最近のこと
ここ数日すっかり気が抜けてしまっている。去年の暮れからずっとやらなきゃいけないことに追われていて、大学生活の三年間を一緒に過ごした先輩たちの卒業ライブが土日にあって、それが終わってからすぐにすることは何もなくて、筋肉痛なのか風邪なのか全身が痛くて、風邪なのか花粉なのか鼻や喉の調子が良くない。だからいつもよりたくさんたくさん寝て、雨が降りそうな天気が続いて、友達の家に忘れたり彼女に貸したりして傘がすっかり部屋から出払ってしまっているから、たまに本を読んだり映画を観たりするほかはただただ外にも出ないでぼんやりしていた。
あんまりにも何にもしていないとなんとなく嫌な気持ちになるもので、こんな風な日記めいた文章を久しぶりに書いてみようと思った。これまでのこととか、これからのこととか、力なく思い出したり思い描いたりしてみて、さよならだけが人生なのかとちらりと思ったりしている。先輩が卒業して悲しいというのは、会えなくなるから悲しいわけじゃないと思う。だって会おうと思えば会えるわけだから。卒業して会えなくなるのは元々あんまり会っていない人だけで、あんまり会っていない人にあんまり会えなくなるから悲しい、というのはおかしいと思う。じゃあ何が悲しくて寂しいかというと、今までの当たり前が当たり前じゃなくなることなんだろうなって思う。会おうと思わなきゃ会えなくなることなんだと。
もうすぐ就職活動が始まるわけなんだけど、就職活動っていうことは、まだよくわかっていないんだけど、自分のこれからの当たり前を自分で選ぶってことなんじゃないかって思う。どこに住んで、どんな人と関わって、どれくらいお金をもらって、どれくらい働いて、どれくらいの休みをもらって、何をするのか。もちろん全部が思い通りになるわけじゃないと思うけど。考えなくちゃいけないんだと思う。
特に書きたいことがあって書き出したわけじゃないから、ものすごくフラフラしている文章になっている気がする。現に今頭の中がフラフラしている。今夜この街を湯気を立てながら駆け巡って行ったピザたちのことを考えてみたり、出発したばかりの夜走りのトラックの積んでいる段ボールの中身が気になったりしている。今体温を測ってみたら少しだけ熱があった。おやすみなさい。みなさんよい夢を。
僕の現在地はどこかの誰かにとっての遠い場所
同じ町の中で暮らしていても、見える景色が同じだとは限らない。日々の生活の中で、思うことや、気にすること、その日やらなければいけないことや帰ったらしたいことだって人それぞれまったく違うだろう。僕は今日は最近ハマっている漫画家の福満しげゆきのことやら、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のこと、当時のイギリスの持つ想像力への熱と、なぜか両立している不思議な慎ましさなんかのことをぼんやり考えていた。
それからここ最近僕は、ちょっとニヒルな気分が続いていたので心機一転して、誰かと会話をしている間、頭の中で好きだ!好きだ!と念じるようにしている。そうするだけでなんとなくいつもより楽しい。人の気分なんてちょろいもんだなあと思う。
人の気分とか考え方を変えるのは本当にちょろくて、周りの環境次第でどうとでも変わると思う。人が集まって一度集団になってしまうと、もう個人ではどうにもならなくなってしまう。周りの人が揃って良いとしているものを否定するのは気がひけるし、良くないと思ってることを好きだと叫ぶのには勇気がいる。どこの家庭でもきっと一度は発されたことがあるだろう台詞、「うちはうち、よそはよそ。」は、実はとても大事なことなのかもしれない。
僕は時々、自分の身体が自分から離れているような感覚になる時がある。部屋に一人でいる時に起こることが多くて、金縛りにかかったことはないけど多分金縛りとは全然違って、自分の身体の動かし方がよくわからなくなるというか、動かそうと思わないと動かせない、もしくは思った通りにしか動かなくなる。
いろんな読書
2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。
これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。
だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。
どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。
本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。
サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、
見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる
なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。
最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。
近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。
寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。
いろんな読書
2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。
これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。
だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。
どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。
本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。
サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、
見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる
なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。
最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。
近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。
寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。
自転車を盗まれたことがある人・ない人
ふわふわの髪の毛だねってなでてやる自転車を盗まれっぱなしの君だ/岡崎裕美子
くるり『THE WORLD IS MINE』
最近、二年前に水没してからほっったらかしていたiPodが気づいたら直っていて、ときどき不意に音量がMAXになる不具合に怯えながらも、よくイヤホンで音楽を聴くようになった。
コトバを連呼するとどうなる
藤井貞和という詩人がいる。どういう詩人なのか、よくわからない。そもそも詩人を言葉で簡潔に説明することは、できるんだろうか。詩人は詩の中でしか生きていないのだから、詩人の姿は詩の中にしか見られない。詩について、あるいは詩人について、何かを書こうとすると、やたらと抽象的になって、ちっとも要領を得ないので、こまる。
藤井貞和という詩人がいる。ニホン語について、たくさん考えて、たくさんの言葉を吐き出している人だと思う。端正できれいな詩を読むと、言葉を紡ぐ、という言い方がしっくりくるけれど、藤井貞和の詩にその言い方は当てはまらない。もっと、ガサガサしている。これは生き物が作った詩だ、という印象を強く受ける。言葉について、詩について、小説について、都市について、孤独について、時間について、身体の中であるいは宇宙の外でぽっかりと横たわっている空洞から、引っ張り出してきたような言葉の数々。
後来のもので誰かこの孤生のふかみをはかり識ることがあろうとうたったひとがいた 孤独を理解されたときに もう孤独でないことを言いたかったのであろう それぞれの孤独を語り得ないことを哲学したかったのであろう ろうそくのように一匹でぢりぢりともえてゆけ 知り得ぬことのほかは偽りである 藤井貞和「てがみ・かがみ」
よく言葉には霊感が宿るという。言霊というやつである。言葉は自分の運命を決定づけるという。マザーテレサだったかな。僕はこれまでずっと強い願い事があって、それを脇目も振らずに方々で吹聴していた。そんなことを繰り返していていつの間にやらハタチも越えて、望んでいたものはすっかり叶って、今度は死ぬほど安らかな毎日が欲しくなって、ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって、欲しいものはもうないだなんて大口を叩いていたら、なんだか風通しが悪くなってきた。
人は言葉を通じて世界を認識している。国によって語彙が違うのはそのためである。植物を栽培したり草花を愛でたりする習慣がある国には、緑を表す語彙が多かったりする。言葉を知らない人には全ての植物が雑草に見えるはずだ。
自分の言葉が、自分を作るというのは本当だと思う。求めよ、さらば与えられん。という言葉が本当かどうかはわからないけれど、求めなければ何も与えられないということは本当だと思う。ある物事について自分なりに言葉を尽くすことは、自分の将来の関心の方向づけをする。語らなければ、関心も薄れていくように思う。
芸術は、語り続けるものだと大学の授業で聞いた。千夜一夜物語の語り部、シャハラザードのように。きっと何でもそうなのだと思う。あきらめたくないのなら、語り続けなければいけないのだろう。
詩人は時々詩によって言葉を揺るがす。意味を揺るがす。認識を揺るがす。そして、世界を揺るがす、かもしれない。だから未来に向かって、過去でも今でもいいのだけれど、何かを願い続けること、思い続けること、語り続けることは、決して単なる慰めや綺麗事とは言い切れないものだと思う。コトバを連呼すると、たいへんなことが起こるのだ。
「あたしたちの坊やを
枯葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞える
「あたしたちの坊やを
枯葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞える
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起こる
藤井貞和「枯れ葉剤」