舞城王太郎『ビッチマグネット』物語についての物語
(前略)話を素戔嗚=日本武尊のレヴェルに戻すならば、この二人の役割は、王権が混沌と無秩序に直面する媒体であったといえる。従って王が中心の秩序を固めることによって、潜在的に、そうした秩序から排除されることによって形成される混沌を生み出して行くように、王子の役割は、周縁において混沌と直面する技術を開発することによって、混沌を秩序に媒介するというところにある。(中略)律令制のもとに完成された位階制の秩序の中で、常人の政治的世界における運動が昇進という名にことよせた求心運動であったのに対し、王子の運動が、神話論的に遠心的な方向、中心からの離脱によって、王国の精神的な境域を拡大する方に向いていたということは、光源氏の物語の主人公としての境遇の中にも反映されている。山口昌男『知の遠近法』
思うに、自分の内なるトラウマを発見することが自分を苦しみから解き放つ…というのはその構造自体が物語で、それを信じている自分とはその物語の登場人物なのだ。だからその語り口にリアリティがあり、それを信じさえすれば、主人公は文脈を阻害されないままある意味予定された通りの、願っている通りのエンディングへと辿り着く。物語としての治療法を読者としての患者が信じれば、物語は読者を取り込み、癒すだろう。
物語というのはそういうふうに人間に働きかけることもあるのだ。物理とか科学とか数学とかの分野について私はよく判ってないけど、あらゆる<説>や<概念>が物語でないとも限らないのだ。物語を信じることで社会も人生も成り立っているなら、あはは、なんとも呪術的な世界じゃない?舞城王太郎『ビッチマグネット』
僕は今の社会に生まれて、今の社会でしか生きたことがない、というかまだ社会というものをよく知らないけれど、この社会はたくさんの物語であふれている。テレビをつけても本を読んでも映画館に行っても、何らかの物語がそこでは進んでいる。そして誰でも、そのたくさんの物語の中に、幾つかのお気に入りの物語を、信じていたいと思う物語を持っているものではないだろうか。そしてその幾つかの物語を信じながら、自分の人生という大きな一つの物語を作っていく、という主人公の人生への捉え方に、僕は感動した。それってすごく面白いんじゃないかと思う。
ロマンスがありあまる僕たちへ
人って流されやすい生き物だと思う。こだわりがあるとか、譲れないものがあるとか、芯がある人とかいうと、格好良いように思われるし僕もそう思うけど、人は流されやすい生き物だと思う。でもそれは悪いことでは全然なくて、環境適応能力というか、進化の過程で、人間という生き物が、気持ち良く生き延びるために身につけた一つの立派な、大事な能力なのだと思う。
21歳になると、もう十代では全然なくて、ハタチとも違って、そろそろ大人になる準備をしなきゃなあという気が起こってくる。それで、大人ってなんだろうとか考えたり、自分はまだまだ子供だなあとかとか思ったり、こういうことを考えているといつも同じことで悩んでしまうなあといつもと同じように悩んだりしながら、大人っていうのは分別がつくことなのかもと思う。考え方や感じ方、身体の大きさや朝起きた時の気だるさとかは、きっとずっと変わらないのだという予感がある。今となんら変わらない自分のまま、大人としての毎日をうまくやっていく技術、のようなものを身につけられたら、そしたら大人なのだと思う。大人のフリができるようになったら、大人なのだと思うようになった。
十代の頃は、というか本当のところ今でもついつい、自分のやりたいことだとか、なりたい自分だとか、アイデンティティがどうこうとか、”自分”の問題は世界中のどんな事件より人類の歴史より地球の自転よりも重大な問題で、いつもあれこれ悩んで迷って、それを十年近くずっとやっていたら単純に疲れてきて、結局自分のことも人のことも、社会のことも人類の歴史も、何にもわかっていないけれど、大人になって、仕事の一つでも始めたら、きっと毎日やることがたくさんあって、やるべきことをやる時間が増えて、そういう青臭い問題に取り組む時間というのは少なくなって、幾分楽になるかもしれない。何かやることがある、人に会ったり、頭や手を使ってやるべきことがあるというのは、きっと身体は疲れるし、また別のストレスもあるだろうけど、きっと良いことなんだと思う。というか、それ以外に何かやることが人生にあるんだろうか。
自分というのは一人でに自分の心の中にぽこぽこ湧いて出るようなものでもなくて、自分が関係を結んだ諸々のもの、社会、お金、法律、テレビ、好きな歌、住んでいる場所、人間関係、自分の身体、などなどの隙間、そのたくさんの関係の網の一つの結び目くらいのものなのだと思う。
最近はお世話になった先輩方が社会人になって、一個上の先輩も就職活動を始めて、どうしても社会に出て働くってことを意識せざるを得なくなっている。ここでもやっぱり流されている。テレビを見たり雑誌をめくったり街に出たりするといつも思うのだけれど、資本主義社会って徹頭徹尾お金でできているのだと感じる。お金があったら長生きもできるし快適な環境も作れるし、楽しみも増えるしそばにいる人を幸せにすることだってできるし、お金がないとやっぱり引け目を感じたり、不幸だって思っちゃったりするようにできている、か、少なくともそう仕向けられている。この社会の中で生きていくということは、もろもろの価値をお金で測って生きていくということなのではないか。少し違うかもしれないけれど、近いものはあると思う。世の中はお金でできているとしても、人間がお金でできているわけではないから(鉄分は含まれているけど)、本当のところはどうかわからないけれど、若いうちは、とりあえず大学に出てすぐは、あんまり深刻になりすぎずに、一生懸命働いて、とりあえずお金を稼いでみるべきなのだろうと思う。そしたらきっとまた見えてくるものがあるだろうと思う。
だから、少なくともこれから向こう十年くらいは、あんまり深刻になりすぎずに、その時々のやることをやって、思い切り息抜きもして、その時々に訪れる、それなりに楽しいことやそれなりに辛いこと苦しいことを享受して、それで何とかやっていくために、今までに培った楽しみの見つけ方だとか、夢の見方とか、妄想とか想像力とかを総動員して切り抜けていこうと思う次第です。
今回こんな風なもの分かりのいい人ぶった文章を書いたのも、舞城王太郎の『ビッチマグネット』と、南Q太の『こどものあそび』と、柴崎友香の幾つかの小説を読んで、なんとなくいい気分になったからです。
元町夏央『熱病加速装置』を読んで思ったことやあまり関係のないあれこれ
法や秩序に従って生きることは、精神の睡眠だという人がある。しかし、すべてを疑って倦怠の内ににいることは、精神の不眠症であると思う。すべては思いの力一つというか、気の持ちようによってどうとでも見た目が変わるけれど、何でもかんでも底抜けに明るく、失敗すらも成功の母だとか、成長のチャンスだ楽しもうとか言って闇雲に全肯定してしまう人たちに違和感を感じつつも、いつも難しい顔をして口の中でブツブツと愚痴めいた批判をつぶやく風にもなりたくない。センチメンタルがいつか僕の身を滅ぼすのかもしれないけれど、退屈は人を殺すだろうという予感がある。数字だけを生きる意味にはしたくないが、お金は数字で表せる。何事もほどほどが大事だとこの頃よく感じる。
はかなくて木にも草にもいはれぬは心の底の思ひなりけり/香川景樹
外に出たいと思った
素直な心でしゃべりたいと思う。自分の声で話したいと思う。
毒にも薬にもならなくて、誰かの心を動かすわけでもなくて、新しい発見でもなんでもなくて、どちらかといえば言わなくてもいいこと。そんなことを大事にしたいと思う。そんなことを誰かにしゃべりたいと思う。
ここ数日また寒い日が続いているけれど、ふとした時に道端にタンポポの花が咲いていたり、バッチリ花粉が飛びまくっていて鼻をかみすぎてぼんやりとだけど頭が痛かったりして、確かに春が近づいていると感じる。頭の痛さで春を感じるというのはなんだかおかしいと思うけれど、僕は頭の痛さで春を感じている。
ここ数ヶ月は外が寒かったので、僕はずっと家の中にいた。難しい本を読んだり、映画をたくさん観たり、些細なことでいじけていたり急に元気を出したり寝付けなかったり半日以上ぶっ通しで眠りこけていたりした。人生ってなんだろうとか大げさなことを大真面目に考えようとして身体がふっと浮き上がるような怖い気持ちになったりした。昔観ていたテレビ番組が無性に懐かしくなったり、名古屋市熱田区にある忘れ去られた格好の、家から遠かったから2回しか行ったことなかったけど好きだったゲームセンターに行きたくなったり、古本市場という風情がある名前のブックオフ的な商業施設にちょくちょく足を運んで、よく知らないアイドルの写真集を数百円で買ってなんとなく眺めるのにハマったりしていた。古本市場は、普通の少年漫画とかはブックオフより高いけれど、松本大洋とかのちょっと大型の漫画なんかがたまにびっくりするくらいに安い。
僕は本を読むのが好きでほっとくと次から次へといろんな本を読み散らかす習性があるのだけれど、本にはいろんな種類のものがある。それぞれ固有の性格がある。だから人間そっくりだと思う。学校のクラスに派手な人や地味な人、乱暴な人暗い人、何も考えていない人やおしゃべり好きな人とか、いろんな人がいて、それぞれでグループを作るように、本にもいろんな性格のものがあって、それぞれなんとなくグループを作っているように見える。賢い頭を持て余しすぎたのか、側から見たら気難しいマニアにしか見えないけれど何やらすごいことを考えている人たちのグループが書いたような本をたくさん読んだ。あんまりよくわからなかったけど、熱心にいろいろ読んだ。世界は小さな粒が寄り集まってできているんだと思った。そう思うと今自分がいる部屋の中にも、朝の弱い光の搾りかすのような粒が充満しているように見えてくるのが不思議だ。ジョルジュスーラの絵を思い出した。こういうことを言うのはなんだか気恥ずかしい。自分の感じたことだとか、考えたことを正直に話すのは少し勇気がいることだと思う。わかってもらえないかもしれないし、痛いやつだと馬鹿にされるかもしれない。だけどそういう風に思えたり感じたりしてしまうのはどうしようもなく本当だから、あんまり隠したくないと思う。友達でも恋人でも家族でも、付き合いが長くなっていくにつれて、話せなくなることが多くなるような気がする。お互いの間の関係性が次第にはっきりしていくにつれて、その枠組みからはみだせなくなるというか、うまく言えないけれど、親密な関係にある人といるときはなぜか心底ぼーっとしてしまう。多分これはこちら側の問題で、なんとかしたいと思う。変な言い方かもしれないけれど、いつも六回目に会うときのような、なんでも話せる、自分のことをちゃんと話したくなるし相手の話もちゃんと聞きたくなるような、フラットな関係性を保てるようになりたいと思う。
最近、頭の中がごちゃごちゃしたもので凝り固まっていてなんとなく沈んだ気持ちでずっといたけれど、ここ数日とても風通しの良い小説を読んで晴れ晴れとした嬉しい気持ちになっていて、誰かとどこかに出かけて、たわいのない話をいっぱいしたいと思う。あんまり乗らない電車かバスに乗って、知らない駅で降りて、あとで見返したりもしなさそうななんでもない写真をいっぱい撮ったりしたいと思う。あと、中華料理が食べたい。新しい靴が欲しい。おもしろい漫画が読みたい。
正しく考えるとはどういうことか
最近考えていることがある。「考える」とはどういうことなのか、ということだ。また、「思考力」とはどんなものなのか。
思考力があるといった場合、だいたい正しく考える能力があるという意味だが、正しく考えるとはどういうことなのか。正しい結論にたどり着けることなのか、筋の通った道筋を順序よく辿ることができることなのか、粘り強く問いにしがみつくことができることなのか、僕にはよくわからない。
考えることとわかることとは、密接に関わっているように思える。しかし、なにかについて考えて、なにかをわかったと思ったことは、ほとんどないような気がする。なにかをわかったと感じるときはたいてい、外からのきっかけ、思いがけない出来事だとか、たまたま読んだ本の一節だとか、友人の何気ない一言によってもたらされることが多い。だけれども、それがなにかのきっかけによって不意にわかるということは、以前にそれについて考えたことが、考えようとしたことがあったからで、そのときはまったくわからないという結論に達したのだとしても、一度自分の中でそれについての問いを立てたことがあり、頭のどこかにひっかかっていたためにある時他の何かに結びついてあるまとまった考えが閃いたのだと思う。
だから、考えるということは問いをたてるということから出発する。言い換えると、あることが気になる、というところに端を発する。そして、わかるということには、とにかく時間がかかる。問いに対して、ちゃんとした筋道を立てて、じっくりと粘り強く考えていたら、必ずわかるというものではない。そういったものであるのならば、それは初めからわかっていたことなのだと思う。わかることと知っていることもまた違って、地動説はみんな知っているけれども、地球が毎秒すごい速さで自転をしているということをわかっている、実感しているひとはいないんじゃないかと思う。
考えるということは、A=B、B=CだからA=Cであるといった風に物事を繋げて回答をみちびき出すということだけではなく、もっと曖昧なものなのではないだろうか。僕は、とにかく頭の中に問いを放り込んでおく、そうするとある時急にわかることがある、そういうものだと思う。
そうやって僕が身につけてきたたくさんの知っていること、わかったことは、本当は全部誤解かも知れない。僕の考え方は正しくないのかも知れない。本当はすごく恥ずかしいことを言っているのかも知れない。正しく考える、より善く生きるということにとことん拘った人にプラトンがいる。彼の書いたものは数冊しか読んでいないが、彼は誰から見ても同じ物、明らかな物、間違っていない、矛盾がない物を正しいものだとしている。ように僕には思える。たとえば客観的な数字だとかイデアだとかそういうものだ。これはそもそも、この世には正解がある、どこかに真理がある、ということへの強い信頼に裏打ちされている考え方であって、真理などどこか遠くに吹き飛んで、神話は色褪せ神様は死んでしまった現代において、正解なんてものは存在しないのかも知れない。正解が存在しないのだとしたら、間違いなんてものも存在しないのかも知れない。そうなると、今の僕達がするべきことは、各々が勝手にあれこれ考えて、たくさんの誤解を身につけることなのかもしれない。学校で教えられたことは、あれは間違いだったと気づくときがある。だけどそれは、ある誤解から他の誤解へと、すり替えられただけなのかもしれない。現代思想なんていうのも、言葉の枠組みの中だけで完結した、まったくのでたらめなのかもしれない。みんながすでに好き勝手にでたらめをわめきちらしているだけなのかもしれない。二十歳を過ぎても、世の中わからないことばかりだと思う。
春の胸のざわめきについて
春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり西行法師「夢の中の落花」への題詠
グザヴィエ・ドラン『胸騒ぎの恋人(2010)』
時間とはいったいどのようなものであろうか。僕達の存在はこの時間というなにやら得体の知れない物と密接な関わりを持ちながらも、時間についてきちんと考えてみたことのある人というのは案外少ないように思う。僕達のうちのほとんどは、時間についてよく知っているとは言い難い。しかし、僕達は皆、時間の中に生きている。
「時間」というものは、断じて時計が刻む均質な時間とイコールではなくて、時計の時間は、早い話が労働のための時間である。労働のための時間であって、僕達が生きるための「時間」ではない。僕達の生きている「時間」というものは、チクタクと針が進む音に合わせて未来から過去へ一直線に、無機質に、均等に過ぎ去ってしまうといった性質の物ではない。小学生の頃の、夏休みの何もすることがない一日のことを思い出してみて欲しい。やるべきことから遠く離れて、気の赴くままに過ごす時間と言うのは、なにかこう膨れ上がって、静止しているようには思われなかっただろうか。そしてその頃の時間は、決して過ぎ去ってしまって二度と帰ってこないものではなく、今でも身体のどこかに残ってはいないだろうか。時間と言うのは、伸縮性があり、一様に流れるものではなく、降り積もるようなもので、ある一人の個人と言うのは、それまでに堆積した時間の集合体である、とすら言えるかもしれない。時間と言うのは万人に共通してつれなく通り過ぎてしまうものではなく、一人一人が一つの時間なのである、と。
グザヴィエ・ドラン監督『胸騒ぎの恋人』は、いわゆる男女の三角関係の物語であるが、その内訳は男・男・女であり、親友同士である男女(フランシスとマリー)が、一人の男(ニコラ)に同時に惚れてしまうのである。この時点で巷に星の数ほど溢れているメロドラマとはちょっとわけが違うことが伺えるが、この映画の魅力は奇抜な設定などではない。DVDのパッケージにもすでに仄見える小洒落た色彩感覚が全編を通して漲っており、よく晴れた休日の昼下がりにボーッと観るお洒落映画としても気楽に観ることができる。また、国や時代を越えて様々な歌手によって歌われている味わい深い名曲"Bang Bang"が全編を通して繰り返し流れるのだが、その時々のシチュエーションや、役者たちの表情によって、曲の聴こえ方が少しずつ変わっていくのがおもしろい。ちなみにこの曲は、タランティーノの『キル・ビル』でも使われていた。
また、この映画の、というかグザヴィエ・ドランの大きな特徴の一つに、スローモーション撮影がある。この作品でもお得意のスローモーション撮影が随所で効果的に使われている。スローモーション撮影というと、大げさで邪魔臭く感じるかも知れないが、この映画ではまったく気にならないどころか、大きな魅力となっている。ある日ある時ふと、目の前の景色をこれからの人生できっと何度も思い出すことになるだろう、とわかってしまう瞬間があるだろう。その刹那、時間は流れるのをやめてしまう。その一瞬は、その後の全人生に匹敵してしまうほどの密度を持って充足している。これは、安い感傷に過ぎないのかもしれないが、そのような瞬間は、誰もが身に覚えがあるものではないだろうか。この映画の主人公であるフランシスとマリーも、恋のもたらす歓びや悲しみの中で、そのような瞬間を経験する。そしてその時、スローモーションが使われるのである。この映画の中のいくつかのスローモーションのシーン、それは僕にとって忘れ難く感動的な映画体験である。今回、長々と時間についての前書きを書いたのはこのスローモーションの魅力を伝えたかったからだ。
また、フランシスとマリーの二人に惚れられる美青年ニコラの魅力はそのままこの映画の魅力の一つになっている。明るく、屈託がなく、無邪気で社交的な美青年ニコラ。フランシスもマリーも彼と居るときはいつも楽しく、見るものすべてが意味を持ち、この瞬間がいつまでも続けばいいと思ってしまう。ニコラとの交流を通して、フランシスとマリーの世界は輝き出す。そして仲が深まるにつれ、離れたくないと願うようになる。すると歓びにあふれていたはずの世界が途端にその色を失う。それまでの溢れんばかりの喜びにかえて、それと同量の不安や嫉妬、切なさが身を裂こうとする。しかし、一度ニコラと会うと、世界はまたまた色彩を取り戻す。”恐るべき子ども”ニコラは、フランシスとマリーにとって、「胸騒ぎの恋人」などである。いま、ニコラを”恐るべき子ども”と表現してみたが、この映画の不思議なところは、主人公の一人がゲイの男であるにも関わらず、社会的な問題提起といった様相はまったく感じられず、そしてまったく不自然でもない。というか、そもそもこの映画にはあまり”男”や”女”といった性別が感じられない。ニコラは美青年であるが、中性的な顔立ちであり、彼が人を惹き付けるのは、その無邪気な楽しさ、彼といるといつも楽しいからであり、男らしさなどは問題となっていない。この映画で描かれる”恋”は、人間がまだ男と女に分けられていない時代、男が女を好きになり、女が男を好きになるのではなく、人が人を好きになる、惹き付けられるといった、子ども時代のそれなのではないだろうかと観ていて思った。そしてそれは僕にジャン・コクトーの小説『恐るべき子どもたち』を思い出させた。活字アレルギーの方は萩尾望都の漫画版もおすすめである。興味のある方は是非この映画と合わせて見てみて欲しい。