アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

いろんな読書

2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。


これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。

だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。

どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。


本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。

サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、

見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる

なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。

最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。

近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。


寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。

自転車を盗まれたことがある人・ない人

 
世の中には二種類の人間しかいない。自転車を盗まれたことのある人間と、自転車を盗まれたことがない人間だ。
これは事実を書いている文章だけれども、心の底からそんな風に思っているわけではないような気もする。自転車を盗まれた経験の有無がその人のその後の人格形成を左右するとはちょっと思えない。だけど、自転車を盗まれたことがあるのとないのとでは、やっぱりどこかがちょっと違う気もする。なにか微妙な違いは生まれる気がする。
ためしに友達を何人か思い浮かべて、自転車を盗まれたことがあるかどうか予想してみる。さっぱり見当がつかない。すぐにあきらめた。
なんでこんなことを急に思ったかというと、現代短歌をいくつか読んでいる時に、たまたま自転車の盗難に言及しているものを二つ見つけたからだ。とりあえずそいつを見てみよう。
 
自転車を盗まれたことないひとの語彙CDがくるくる回る/兵庫ユカ
 
ここでは自転車を盗まれること、盗まれたことがないことが、その人の持つ語彙に関係している。作者はCDをかけて、流れてくる歌を聴きながら、「あ、この人は自転車を盗まれたことがないだろうな」と直感したのだと思う。ちょっと奇妙だけど、その感覚はなんとなくわかる気がする。
気になるのは、自転車を盗まれたことないひと特有のフレーズがあったのか、あるいはその逆があるのか、ということだ。自転車を盗まれたことがないから言えることがあるのか、ないと言えないことがあるのか。僕はないと言えないことがあるんだと思う。自転車を盗まれたことがある人にしかない語彙が、全く入っていないと感じたからこの歌はできたのだと思う。作者の兵庫ユカは、自転車を盗まれたことある人の語彙をもっているんだろう。
自転車を盗まれることで、その人のその後のまなざしや、語彙、ひょっとしたら感じ方や考え方まで変わってしまうのかもしれない、とこの一首を読むと妄想しまう。
 
最近よく思うんだけど、自分が歳をとるにつれて、身の回りはどんどん複雑になっていくような気がする。見てなかったものが目につくようになって、考えたことなかったことを考えるようになって、いろんな人の声を聞いて、ちょっとくたびれてしまう。絞り出した歯磨き粉はチューブに戻すことはできない、ってウディアレンの映画の中のセリフだけど、よくわかる気がする。
村上春樹も『国境の南、太陽の西』の中でそんなことを言ってたような気がする。
ひらきっぱなしで身の回りのことや人が言うことを全部素直に受け止めてたら結局何も言えなくなるだろうという気がしている。まあ、難しく考えすぎるのはよくない、ってこと。
 

ふわふわの髪の毛だねってなでてやる自転車を盗まれっぱなしの君だ/岡崎裕美子

「ふわふわの髪の毛」で「自転車を盗まれっぱなし」な君。なんだかリアリティのある人物像だ。具体的なことはあまり書かれていないのに、ちょっとだけ「君」のことがわかるような気になる。
太くて硬い髪質の人は自転車を盗まれないとか、そういったことはないし、「ふわふわの髪の毛」と「自転車を盗まれっぱなし」の間には何の因果関係も本当はないはずなんだけど、この一首の中ではその二つの要素が結びついて不思議な説得力を持っている。これが寺山修司の言う「短歌の自己肯定性」なのかなとぼんやり思い当たった。どんなに些細な題材でも、つじつまが合っていなくても、いい短歌には散文では出せない本当らしさが宿る。
 
ここまでふわふわした文章を書いてきましたが、さて、ここで問題です。僕は、自転車を盗まれたことがあるでしょうか、ないでしょうか。

 

くるり『THE WORLD IS MINE』

最近、二年前に水没してからほっったらかしていたiPodが気づいたら直っていて、ときどき不意に音量がMAXになる不具合に怯えながらも、よくイヤホンで音楽を聴くようになった。

これまではパソコンに安いスピーカーを繋いで音楽を聴いていたのだけど、スピーカーよりもイヤホンで聴く方がしっくりくる。というか一つ一つの音に対する注意力が増す。これは僕らぐらいの世代の特徴なのではないかとちらっと思ったけれどそんなことはないかもしれない。
イヤホンで音楽を聴くことで、僕の両耳は世界の他の音からは遮断される。だから音楽が鳴っている間は音楽そのものになれるような気がする。知り合いとすれ違ってもイヤホンしてて気づかなかった、で済ませられる。世の中にはスピーカーで爆音で鳴らすような音楽と、イヤホンで一人で聴く音楽とがあると思う。そのどちらとも言い切れないものもたくさんあるけど。

前置きが長くなってしまったが、くるりの『THE WORLD IS MINE』は間違いなくイヤホンで聴くべき音楽だと思う。曲を作ってる岸田さんがレディオヘッドやジムオルークにどハマりしてた時期だったからか、音響系への目配せが全編に渡って感じられる。それがすごく良い。音の一つ一つが丁寧で、音でここまで多くのことを語れるのかと思う。イヤホンをしてこのアルバムを聴き始めたら、とにかくいろんな音が詰まってて、流れてくる音の一つがおもしろくてしょうがなくて、ついつい一枚丸々聴いてしまう。レディオヘッドやらフリッパーズギターやDJシャドウやフィッシュマンズを聴いている時と同じ感触がする。無人島に持って行こうか迷う何枚かのCDのうちの一つに入った。毎日の生活の中で頭にちらつくモラトリアムとか未来とかっていううるさい単語を一気に消し去ってしまうほどのパワーがある。ただ音に耳を澄ましていればなんとなく満たされた気持ちになる。最高のアルバムだと思う。GUILTYでは身も蓋もない無気力極まりないギターと歌のあとの展開とコーラスはこのアルバムで一番美しい瞬間だと思う。こういう瞬間があるから音楽は好きだと思った。二曲目の静かな海はひたすら心地良くて頭を揺らすのにもってこいだし、GO  BACK TO CHINAは生き物みたいにうねるギターとベースの有機的な絡み合いが格好良いし、脳味噌の隙間にバシンとはまるようなタイトなドラムと珍妙な歌詞がクセになる。ワールドエンドスーパーノヴァは不良でもチャラ男でもガリ勉でもオタクでもない僕らのための最高のダンスミュージックだと思う。この曲がかかるクラブがあったら遊びに行きたいな。続きになってるBUTTERSAND/…は楽しいことがあった後に家に帰って明け方に部屋で一人で聴く音楽って感じがして良い。アマデウスは打って変わってシンプルな音作りでちょっと疲れた耳に心地良いし歌詞が夢見がちなハタチそこそこの青年の途方もない諦めとちょっとした希望が感じられてグッとくる。ARMYはまたなんというか無気力な心に心地良く響く。その次のMIND THE GAPが僕は大好きで、バグパイプの音色で鳴らされる民族音楽チックなフレーズの繰り返しとDJシャドウに通じる強調されたドラムのビートの組み合わせによる高揚感で頭がビリビリしてくる。その後の水中モーターと男の子と女の子、THANK YOU MY  GIRLはベストにも入ってるポップチューンで、ベスト盤で散々聴いたからあんまり感想は湧かないんだけどいい曲。ラストの砂の星とPEARL RIVERは穏やかだけど暗くはない曲で、このアルバムの後味をスッキリさせている。最後は鳥のさえずりと水の音で終わっていて、上手い具合に再び普段の世界に戻ってがんばろうという気になる。

くるりのTHE WORLD IS MINEを聴いていたら夢中になって朝になってしまった。聴き終わってしまえばもうこの世界は僕のものではないけれどがんばろう。今日は夕方からバイトだからがんばるためにちゃんと寝よう。がんばるためにがんばって寝よう。音楽を聴く時と音楽の話をするときはついつい14才になってしまうなあと思いました。

コトバを連呼するとどうなる

藤井貞和という詩人がいる。どういう詩人なのか、よくわからない。そもそも詩人を言葉で簡潔に説明することは、できるんだろうか。詩人は詩の中でしか生きていないのだから、詩人の姿は詩の中にしか見られない。詩について、あるいは詩人について、何かを書こうとすると、やたらと抽象的になって、ちっとも要領を得ないので、こまる。

 

藤井貞和という詩人がいる。ニホン語について、たくさん考えて、たくさんの言葉を吐き出している人だと思う。端正できれいな詩を読むと、言葉を紡ぐ、という言い方がしっくりくるけれど、藤井貞和の詩にその言い方は当てはまらない。もっと、ガサガサしている。これは生き物が作った詩だ、という印象を強く受ける。言葉について、詩について、小説について、都市について、孤独について、時間について、身体の中であるいは宇宙の外でぽっかりと横たわっている空洞から、引っ張り出してきたような言葉の数々。

後来のもので誰かこの孤生のふかみをはかり識ることがあろうとうたったひとがいた 孤独を理解されたときに もう孤独でないことを言いたかったのであろう それぞれの孤独を語り得ないことを哲学したかったのであろう ろうそくのように一匹でぢりぢりともえてゆけ 知り得ぬことのほかは偽りである 藤井貞和「てがみ・かがみ」 

 よく言葉には霊感が宿るという。言霊というやつである。言葉は自分の運命を決定づけるという。マザーテレサだったかな。僕はこれまでずっと強い願い事があって、それを脇目も振らずに方々で吹聴していた。そんなことを繰り返していていつの間にやらハタチも越えて、望んでいたものはすっかり叶って、今度は死ぬほど安らかな毎日が欲しくなって、ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって、欲しいものはもうないだなんて大口を叩いていたら、なんだか風通しが悪くなってきた。

 

人は言葉を通じて世界を認識している。国によって語彙が違うのはそのためである。植物を栽培したり草花を愛でたりする習慣がある国には、緑を表す語彙が多かったりする。言葉を知らない人には全ての植物が雑草に見えるはずだ。

自分の言葉が、自分を作るというのは本当だと思う。求めよ、さらば与えられん。という言葉が本当かどうかはわからないけれど、求めなければ何も与えられないということは本当だと思う。ある物事について自分なりに言葉を尽くすことは、自分の将来の関心の方向づけをする。語らなければ、関心も薄れていくように思う。

芸術は、語り続けるものだと大学の授業で聞いた。千夜一夜物語の語り部、シャハラザードのように。きっと何でもそうなのだと思う。あきらめたくないのなら、語り続けなければいけないのだろう。

詩人は時々詩によって言葉を揺るがす。意味を揺るがす。認識を揺るがす。そして、世界を揺るがす、かもしれない。だから未来に向かって、過去でも今でもいいのだけれど、何かを願い続けること、思い続けること、語り続けることは、決して単なる慰めや綺麗事とは言い切れないものだと思う。コトバを連呼すると、たいへんなことが起こるのだ。

「あたしたちの坊やを

 枯葉の下にかくしたの」

遠いテレビから聞える 

「あたしたちの坊やを

 枯葉の下にかくしたの」

遠いテレビから聞える 

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

コトバを連呼するとどうなる

たいへんなことが起こる

藤井貞和「枯れ葉剤」

 

舞城王太郎『ビッチマグネット』物語についての物語

舞城王太郎の『ビッチマグネット』は、物語についての物語であると思う。物語とは何か、物語に何ができるか、というテーマについて、真面目に考え抜いて書かれた作品だと思う。
そうは言っても難しい内容なわけではなく、思春期から大人へと変わっていく一人の女性を主人公としたストーリーで、浮気やら精神分析やらビッチやら、現代的なエッセンスがそこかしこに散りばめられていて、単純に読み通すだけなら半日もあれば事足りるだろう。だけど、良い小説はみんなそうだけれど、読みながらあれこれいろいろ考え込んでしまう。いろいろなことを考えたくなる。この小説には、そんなついつい考え込んでしまいたくなるようなテーマが山ほど詰め込まれている。「真面目とは何か、ビッチとは何か」、「自分というものはどこにあるのか」「正しさで人を変えられるか」「ある性質の人を引き寄せやすい性格というものはあるのか」「きちんと誰かと向き合うとはどういうことか」「罪の意識はどこから来るのか」などなどエトセトラエトセトラ。
文庫本の裏にネオ青春小説と書いてあるけれど、思春期の後半の頭の中のごちゃごちゃをそのまま詰め込んだような、エネルギーと魅力あふれた群青色の良い小説だった。
その中で、この小説の初めから終わりまでずーっと主人公が考えていることの一つに、物語というものがある。彼女は一度漫画家を目指そうとして、物語を作れずに挫折している。だから物語に対して人並み外れた関心があって、物語に対してあれこれ思いを巡らし続ける。物語というのはどういうものか、物語を作るとは、物語に何ができるか…そろそろ「物語」という文字にゲシュタルト崩壊を起こしそうになってきたけれど、とにかくこの小説は物語についての物語であると思う。
 
それでは、その物語とはどんなものなのだろうか。これにはいろんな人がいろんなことを言っていて、どれが正しいとかどれが間違っているとかスパッと言い切ってしまうことはできないけれど、ここではその学説のあまりのダイナミックさに、吉本隆明に”チンピラ人類学者”とあだ名された山口昌男物語論(のようなもの?)を引用してみる。
 
 (前略)話を素戔嗚=日本武尊のレヴェルに戻すならば、この二人の役割は、王権が混沌と無秩序に直面する媒体であったといえる。従って王が中心の秩序を固めることによって、潜在的に、そうした秩序から排除されることによって形成される混沌を生み出して行くように、王子の役割は、周縁において混沌と直面する技術を開発することによって、混沌を秩序に媒介するというところにある。(中略)律令制のもとに完成された位階制の秩序の中で、常人の政治的世界における運動が昇進という名にことよせた求心運動であったのに対し、王子の運動が、神話論的に遠心的な方向、中心からの離脱によって、王国の精神的な境域を拡大する方に向いていたということは、光源氏の物語の主人公としての境遇の中にも反映されている。
山口昌男『知の遠近法』
ここでは物語とは、中心から周縁へと向かい、周縁を何らかの形で消化して再び中心に戻ってくる、という遠心活動だとされている。そして物語の目的とは、中心からの離脱によって、中心の精神的な境域を拡大することである。これを今舞城王太郎の『ビッチマグネット』に当てはめてみると、中心とは一人称視点の語り手でもある主人公で、周縁とは主人公のトラウマや恋愛、人間関係のゴタゴタなどである。自分のことにかかりっきりだった主人公が、いろんなゴタゴタに首を突っ込んだり突っ込まなかったり、自然と当事者になっていたりしているうちに、次第に視界が広がって、澄み切ったものへとなっていく、大まかに言ってしまえば、これがこの物語の構造だ。そう言ってしまうとあんまりにもシンプルな青春小説、となってしまいそうだけれど、この小説の主人公の、物語への考え方は少しユニークで、面白い。
この小説は主人公が高校生の時点から始まるのだが、大学生になって心理学系の学部に進学した主人公が、トラウマと物語との関係について、次のように言っている。

 

 

 思うに、自分の内なるトラウマを発見することが自分を苦しみから解き放つ…というのはその構造自体が物語で、それを信じている自分とはその物語の登場人物なのだ。だからその語り口にリアリティがあり、それを信じさえすれば、主人公は文脈を阻害されないままある意味予定された通りの、願っている通りのエンディングへと辿り着く。物語としての治療法を読者としての患者が信じれば、物語は読者を取り込み、癒すだろう。

 

 物語というのはそういうふうに人間に働きかけることもあるのだ。
 物理とか科学とか数学とかの分野について私はよく判ってないけど、あらゆる<説>や<概念>が物語でないとも限らないのだ。
 物語を信じることで社会も人生も成り立っているなら、あはは、なんとも呪術的な世界じゃない?
舞城王太郎『ビッチマグネット』

 

 

 僕は今の社会に生まれて、今の社会でしか生きたことがない、というかまだ社会というものをよく知らないけれど、この社会はたくさんの物語であふれている。テレビをつけても本を読んでも映画館に行っても、何らかの物語がそこでは進んでいる。そして誰でも、そのたくさんの物語の中に、幾つかのお気に入りの物語を、信じていたいと思う物語を持っているものではないだろうか。そしてその幾つかの物語を信じながら、自分の人生という大きな一つの物語を作っていく、という主人公の人生への捉え方に、僕は感動した。それってすごく面白いんじゃないかと思う。

大きな物語の中に、無数の小さな物語がある、という話で言えば、『源氏物語』や、ゴダールの映画『フォーエバー・モーツァルト』なんかもそれで、僕はこれからも小さな物語をたくさん集めて自分の大きな物語を作っていけたら、と思う。

ロマンスがありあまる僕たちへ

人って流されやすい生き物だと思う。こだわりがあるとか、譲れないものがあるとか、芯がある人とかいうと、格好良いように思われるし僕もそう思うけど、人は流されやすい生き物だと思う。でもそれは悪いことでは全然なくて、環境適応能力というか、進化の過程で、人間という生き物が、気持ち良く生き延びるために身につけた一つの立派な、大事な能力なのだと思う。

21歳になると、もう十代では全然なくて、ハタチとも違って、そろそろ大人になる準備をしなきゃなあという気が起こってくる。それで、大人ってなんだろうとか考えたり、自分はまだまだ子供だなあとかとか思ったり、こういうことを考えているといつも同じことで悩んでしまうなあといつもと同じように悩んだりしながら、大人っていうのは分別がつくことなのかもと思う。考え方や感じ方、身体の大きさや朝起きた時の気だるさとかは、きっとずっと変わらないのだという予感がある。今となんら変わらない自分のまま、大人としての毎日をうまくやっていく技術、のようなものを身につけられたら、そしたら大人なのだと思う。大人のフリができるようになったら、大人なのだと思うようになった。

十代の頃は、というか本当のところ今でもついつい、自分のやりたいことだとか、なりたい自分だとか、アイデンティティがどうこうとか、”自分”の問題は世界中のどんな事件より人類の歴史より地球の自転よりも重大な問題で、いつもあれこれ悩んで迷って、それを十年近くずっとやっていたら単純に疲れてきて、結局自分のことも人のことも、社会のことも人類の歴史も、何にもわかっていないけれど、大人になって、仕事の一つでも始めたら、きっと毎日やることがたくさんあって、やるべきことをやる時間が増えて、そういう青臭い問題に取り組む時間というのは少なくなって、幾分楽になるかもしれない。何かやることがある、人に会ったり、頭や手を使ってやるべきことがあるというのは、きっと身体は疲れるし、また別のストレスもあるだろうけど、きっと良いことなんだと思う。というか、それ以外に何かやることが人生にあるんだろうか。

自分というのは一人でに自分の心の中にぽこぽこ湧いて出るようなものでもなくて、自分が関係を結んだ諸々のもの、社会、お金、法律、テレビ、好きな歌、住んでいる場所、人間関係、自分の身体、などなどの隙間、そのたくさんの関係の網の一つの結び目くらいのものなのだと思う。

最近はお世話になった先輩方が社会人になって、一個上の先輩も就職活動を始めて、どうしても社会に出て働くってことを意識せざるを得なくなっている。ここでもやっぱり流されている。テレビを見たり雑誌をめくったり街に出たりするといつも思うのだけれど、資本主義社会って徹頭徹尾お金でできているのだと感じる。お金があったら長生きもできるし快適な環境も作れるし、楽しみも増えるしそばにいる人を幸せにすることだってできるし、お金がないとやっぱり引け目を感じたり、不幸だって思っちゃったりするようにできている、か、少なくともそう仕向けられている。この社会の中で生きていくということは、もろもろの価値をお金で測って生きていくということなのではないか。少し違うかもしれないけれど、近いものはあると思う。世の中はお金でできているとしても、人間がお金でできているわけではないから(鉄分は含まれているけど)、本当のところはどうかわからないけれど、若いうちは、とりあえず大学に出てすぐは、あんまり深刻になりすぎずに、一生懸命働いて、とりあえずお金を稼いでみるべきなのだろうと思う。そしたらきっとまた見えてくるものがあるだろうと思う。

だから、少なくともこれから向こう十年くらいは、あんまり深刻になりすぎずに、その時々のやることをやって、思い切り息抜きもして、その時々に訪れる、それなりに楽しいことやそれなりに辛いこと苦しいことを享受して、それで何とかやっていくために、今までに培った楽しみの見つけ方だとか、夢の見方とか、妄想とか想像力とかを総動員して切り抜けていこうと思う次第です。

今回こんな風なもの分かりのいい人ぶった文章を書いたのも、舞城王太郎の『ビッチマグネット』と、南Q太の『こどものあそび』と、柴崎友香の幾つかの小説を読んで、なんとなくいい気分になったからです。

元町夏央『熱病加速装置』を読んで思ったことやあまり関係のないあれこれ

法や秩序に従って生きることは、精神の睡眠だという人がある。しかし、すべてを疑って倦怠の内ににいることは、精神の不眠症であると思う。すべては思いの力一つというか、気の持ちようによってどうとでも見た目が変わるけれど、何でもかんでも底抜けに明るく、失敗すらも成功の母だとか、成長のチャンスだ楽しもうとか言って闇雲に全肯定してしまう人たちに違和感を感じつつも、いつも難しい顔をして口の中でブツブツと愚痴めいた批判をつぶやく風にもなりたくない。センチメンタルがいつか僕の身を滅ぼすのかもしれないけれど、退屈は人を殺すだろうという予感がある。数字だけを生きる意味にはしたくないが、お金は数字で表せる。何事もほどほどが大事だとこの頃よく感じる。

何事もほどほどが大事だ。大事だけれども、そんな風にして過ごす生活は少し頼りなくて、さみしく感じているのも本当だ。
大人になるということは、自分とうまく折り合いをつけることだと思っていた。それはつまり夢ばかり見ていないで、生活をするということなんだと。それで夢見がちな僕は世知辛いなあと落ち込み気味な毎日を過ごしていたのだけどちょっと違うんじゃないかと感じ始めている。夢は夢のまま、幻とも今までに付いた傷とも上手になるべく楽しく気楽につきあっていくしかないんじゃないかと思う。
「芝居がスキ。一瞬の、いのちのスパークに触れられるから。」林あまりという女流歌人が、『MARS⭐︎ANGEL』という処女歌集のあとがきでそう書いている。わたしにとって短歌を作ることも同じようなことだ、と続けている。彼女の作る歌はこの言葉の通りにむき出しで、刹那的で、性的な感情や情景が多く詠み込まれている。そんな「いのちのスパーク」が、人にはきっと必要なのだろうと思う。その言い方ではわかりにくいかもしれないが、ドラマチックな瞬間が、生きててよかったと思える景色が、確かな手触りが必要なのだと思う。非日常と言ってもいいかもしれない。同じものばかりが瞳に映っていると、どうしても色褪せてしまうものだから。昔の人もよくよく言っていたけれど、時間は本当におそろしい。なんでも変えてしまう。この瞬間がいつまでも続いたらいいのにって、これまで何度も願ったことがあるけれど、その瞬間がいつまでも続いたためしはない。そして僕たちはいつだって思いがけない。心の底に隠していた気持ちが、積もり積もってある時変なところから噴き出して止まらなくなったりする。だからガス抜きとしての非日常が、生きることをあきらめてしまわないようにするための素敵な夢が、浮かされてしまう熱病が、きっと必要なんだと思う。元町夏央という漫画家の、『熱病加速装置』という短編を読んでなんだかこんな風に熱っぽいうわごとを書いてしまった。その中でヒロインが言う、「人のさ、ギリギリの瞬間って、素敵だよね」。とても素敵な短編だった。
 はかなくて木にも草にもいはれぬは心の底の思ひなりけり/香川景樹