ハードボイルド的な、抑えた調子で撮られているんだけど、それが余計に痛みをむき出しのままに観客に手渡す効果を出していたように思う。
ブレードランナーの中で印象的なのが、雨の降るシーンが多いことだった。雨ばかり降る未来都市というのは新鮮で、その日の新宿は雨だった。大きな荷物を抱えて、雨の降る新宿をしとしと歩いた。遠くのネオンの輪郭が曖昧だった。東京の人は歩くのが速いとよく言うけど、バッチリついていけたので雨の日はそうでもないのかなと思った。これまた1時間前に目的地を肉眼で確かめて、ひまだし雨だし荷物が重かったのでゲームセンターで休んだ。はじめは怒首領蜂最大往生をやっていたが10分で300円くらい溶けたのでやめた。なるべく長持ちするやつを、と思ってQMAで遊んだ。スポーツ系の問題は何一つわからなかった。
 
あんまり言葉が出てこないので今日はここまで。

 

僕らが文を書く理由

最近、なにかを書くのが楽しくて、人からどうして書くのとか聞かれたりもして、書くってどういうことなんだろうということをよく考えてる。

「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確実にする」と書いたのはイギリス経験論の先駆けとして有名なフランシス・ベーコンで、違う翻訳だと「読書は充実した人間を作り、会話は気がきく人間を、書くことは正確な人間を作る」になってるらしいんだけど、自分を確実にするために書く、という気持ちはすごくよくわかる。

僕にとっての書くという行為は、自己確認の意味合いが強くて、自分が見たものや考えたこと、感じたこと、好きなものをベタベタ触ってその形を確かめるということだと思う。ぼんやりとしていてぐちゃぐちゃな自分っていうものの一部を言葉に変えて文章にして、ある程度まとまった形で外に出すことで初めてそれについてのまとまった認識が得られるというか。そういう風に今の自分や、これまでの自分を確かめてるんだけど、それと同時に未来の自分を少しずつ形作っているとも言えるかもしれない。少し大げさな言い方になっちゃうけど、僕は書くことによって未来の自分を少しずつ選んでいる、というような気がする。

どんな風に書くかというのは、どんな風に生きるかというのとだいたい同じだ。どんな風に女の子を口説くかとか、どんな風に喧嘩をするかとか、寿司屋に行って何を食べるかとか、そういうことです。
村上春樹『村上朝日堂』

 どんな風に書くかということと、どんな風に生きるかということ。どこに行ったか、行きたい場所はどんなところか、何を見たのか、何をしたのか、あるいはなにもしなかったのか。誰と話したか、どんなことを話したか。いま一番話したいことはどんなことか。どう感じたか、なにを考えたか。好きなものはあるか。どんな時に楽しいか。嫌いなものは。欲しいものはあるか。知りたいことはあるか。どんな人が好きか。次の休みにはなにがしたいか。

そのようなことについて語るときには、自然とどんな風に生きるかという問いがついて回る。どんな風に書くかというのは文体やスタイルの問題もあるけど、要は何を見て、何を見ないかって話になると思う。それには多くの場合、生きていく上での価値観や選択基準がそのまま適用される。今日は一日街を歩きました、みたいな文章を書くときにも、ある人は新しくできたクラブとか、おしゃれなバーを見つけたぜと書くかもしれないし、ある人は行き交う人々がみんな早歩きで怖かったという話に終始するかもしれないし、またある人は最近の若者はスマホばかり眺めて云々という話に流れていくかもしれない。

もしも書くという行為が少し先の生き方を選ぶことにつながっているとするならば、僕はこれまで具体性に欠ける生き方をしてきたのでこれからはなるべく意識して具体的なことを書いていきたいと思う。

 

あと最近ちょっと日本語ラップにハマりかけてるんだけど、彼らがリズムにゆられて吐き出す言葉、リリックからは、彼らのライフスタイルが透けて見えてすごく面白い。そして何より具体的だ。「海か、山か、プールか!?いやまずは本屋」といった具合に。俺はこういう人間なんだって言うことをラップすることを通じて表明して、確認して、肯定している。そのちょっと安易に思える自己肯定は賛否両論あるだろうけど、僕は格好良いと思います。考えないなら考えないなりに、考えないという選択をしているように思えるから。それに音楽は聴いてていい気分になれたらそれでいいと思うから。正しさとかはどうでもいい。ヒップホップは昔からファッションやらライフスタイルや遊びなんかと密接に結びついてて、ちょっと齧るとすぐに多方面に味が広がるからおもしろい。

いま一番好きなのがS.L.A.C.Kで、単純にトラックが格好良いのとテキトーでゆるい感じのラップがオラつき過ぎてないのと、D'angeloとかに似たリズムの崩し方が心地良くて最高。日常的に聴いてても違和感のないヒップホップって貴重だと思う。あと僕は暇な人が好きだから、彼のしたたかに暇してる感じのスタンスが好き。amazonでCDポチった。


S.L.A.C.K./WEEKEND

ドライカレーをぐちゃぐちゃにして

昨日の夜から、本を読んだり考え事をしたり、とびきり暗い未来予想図を思い描いて涙を流すなどをしながら眠れずに、待ちくたびれて朝を迎えたけどちっとも眠くなかったので、そのまま新しい一日を始めてしまうことにした。
そつなく顔を洗いコンタクトレンズをはめて、朝の光が目に痛かったのでダイソーで買ったやたらとスポーティなデザインのサングラスをかけながら、ポップアップトースターでパンを焼いて、砂糖をバシャバシャかけて食べた。久しぶりに三月書房に行こうと思って、恥ずかしいのでサングラスははずして外に出ると、雲が夏の形をしていていい気分だった。今年の頭に初売り半額セールで買った、オレンジの靴紐が格好良いグレーのランニングシューズを履いて、スピッツを聴きながらぽっかぽっかと歩いた。「波のり」、最高にいい曲だぜ。駅に向かう道の途中で、朝専用モーニングショットを100円で買い、駅に着くまでに飲み干し、同じものが130円で売ってる自販機の横のゴミ箱に空き缶を捨てて、電車に乗った。

三月書房には、現代短歌や、俳句、詩、それからガロ系の漫画なんかがたくさん置いてあって、僕は現代短歌の棚とガロ系の漫画の棚を穴があくぐらい熱心に眺め回したけど、穴はあかず、丈夫な本棚で良かったと思った。本当に隅から隅まで、目当ての本がないか五感を研ぎ澄まして探していると、大本命の激レア本、絶版になってAmazonマーケットプレイスで3万円超の値段で売られている、現代短歌文庫の加藤治郎の新品が定価で売られているではありませんか。読まずに売っても3万円の儲け、読んだら幸せ。と言うかずっと読みたかった。思わず震えた。ひと思いに出かけてしまって、本当に良かったと思っている。と言っていた若きウェルテル君の気持ちがすごくよくわかった。ハレルヤと思った。
それと漫画家の方の山田花子の『魂のアソコ 改訂版』と『花咲ける孤独』を買った。とても暗い漫画なので、病んでいるのかと思われそうだけど、僕は昔から暗い漫画が好きなのです。ネガティヴを吸い上げてそのエネルギーで小さな花を咲かせるタイプの人間なので、暗い漫画を読むと安心します。暗い漫画を読んだら、心の暗い部分をわざわざ自分で見つけ出してお世話してあげる手間が省けるので、むしろ生産的な営みです。暗めの話題を語るときに、ついついですます調になってしまうのは、中学時代に太宰治をよく読んでいた名残かしら。

いい買い物をして、少し歩いてお腹も減ったので、お昼時を少し過ぎてお客さんのいない喫茶店に精一杯の生気を漲らせながら入って、ドライカレーとアメリカンコーヒーを頼んだ。ドライカレーには生卵がのっていたので、ぐちゃぐちゃにして食べて、おいしかった。アメリカンコーヒーって、コーヒー好きの人からしたら、イースト・プレスのまんがで読破シリーズ並にげんなりする代物かもしれないけど、僕は薄いコーヒーが好きなので、いつもアメリカンコーヒーを頼んでしまう。カレーを食べ終わってからコーヒーを飲んで、ハイライトをゆっくり吸いながら、買ったばかりの加藤治郎の歌集を少し読んだ。結局寝てないこともあって、そうしているうちに眠くなったので家に帰ることにした。そしていい日になったので日記を書いている次第。加藤治郎の気に入った短歌を並べて終わります。

ぼくのサングラスの上で樹や雲が動いているって、うん、いい夏だ/加藤治郎
マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股で鳴らして/同上
ペーパーカップふみつぶしたらしんきろうとおくにみえて旅のはじまり/同

以下全部加藤治郎

どもっどもっどもありがっと卵黄がくるりとまわる朝のフライパン
いたましくホットケーキは焼き上がりきみもぼ、ぼくも笑っちゃいそう
オレンジを抱えてきみがくる部屋をきょうあすあさって想うのだろう
誤解したふりして海に誘うのも、にがめのチョコが充ちてゆくのも

まだ地上にとどいていない幾億の雨滴をおもう鞄をあけて
いま俺は汚い歌が欲しいのだ硝子の屑のかなたの牛舎

コーヒーのまずい喫茶店で相撲中継を見ていたことなど

日記を書きます。日記なので、ですます調でいきたいと思います。一週間くらい前の、僕の一日。


この前、若者のすべて、ここにあります。と言いたくなるような、思わず14才の頃の笑顔になってしまうような夜を過ごしました。その日はお昼から地元の友達が遊びに来ていて、慣れないスパイスカレーなど食べました。メニューにスパイシーなので辛いの苦手な人は気をつけて!と書いてあった猪のカレーを注文して、本当に辛くて全身の、主に頭の毛穴を全開放しながら食べました。猪の肉は、歯応えはあるけど固くはなくて、僕は今肉を噛み、ちぎり、味わい、食べているという満足感がとっても得られて良かったです。あと理科の教科書以外で初めて紫キャベツを見て、食べました。店主さんはサボテンを買いに名古屋に行っていて留守だと、奥さんらしき人が話してくれました。僕は生まれてから高校を卒業するまで、名古屋で育ったのだけど、名古屋がサボテンの街だなんて、初めて聞きました。それからあんまりにも汗を垂れ流しながらカレーを食べる僕を見かねて、その人はグァバジュースをご馳走してくれました。僕はあんまり南国チックなフルーティな飲み物は好きじゃないけれど、スパイシーなカレーと一緒に飲むグァバジュースはおいしかったので、ありがとうという感謝の気持ち以外浮かびませんでした。


カレーを食べ終わったあと、夜の予定まで数時間ひまがあったので、近くにあった喫茶店に入りました。コーヒーでも飲みながら時間を潰そうと思ったのだけど、京都の昔からやっている、低体温な感じの喫茶店は、入った時に結構な確率でな、何しに来たの?みたいな顔をされます。しかし僕は京都に住んでもう四年目になるのでへっちゃらです。コーヒーを飲みに来たんだよ、オラオラと頭の中で啖呵を切りながらズケズケと店内に入り、一番奥の隅っこのテーブルにそっと腰を下ろすと、お年玉をもらうときの孫のような謙虚な態度でコーヒーを注文しました。出てきたコーヒーは麦茶と黒豆とコーヒーのキメラのような変な味がしました。健康に良さそうで、まずかったです。友達はミルクとシロップをたっぷり使って豪快な味変更をしたあと、半分くらい飲んで残していました。男らしいなあと思いました。店員なのか常連客なのか判別がつかないおじいさんおばあさんが、ボーッとテレビを見ていました。相撲の試合と野球中継を、20分おきくらいの間隔で行ったり来たりしていました。僕は昔からあまりテレビは見ないから、そのチャンネルを変えるタイミング、ないしはそれを支える法則性のようなものがさっぱりわかりませんでした。面白い番組やってないねえとおじいさんは呟いていましたが、全然不満そうじゃなくておもしろかったです。面白くても面白くなくても、どっちでもいいけどテレビを見る。それは僕らの世代以前にしかない習性だと思うのです。

初めてしっかりと見る相撲の試合は、意外とテンポが良くて、おもしろかったです。大きくて強そうな力士と、大きくて強そうな力士とがぶつかり合って、あっという間に勝負が決まる。大きくて強くて格好良くて、必殺技みたいな名前がついた男たちが恐い顔でしばき合う様を、僕はロボットアニメを見るような気分で眺めていました。野球も相撲も、見所とそうでもないところがハッキリと分かれていて、あんまりルールを知らなくても楽しめるいいスポーツだと思いました。僕にはいつか野球ファンになるという夢があって、応援するなら横浜ベイスターズと決めています。名前が好きだからです。だけど選手の名前とか成績とか、往年の名試合とかドラフトとか巨人が嫌いとか、その辺のことがよくわからないし覚えるのもめんどくさいのでまだ野球ファンになれずにいます。応援したチームが試合に勝った負けたとかで、嬉しくなったり不機嫌になったりしてみたいものです。


夜は、僕に銀杏BOYZと何軒かの美味しいお店と、男子中学生みたいに女の子に対して憧れを抱くことは恥ずかしいことじゃないぜということを教えてくれた先輩の誕生日ライブで、本当最高だったのですが、長くなってしまったので詳しくは書きません。お誕生日おめでとうございます。生まれてきて、よかったねと心の底から思えるピースフルな夜でした。グッドミュージックイズグッド。


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自分の好きは自分で決める?

岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』を読んだ。著者なりのオタク観や、世間から見たオタクのイメージの変遷、オタクの定義や特徴の移り変わり、オタクの世代論なんかが盛り込まれていて、面白かった。

この本の中で、オタクとは「自分の好きなものを自分で決める」人たちのことだ、と言っている箇所があって、それがなんとなく心に残った。
僕は昔から、自分の好きなものとみんなが好むもの、もしくはみんなの好きなもののなさ、との間にギャップを感じることが多かったんだけど、かと言って当時オタク的とされていたもの、深夜アニメとかニコニコ動画とか、が好きだったわけでもなかったから、ずっとよくわからない違和感を感じてた。そのズレの原因が、「自分の好きなものを自分で決める」姿勢にあったことに、この本を読んで気づいた。
最近、ずっと趣味が合いそうだなっと思ってた人たちと実際に会って話す機会が何度かあったんだけど、いざ話してみると、当たり前だけど、すごくしっくり話が合う部分もあれば、全く噛み合わない部分もあった。それでがっかりするなんてことはもちろんなくて、オススメされた読んだことのない本は読んでみたいと思ったし、単純に話ができて嬉しかった。多分この感じは、お互いに「自分の好きなものを自分で決めてきた」っていう共通のバックグラウンドがあって、それをなんとなく感じ取ってたからだと思う。
振り返ってみると、自分が好きな人たち、友達とか、先輩とか、家族とか、好きな作家や映画監督に至るまで、僕の周りを囲んでいるのはみんな、好きを自分で決めてきた人たちだなあ、と思う。
たまに人から、自分があるねとか、変な人とか言われて、僕は割と人の顔色を伺うし自覚がないから戸惑ったことが何度かあったんだけど、きっとそれも僕が僕の好きなものを自分で決めていることに対して向けられた言葉だったんだろうと今になって思う。好きを自分で決めるって、当たり前のことだと思ってたけど、実はそんなに当たり前じゃないのかもしれない。やっぱり当たり前なのかもしれない。わからないけど。
22歳の今現在、かつてないくらい「普通」だとか大文字の「社会」だとか「こうあるべき」が重力を強めてきているけれど、これからも自分の好きは自分で決めて守っていきたい。それがいいとか悪いとかじゃなくて、きっともうそういう生き方しかできないんだろうなあと思う。
 
でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める/兵庫ユカ
すきという嘘はつかない裸足でも裸でもこの孤塁を守る/兵庫ユカ
 

世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」かたちで捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力をもちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった。その意味において自分の好きなように生きてよいのが人生だから、まあときどきは、チョコなどを食べてがんばろう。

川上未映子『オモロマンティック・ボム!』「2月、飛躍するチョコレート」