いろんな読書
2ヶ月ぶりの更新らしい。だけど別に大したことを書くわけじゃありません。読書ってやっぱり楽しいよねって話です。
これまで本を読む時は、この世界に散らばるたくさんの本の中のそのまたたくさんの活字の中から、見える世界が鮮やかに一変するような、あるいは自分を昨日までの自分とはまったくちがう風に作り変えてくれるような、もしくは全肯定してくれるような、そんな魔法のような文章を探していた。命がけと言ってもいいくらいの切実さを持って。
だけど最近なんだかそれはちょっと違うなという気がしてきて、このちょっと違うは何がどう違うのかはわからなくて、小説はフィクションであり、生活や実人生にはなんの関係もない、とかって話をしたいんじゃなくて、そんな風には思ってなくて、ずっと長い間、本の中に書いてある言葉こそが世界だと思い込んでいたような気がしてきて、本の中の言葉と世界はもっとゆるやかな関係で結ばれてるんじゃないかって思うようになった。
どれだけ言葉を尽くしてみても、この世界をまるごと言葉に置き換えることはできなくて、どんな金言名言でも消化しきれない出来事はたくさんあって、かと言ってフィクションが作り出している素敵なこと楽しいこともたくさんあって、まったくのデタラメってわけじゃないって気もしてて。
本を読むことはちょっと寄り道をするっていうより感覚に似ているかもしれない。ひと昔に大流行りしてたくさんの小賢しい青年たちを感化した思想に触れてみたり、格調高い詩を読んで酔いしれてみたり、えげつない性癖を覗いてみたり、敬虔なカトリックになったつもりで考えたり生活してみたり。ちょっと前にはハードボイルド小説を読んだ後に革ジャンを着てタバコをふかすのにはまっていた。9月はまだ暑かった。
サニーデイサービスの苺畑でつかまえてって曲の中で、
見たこともないこんな町で 知らない感情を探してる
なんて歌詞があるのだけど、本を読むときはそんな期待があるのかもしれない。
最近は、知り合ったばかりの、なんだか魅力的で気になる人の身の上話や人生観を聞くような、たまに飲みに行く先輩に悩みを相談してちょっとしたアドバイスをもらうような、どっか遠くにしばらく行って帰ってきた友達のお土産話を聴くような、女子会が行われている部屋のクローゼットにこっそり忍び込んで聞き耳を立てているような、久々にあった友達と最近あった楽しいことや関心事、将来の不安とかぜーんぶ話して夜を明かすような、いろんな気分で本を読んでいる。
近頃はカタログをみたり雑誌を眺めたりするのが好きだ。わかりやすく綺麗にまとめられた情報をチェックして、次お金が入ったらどっか買い物行こうかとか、なんも予定がない日はこういうとこ行ってみようかとか考えるのが素直に楽しい。小説では、流れっぱなしのラジオのような、たまに気になる所もありつつ気軽に読めるものが今の気分で、十年くらい前になんかしらの文学賞を受賞したような、ブックオフの100円コーナーにあるような本を探して読んでいる。
寄り道みたいな、ラジオみたいな、先輩みたいな、謎の水先案内人みたいな、世界地図みたいな、昼にやってるちょっと面白いドラマの再放送みたいな、インスタグラムを眺めるみたいな読書もたまにはいい気持ちだなあって思います。
自転車を盗まれたことがある人・ない人
ふわふわの髪の毛だねってなでてやる自転車を盗まれっぱなしの君だ/岡崎裕美子
くるり『THE WORLD IS MINE』
最近、二年前に水没してからほっったらかしていたiPodが気づいたら直っていて、ときどき不意に音量がMAXになる不具合に怯えながらも、よくイヤホンで音楽を聴くようになった。
コトバを連呼するとどうなる
藤井貞和という詩人がいる。どういう詩人なのか、よくわからない。そもそも詩人を言葉で簡潔に説明することは、できるんだろうか。詩人は詩の中でしか生きていないのだから、詩人の姿は詩の中にしか見られない。詩について、あるいは詩人について、何かを書こうとすると、やたらと抽象的になって、ちっとも要領を得ないので、こまる。
藤井貞和という詩人がいる。ニホン語について、たくさん考えて、たくさんの言葉を吐き出している人だと思う。端正できれいな詩を読むと、言葉を紡ぐ、という言い方がしっくりくるけれど、藤井貞和の詩にその言い方は当てはまらない。もっと、ガサガサしている。これは生き物が作った詩だ、という印象を強く受ける。言葉について、詩について、小説について、都市について、孤独について、時間について、身体の中であるいは宇宙の外でぽっかりと横たわっている空洞から、引っ張り出してきたような言葉の数々。
後来のもので誰かこの孤生のふかみをはかり識ることがあろうとうたったひとがいた 孤独を理解されたときに もう孤独でないことを言いたかったのであろう それぞれの孤独を語り得ないことを哲学したかったのであろう ろうそくのように一匹でぢりぢりともえてゆけ 知り得ぬことのほかは偽りである 藤井貞和「てがみ・かがみ」
よく言葉には霊感が宿るという。言霊というやつである。言葉は自分の運命を決定づけるという。マザーテレサだったかな。僕はこれまでずっと強い願い事があって、それを脇目も振らずに方々で吹聴していた。そんなことを繰り返していていつの間にやらハタチも越えて、望んでいたものはすっかり叶って、今度は死ぬほど安らかな毎日が欲しくなって、ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって、欲しいものはもうないだなんて大口を叩いていたら、なんだか風通しが悪くなってきた。
人は言葉を通じて世界を認識している。国によって語彙が違うのはそのためである。植物を栽培したり草花を愛でたりする習慣がある国には、緑を表す語彙が多かったりする。言葉を知らない人には全ての植物が雑草に見えるはずだ。
自分の言葉が、自分を作るというのは本当だと思う。求めよ、さらば与えられん。という言葉が本当かどうかはわからないけれど、求めなければ何も与えられないということは本当だと思う。ある物事について自分なりに言葉を尽くすことは、自分の将来の関心の方向づけをする。語らなければ、関心も薄れていくように思う。
芸術は、語り続けるものだと大学の授業で聞いた。千夜一夜物語の語り部、シャハラザードのように。きっと何でもそうなのだと思う。あきらめたくないのなら、語り続けなければいけないのだろう。
詩人は時々詩によって言葉を揺るがす。意味を揺るがす。認識を揺るがす。そして、世界を揺るがす、かもしれない。だから未来に向かって、過去でも今でもいいのだけれど、何かを願い続けること、思い続けること、語り続けることは、決して単なる慰めや綺麗事とは言い切れないものだと思う。コトバを連呼すると、たいへんなことが起こるのだ。
「あたしたちの坊やを
枯葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞える
「あたしたちの坊やを
枯葉の下にかくしたの」
遠いテレビから聞える
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
コトバを連呼するとどうなる
たいへんなことが起こる
藤井貞和「枯れ葉剤」
舞城王太郎『ビッチマグネット』物語についての物語
(前略)話を素戔嗚=日本武尊のレヴェルに戻すならば、この二人の役割は、王権が混沌と無秩序に直面する媒体であったといえる。従って王が中心の秩序を固めることによって、潜在的に、そうした秩序から排除されることによって形成される混沌を生み出して行くように、王子の役割は、周縁において混沌と直面する技術を開発することによって、混沌を秩序に媒介するというところにある。(中略)律令制のもとに完成された位階制の秩序の中で、常人の政治的世界における運動が昇進という名にことよせた求心運動であったのに対し、王子の運動が、神話論的に遠心的な方向、中心からの離脱によって、王国の精神的な境域を拡大する方に向いていたということは、光源氏の物語の主人公としての境遇の中にも反映されている。山口昌男『知の遠近法』
思うに、自分の内なるトラウマを発見することが自分を苦しみから解き放つ…というのはその構造自体が物語で、それを信じている自分とはその物語の登場人物なのだ。だからその語り口にリアリティがあり、それを信じさえすれば、主人公は文脈を阻害されないままある意味予定された通りの、願っている通りのエンディングへと辿り着く。物語としての治療法を読者としての患者が信じれば、物語は読者を取り込み、癒すだろう。
物語というのはそういうふうに人間に働きかけることもあるのだ。物理とか科学とか数学とかの分野について私はよく判ってないけど、あらゆる<説>や<概念>が物語でないとも限らないのだ。物語を信じることで社会も人生も成り立っているなら、あはは、なんとも呪術的な世界じゃない?舞城王太郎『ビッチマグネット』
僕は今の社会に生まれて、今の社会でしか生きたことがない、というかまだ社会というものをよく知らないけれど、この社会はたくさんの物語であふれている。テレビをつけても本を読んでも映画館に行っても、何らかの物語がそこでは進んでいる。そして誰でも、そのたくさんの物語の中に、幾つかのお気に入りの物語を、信じていたいと思う物語を持っているものではないだろうか。そしてその幾つかの物語を信じながら、自分の人生という大きな一つの物語を作っていく、という主人公の人生への捉え方に、僕は感動した。それってすごく面白いんじゃないかと思う。
ロマンスがありあまる僕たちへ
人って流されやすい生き物だと思う。こだわりがあるとか、譲れないものがあるとか、芯がある人とかいうと、格好良いように思われるし僕もそう思うけど、人は流されやすい生き物だと思う。でもそれは悪いことでは全然なくて、環境適応能力というか、進化の過程で、人間という生き物が、気持ち良く生き延びるために身につけた一つの立派な、大事な能力なのだと思う。
21歳になると、もう十代では全然なくて、ハタチとも違って、そろそろ大人になる準備をしなきゃなあという気が起こってくる。それで、大人ってなんだろうとか考えたり、自分はまだまだ子供だなあとかとか思ったり、こういうことを考えているといつも同じことで悩んでしまうなあといつもと同じように悩んだりしながら、大人っていうのは分別がつくことなのかもと思う。考え方や感じ方、身体の大きさや朝起きた時の気だるさとかは、きっとずっと変わらないのだという予感がある。今となんら変わらない自分のまま、大人としての毎日をうまくやっていく技術、のようなものを身につけられたら、そしたら大人なのだと思う。大人のフリができるようになったら、大人なのだと思うようになった。
十代の頃は、というか本当のところ今でもついつい、自分のやりたいことだとか、なりたい自分だとか、アイデンティティがどうこうとか、”自分”の問題は世界中のどんな事件より人類の歴史より地球の自転よりも重大な問題で、いつもあれこれ悩んで迷って、それを十年近くずっとやっていたら単純に疲れてきて、結局自分のことも人のことも、社会のことも人類の歴史も、何にもわかっていないけれど、大人になって、仕事の一つでも始めたら、きっと毎日やることがたくさんあって、やるべきことをやる時間が増えて、そういう青臭い問題に取り組む時間というのは少なくなって、幾分楽になるかもしれない。何かやることがある、人に会ったり、頭や手を使ってやるべきことがあるというのは、きっと身体は疲れるし、また別のストレスもあるだろうけど、きっと良いことなんだと思う。というか、それ以外に何かやることが人生にあるんだろうか。
自分というのは一人でに自分の心の中にぽこぽこ湧いて出るようなものでもなくて、自分が関係を結んだ諸々のもの、社会、お金、法律、テレビ、好きな歌、住んでいる場所、人間関係、自分の身体、などなどの隙間、そのたくさんの関係の網の一つの結び目くらいのものなのだと思う。
最近はお世話になった先輩方が社会人になって、一個上の先輩も就職活動を始めて、どうしても社会に出て働くってことを意識せざるを得なくなっている。ここでもやっぱり流されている。テレビを見たり雑誌をめくったり街に出たりするといつも思うのだけれど、資本主義社会って徹頭徹尾お金でできているのだと感じる。お金があったら長生きもできるし快適な環境も作れるし、楽しみも増えるしそばにいる人を幸せにすることだってできるし、お金がないとやっぱり引け目を感じたり、不幸だって思っちゃったりするようにできている、か、少なくともそう仕向けられている。この社会の中で生きていくということは、もろもろの価値をお金で測って生きていくということなのではないか。少し違うかもしれないけれど、近いものはあると思う。世の中はお金でできているとしても、人間がお金でできているわけではないから(鉄分は含まれているけど)、本当のところはどうかわからないけれど、若いうちは、とりあえず大学に出てすぐは、あんまり深刻になりすぎずに、一生懸命働いて、とりあえずお金を稼いでみるべきなのだろうと思う。そしたらきっとまた見えてくるものがあるだろうと思う。
だから、少なくともこれから向こう十年くらいは、あんまり深刻になりすぎずに、その時々のやることをやって、思い切り息抜きもして、その時々に訪れる、それなりに楽しいことやそれなりに辛いこと苦しいことを享受して、それで何とかやっていくために、今までに培った楽しみの見つけ方だとか、夢の見方とか、妄想とか想像力とかを総動員して切り抜けていこうと思う次第です。
今回こんな風なもの分かりのいい人ぶった文章を書いたのも、舞城王太郎の『ビッチマグネット』と、南Q太の『こどものあそび』と、柴崎友香の幾つかの小説を読んで、なんとなくいい気分になったからです。
元町夏央『熱病加速装置』を読んで思ったことやあまり関係のないあれこれ
法や秩序に従って生きることは、精神の睡眠だという人がある。しかし、すべてを疑って倦怠の内ににいることは、精神の不眠症であると思う。すべては思いの力一つというか、気の持ちようによってどうとでも見た目が変わるけれど、何でもかんでも底抜けに明るく、失敗すらも成功の母だとか、成長のチャンスだ楽しもうとか言って闇雲に全肯定してしまう人たちに違和感を感じつつも、いつも難しい顔をして口の中でブツブツと愚痴めいた批判をつぶやく風にもなりたくない。センチメンタルがいつか僕の身を滅ぼすのかもしれないけれど、退屈は人を殺すだろうという予感がある。数字だけを生きる意味にはしたくないが、お金は数字で表せる。何事もほどほどが大事だとこの頃よく感じる。
はかなくて木にも草にもいはれぬは心の底の思ひなりけり/香川景樹